青い橋の上で
本来は短編として読み切りで掲載したいのですが、一気に読んでいただくには長すぎるので三話に分けてUPします。
「あのここでいいです、降ろしてもらえませんか」
隅田川にかかる永代橋を渡りはじめて三分もたたないところで、乗客の年配の女性はいきなりタクシーの運転手に声をかけた。
「え? あ、ここは無理です、橋の上ですからね。今急停車なんかしたら、後続の車に追突されちゃいますよ」
「そう、それじゃ仕方ないわね。渡り切ったところで降ろしてください」
そう言って彼女は視線を外に向けた。
夜の隅田川に、高層ビルの灯りがネオンのように照り映えている。
車の中は甘いバラの香りで満たされていた。
某ホテルの車寄せから乗り込んだこの女性は、荷物は大きめのショルダーバッグ一つと、胸に抱いた小さな赤いバラの花束だけだった。
カーキ色のスプリングコートを着て、顔は妙に紅色に染まり、足元はふらついていた。
永代橋まで、と言われた時も、夜十時過ぎの行き先としては妙なものを感じたのだが、急に行く先を橋の真ん中に指定してきたことで胸には嫌な予感が膨らんでいた。
言われた通り、橋を渡り切ったところで左に寄せて車を止める。女性は現金で会計を済ませ、「どうも」と花束を胸にタクシーを降りようとして、前のめりに転びかけた。
「大丈夫ですか」思わず運転手が声をかけると
「ちょっとお酒が足に来ちゃって。大丈夫です、ありがとう」
老女は今来たばかりの橋を、ゆらゆらした足取りで戻り始めた。
長年タクシーの運転手をしていれば、どんな訳あり客でも、はた迷惑な泥酔客以外は、とにかく目的地まで送るだけ。何の詮索もしない、それを信条としていた。
だが窓から体を乗り出してみると、暗闇の中、彼女の細いシルエットはふらふらと、でも確実に、橋の中央に向かって歩みを進めていく。そのさまに、なんとも不吉な予感を禁じ得ない。
関係ない。自分には乗客の人生にかかわる義務はない。きりがない。だが……。
運転手は帽子を深めにかけなおすと、スマホを手に取った。
橋のちょうど中ほどで、灰色の髪を後ろで一つにまとめた女性はひたすら目の前の夜景を見つめていた。
隅田川に色とりどりの灯りを映す高層ビルの群れは、こちらに向けて三角形の地形の切っ先を向けている。冷気を感じる都会の鋭角的な美。シャンデリアのような高層ビルの光は、まっくらな水面に反射して、光の筋を幾本も立てていた。
「あのう、すみません」
ふいに背後から男性の声で話しかけられて、女性は手の中のバラの花を取り落としそうになった。
振り向いてみると、よく年齢のわからない、なんとなく大学生風の前髪の長い白シャツの男性が、黒のボディバッグを斜め掛けにして突っ立っている。
「はい、何か」警戒気味に答えると
「突然すみません。あの、スマホどこかに落としちゃったみたいで。今何時かわかるでしょうか」
「ああ、時間? ちょっと待って」
女性はコートのポケットからスマホを出した。
「十時半です」
「そうですか。どうもありがとうございます」
そう答えた青年は、なぜかすぐにはその場を立ち去らなかった。そして言葉を付け加えた。
「ここからの夜景、お好きなんですか」
「ええ、とても綺麗だから」
「ここって隠れた夜景の名所なんですよね。僕も夜景撮ろうとわざわざここを通ったのに、いつの間にかスマホ落としたらしくて」
「それは残念ね」
淡々とそう言うと、川向こうに林立するタワーを指さして女性は尋ねた。
「あそこに建ってるの、みんなオフィスビルかしら」
「いや、オフィスビルもあるけど、あのキラキラしてるのはだいたいがイースト21っていう、まあ億ションの群れですよ」
「そう。窓の灯りがきれいね。でも、それぞれの窓の中には窓の数だけ、いろんな幸せや不幸せがあるんでしょうね」
「……そうですね」
女性は、青年のボトルホルダーに水のボトルがさしてあるのを見ると、あ、という風に瞳を広げた。
「あのね。会ったばかりの人にとてもぶしつけなことを頼むけれど」
「はい?」
「そのお水、売ってくれない?」
「これ? え、このボトルの水ですか?」
「そう。おいくらしたの?」
「おいくらっていうか、ただの水なんで百円ですよ。喉が渇いてるんですか?」
「そうじゃないんだけど、あのね、バラが可哀相だから」
「その赤いバラですか?」
「自分で買ったんじゃないのよ。あのホテルのバーでひとりで飲んでてね、バーテンダーさんに酔ったついでに無駄口叩いちゃって。今日は私の誕生日なの、自分で自分をお祝いするために来たのよ、一人ぼっちだから。って言ったら、カウンターの隅に飾ってあったこの花をリボンでくくって、お誕生日のお祝いにって」
「粋な計らいですね」
「そう、きょうで七十二歳のおばあちゃんにねえ。ちょっとグッときちゃったわ」
「持ち帰るまで持たせるために、ティッシュか何かに水をしみこませればいいわけですか?」
「いえ、それごとちょうだい。お金は、じゃあ二百円払うわ」
「いや、さしあげますよ水ぐらい」
「あなたが飲むために買ったものを横取りするんだもの。たかが二百円よ、受け取って」
強引に手のひらに百円玉を二つ乗せられて仕方なく握りしめると、青年はボトルを差し出した。
「ありがとう」
そして、目の前でボトルのキャップを外し、バラの小さな花束を突っ込もうとする彼女を見て、青年は慌てて言った。
「それは無茶ですよ、入り口が小さいから。ここで活けたいんですか?」
「そう、ここで」
「じゃ、ちょっと待って」
青年はボディバッグのサイドポケットから小さな鋏を出すと、器用にボトルの上部をスパンと切った。入り口まで入っていた水が零れ落ちる。
「ありがとう、これなら入るわ」
そうしてバラの花束をボトルに丁寧にさすと、橋の向こうの夜景を見てから、バラの入ったボトルを足元に置いた。
青年は戸惑ったような表情で目の前の女性の奇妙な行動を見守っていた。
「持って帰らないで、そこに置くんですか?」
「以前ね」
女性はバラを整えながら、つぶやくように言った。
「夫と、去年の今頃かな、この橋に来たことがあるのよ。私が夜景が見たいって言ったの。そしたら、ここに、小瓶にさした赤いカーネーションがあったのよ」
「へえ。それって……」
「夫も私も黙り込んじゃってね。
ぽつりと夫が、誰かの大事な人がいなくなったんだねってつぶやいたの。その夫ももう、いないんだけど」
「……」
「お花を供えられた人には、思ってくれる人、忘れないでいてくれる人がいたってことよね。でも、本当のひとりぼっちだと、ここが最後の場所だと誰かに気づいてもらえるお花も、置いてはもらえない」
「そう……ですけど」
青年はしばらく考えてから、言った。
「花は、取り残された人の心の慰めのために置くんじゃないかな。逝ってしまった人は、誰もみな同じに、寂しくも悲しくも苦しくもないと思います」
女性は青年の切れ長の目をひたと見た。
「あなたのお名前、聞いてなかったわ」
青年は目の前の七十二歳の女性の視線に押されるように背を正し、答えた。
「水谷玲央です」
「あなたはいい人ね」
言葉を失っていると、女性は言った。
「じゃあ、玲央くん。お付き合いありがとう。おしゃべりはここまでにしましょう。お酒のせいか、ちょっとしゃべりすぎたわ。どうぞもう、行ってちょうだい」
「……」
「私を一人にして」
水谷玲央は、女性の足元のバラを見て、思い切って言った。
「あなたはもしかして、あなた自身のためにそれを」
「人間は時々突飛な行動をするものよ。いちいちそう勘繰らないで」
「あなたのお名前を聞いていません。僕だけ名乗ってるの、変じゃないですか」
「言わなくちゃダメなの?」不快そうに女性は言った。
「言わないなら」青年はかがんでバラの活けられたボトルを持ち上げると、言った。
「これはもともと僕の水なんで。僕が持ち帰ります」
女性はあわてて抗議した。
「何言ってるの。それは私のバラよ?」
「バラの置き場所が、あなたの今日の行き先でしょう?」
「どうでもいいじゃない。そういう台詞はね、二十七歳の女性にでも言いなさいよ。私は七十二よ」
「関係ないですよ」
「返してよ」
「じゃ、名前はいいとして。ちょっと、お話ししませんか」
「話ならもうしたじゃない」
「この橋を対岸に渡って、そう、聖路加病院側ですね。川岸に降りると、さらに隅田川の夜景は綺麗ですよ。ベンチもあります。そしてバラもついてくる。おせっかいな僕もね。こんな夜だって、あっていいんじゃないですか」
女性は眉を顰めると、言った。
「あなた、どこから来た人? ていうか、誰なの? 何が目的?」
水谷玲央は茶色い前髪をかき上げてかすかに笑った。よく見ると、涼し気な眼差しの、整った顔立ちの青年だった。
「じゃあ正体バラしましょうか。
僕のおやじはタクシー運転手です。さっきあなたの乗ったタクシーのね。そして僕は今、こういう職業についてます」
そして一枚の名刺を渡した。
暗がりの中、橋の青い照明で女性はその名刺の字を読んだ。
『レンタル あなたのためにほとんど何もしない人 Leo』
……あなたのためにほとんど何もしない人?
「これに近いことしてる人の話、聞いたことがあるわ」上目遣いに青年を見上げて女性は言った。
「レンタル何もしない人、ですね。あれが結構需要があると聞いて、ちょいと真似させてもらったんですよ」
「あなたみたいな容姿なら、もちょっとましに稼げる仕事もあるでしょうに」
「高校卒業と同時に両親が離婚したんで。親父からは最低限の仕送りだけはもらって独立して、最初はスカウトされるままにホストやったんですよ。高校時代遊んでばっかりで、大学に行く気もなかったしね。
でも、いろんな意味で仲間同士の足の引っ張り合いとか姫(お客)のあしらいとか、きつすぎて続けられなかったんです。金は稼げたんですけどね。
今はこんな地味な仕事でも、けっこう仕事はちょこちょこ来るんですよ。今は女子大生の買い物のお供とか、愚痴の聞き役、偽彼氏とかで稼ぎ中です」
「で今回は、お父さんから私の情報を得たわけね?」
「まあ、いい仕事のターゲットというか、ついでに人助けになりそうなのがお前のテリトリーの周辺にいるぞって。で、こうして間に合ったってわけです」
老女は何とも言えないため息を漏らすと言った。
「都合のいい話過ぎると思ったわ。で、これ営業なわけね? つまり有料でお話聞きましょうと」
「ま、そうスね」
「おいくら?」
「初回サービスで、一時間二千円にしましょう。延長可能。でも専門的な知識はないし力仕事にはひ弱だし、まあ、話聞くのは得意です。独学で学んだカウンセラーごっこもできますよ」
「一晩だと割安にはならないの」
「ひ、一晩ですか?」
青年は若干汗を浮かせながら言った。
「五時間以上だと一時間百円割引です。でも男女としての関係はその」
「くだらないこと言わないで。そんな弘兼憲史の漫画みたいなこと考えてないから」
「それがまあ、こういう仕事してみると、年齢にかかわらずいないわけでもいないんですよ。でも、会話までってお断りしてますけどね。
ぼくらは平和に一晩の会話を楽しめそうだと思いませんか。僕にとっても安心なお客さんですし」
「じゃ自己紹介するわね。私の名前は李枝子。それ以上は言えない」
そして李枝子と名乗った女性はぴらりと一万円札を青年に渡した。
「まずはざっくり前払い」
「お話だけですね? じゃ、ありがたくいただきます」
「あなたが聞かなきゃよかったというような重荷を人生最後のお土産に残してあげるわ」




