9 ロジーナ
トラメンダ:疫病プルラの特効薬
モンテグラシス(=八花草):トラメンダの原料となる薬草
アンティフラ:プルラの治療薬
タチアナ:ハーフェン帝国第2皇女
ジャコモ・ベルレスカ:侯爵、ベルレスカ家当主
ロジーナ・カテナッチ:ベルレスカ家遠縁の娘、アンティフラの開発者
「陛下は、少し持ち直されたそうです」
「まあ、よかった」
タチアナは、侍女の報告を聞いてほっとした。
「トラメンダを使ったのかしら?」
「いえ……、そうではないと聞いておりますが」
「あら、お父様はプルラにかかったのでしょう。それなのに、トラメンダを使わなかったの?」
「はい……、そのように聞いております」
侍女はタチアナのほうを向いてはいたが、視線をわずかにそらしていた。歯切れの悪い答えの理由をタチアナは図りかねていたが、やがてはっとした表情になった。
「昨年の、私の病気のせいね。ここにあるトラメンダを、私に全部使ってしまったのね」
侍女は、まっすぐに見つめてくるタチアナの瞳を、今度はそらすことができなかった。
「……それは、皇帝陛下や皇后陛下のご意向でもありました。殿下が気に病むことではございません」
「いいえ、いいえ……。まあ、どうしましょう……。お父様に何かあったら、私のせいだわ」
タチアナは頬に手を当て、身をよじった。タチアナの黄金色の髪がさらりと揺れた。
(お優しい方なのだ)
やはり、ご自分を責めてしまった。タチアナの性格から考えれば、こうなることはわかっていた。ただ、いつまでも伝えないわけにもいくまい。
白磁のようにしみひとつないなめらかな肌、アーモンド型の形のよい目には髪と同じ黄金色の睫毛がかかり、その下には、きらめく琥珀のような美しい瞳が隠されている。淡い緑に金糸をあしらった華やかなドレスに包まれたその身は、今はまだ少女の華奢さが残っているが、そのうちに皇后や姉皇女のように、女性らしい体つきになるに違いない。
あの時、この愛らしい皇女を助けるため、貴重なトラメンダを使うことに異論のある者はいなかった。
……いや、今のような事態になることがわかっていれば、タチアナの兄である皇太子は反対したかもしれない。それは皇帝になるための資質でもあるのだが、皇太子は家族に対しても冷徹なところがあった。
一方皇帝自身は、自分の子どもたちに対しての愛情が深かった。だから、迷わず残り少ないトラメンダをタチアナに使わせたのだ。タチアナの優しさは、皇帝ゆずりなのであろう。
タチアナの目元が赤くなり、じわりと涙がにじむのを見て、侍女は焦って言葉を継いだ。
「で、ですが、殿下。陛下の病状は回復しておりますわ」
タチアナは、潤んだ瞳を侍女のほうに向けた。
「そうだったわね。よくなっているのだったわ。お父様の病状は軽かったの?」
「いえ、やはり大変でいらしたそうなのですが……。侍医が、新しい薬を持ってきたそうでございます」
「新しい薬?」
「ええ、ベルレスカ侯爵がお持ちになった、アンティフラという名前の薬だそうです」
「まあ、アンティフラ……」
タチアナは、その名前をかみしめるように言った。それから少し微笑んだ。
「ちょうどいいときに、ベルレスカ侯爵が持ってきてくださったのね」
「ええ、そうでございますね」
「お父様のご病気が治ったら、私からもお礼を申し上げたいわ」
「それは侯爵もお喜びになるでしょう」
タチアナが落ち着いたのを見て、侍女は内心胸をなで下ろした。泣かせたなど知れたら、皇帝陛下からお叱りを受けてしまうかも知れない。
「さあ、殿下。今日は刺繍の続きをなさいますか? 午後はお勉強をしましょうね」
「刺繍はもうたくさんよ。そろそろ庭に出てはいけないの? お姉様とも長くお話ししていないわ」
タチアナは軽くむくれて侍女に抗議をした。その仕草にも高貴な育ちの者が持つ品の良さがあり、花の蕾のような可憐さがあった。侍女は微笑んで言った。
「わがままをおっしゃってはいけませんよ。プルラがここから去ってしまうまで、もう少しご辛抱くださいませ」
タチアナは、ため息をひとつついた。
「仕方ないわね。プルラはやっぱり怖いもの」
侍女は、刺繍の道具を手早く準備すると、タチアナに手渡した。タチアナはそれを受け取ると、刺繍の続きをし始めた。
◆
数日経って、タチアナの部屋に来客があった。
「ご機嫌よう、ベルレスカ侯爵。わざわざ来てくださったのね」
やってきたのは、ジャコモ・ベルレスカ侯爵であった。侯爵はタチアナに対し、丁寧にお辞儀をした。
「ええ、アンティフラのことをお聞き及びとうかがいまして」
「そうよ。あなたが持ってきてくださったお薬が、お父様を助けてくれたのだわ。ほんとうに、私感謝しているの」
皇帝の病状は、いったん小康状態となっていた。侯爵は、ゆっくりと首を横に振った。
「いえ、まだ予断は許しません。まだ作られたばかりの薬ですので、効果は不安定なのでございます。ですので、私もこうして陛下のおそばにいるようにして、病状に合わせてじゅうぶんにアンティフラを取り寄せられるよう図っているのでございます」
「まあ、そうなの……」
ベルレスカ侯爵は、一人の女性を連れてきていた。侯爵の娘といってもいいような若い女性だが、侯爵には娘はいない。侯爵の後ろで頭を下げたままの女性に気がつき、タチアナは尋ねた。
「あら、その方はどなた?」
「おお、そうでした。この者を紹介いたそうと思いましてな。さあ、お前、ご挨拶なさい」
女性はお辞儀をすると、顔を上げた。
「まあ」
タチアナを見つめる瞳は、澄んで美しい青色をしていた。それは、タチアナが以前に見た絵画の中にあった、太陽が明るく照らす海のような色だった。そして、彼女の髪は黒曜石のように黒くつやつやとしていて、青い瞳の色をより鮮やかに見せていた。
その女性は、形よく口紅を塗られた唇をすっと上げ、挨拶をした。
「ロジーナ・カテナッチと申します。タチアナ殿下にお目にかかれて光栄でございます」
ロジーナのドレスは高価そうなものであったが、腰の部分に皺が寄り、あまり身体には合っていないようであった。おそらく誰かのお下がりなのであろう。美しく化粧された顔や髪型とはちぐはぐな印象があった。
タチアナはにっこりと笑うと、ロジーナに応えた。
「タチアナよ、よろしくね。あなた、とても綺麗な目をしているのね」
すると、ロジーナは口に手を当てて笑った。
「ほほほ、殿下にお褒めいただいて、恐縮ですわ」
タチアナは少し面食らった。自分はまだ幼いが、皇女という立場にある。この宮殿の中で、このように無遠慮に自分の前で笑う者は未だいなかった。タチアナの侍女が、苦々しい顔をしてロジーナをにらんだ。
ベルレスカ侯爵は平気な顔をしていて、ロジーナをとがめるようなことはしなかった。
「殿下、この者がアンティフラを作ったのでございます」
「まあ、この方が?」
タチアナは驚いた。ロジーナは、タチアナの姉よりも若いように見えた。おそらく20歳にはなっていないであろう。
「とても優秀なのね」
「その通りです。彼女は私の親戚筋なのですが、幼い頃から賢い子でしてな。今は薬の研究をさせております」
侯爵がそこまで言うと、後ろからずいとロジーナが出てきた。
「ジャコモ様には、大変お世話になっております。私が研究を続けられるのも、ジャコモ様のおかげです」
それを聞くと、侯爵は満足げに笑った。そして、ロジーナを促した。
「そうだな。さ、殿下にお前の研究のことを説明して差し上げなさい」
侍女は、訝かしげな顔をしてベルレスカ侯爵を見た。タチアナは礼を言いたいとは言ったが、講釈を垂れてくれとは頼んでいない。それなのに侯爵の物言いは、いかにも無知なタチアナに教えてやるといった感じであった。タチアナは内心戸惑いつつも、礼儀として品の良い微笑みを浮かべた。
「私は、トラメンダに代わる薬を開発しようとしていますの」
タチアナの微笑を好意的にとったのか、ロジーナは胸を張り、得意げな表情となった。
「トラメンダは効果のある薬ですけれど、あまりにも作れる量が少なすぎますわ。高価ですし、皆が使えないようでは、結局役に立たない薬だと思っておりますの」
タチアナの胸がちくん、と痛んだ。その数少ないトラメンダを、昨年自分が使い切ってしまったのだ。侍女がまた、ロジーナをにらんだ。
「私が目指しているのは、手に入りやすい材料を使って、じゅうぶんな効果のある薬を作ることなのです。そうしたら、みなさんが争うようなことはないでしょう? 貴族も、平民も、皆が平等に助かることが、一番よいことなのですわ。お優しい殿下なら、そう思われますでしょう?」
ロジーナの話は、まるで演説のようであった。貴族の女性らしからぬ大きな身振り手振りには勢いがあり、自信にあふれた言葉がよどみなくあふれ出ていた。ロジーナの青い瞳はタチアナと侍女を交互に見つめてとらえ、彼女たちを逃がすまいとしていた。
ロジーナがそのままぐいぐいとタチアナのそばまで近寄ってきそうな様子であったので、侍女が前に出て牽制しなければならなかった。
「それに」
ロジーナはクク、と嘲るように小さく笑った。
「今回も、ひとつの家が薬を独占しているから、この事態が起きたようなものですわ。私の理想の薬ができたら、私はその処方箋を皆様にお教えいたします。私はけっして利益を独り占めしたりいたしませんわ。ほほほほ」
最後は高笑いに近かった。ロジーナの態度は皇女に対してあまりにも無礼であり、侍女はもう不快感を隠してはいなかった。しかし、ベルレスカ侯爵はやはり意に介さない様子であり、最後は自慢げに言った。
「彼女には、これからもアンティフラの完成に向けて努力してもらうつもりです。」
ベルレスカ侯爵とロジーナは一方的に話を終えると、もう用はないと言わんばかりにさっさと2人で退室していった。
残されたタチアナは、なんだかすっきりしない気持ちであった。扉が閉まってからしばらく経つと、侍女が堰を切ったように文句を言った。
「なんでしょうね、あの方は。優秀かもしれませんが、とにかく無作法ですわ。侯爵も侯爵でございます。少しくらい注意なさればよろしいのに」
無作法には違いないが、それだけでもない。ぷりぷりと怒る侍女の隣で、タチアナは胸の奥でくすぶりつづける不快感について考えていた。今日はもう、我慢して刺繍を続ける気にはなれなかった。できることなら散歩に出たかった。
(会わなければよかったわ)
確かに、ロジーナの話は魅力的だ。アンティフラを作り、父である皇帝の病気を治そうとしてくれているのも感謝している。ロジーナの話を聞いている間は熱に浮かされたようになり、なんとなく賛同してしまう気持ちもあった。
でも、熱が冷めてしまえば、それはただの夢物語であった。アンティフラは未だ完成していない薬であって、トラメンダの効果には及ばない。それなのに、彼女はアンティフラを完成させることよりも、完成させた後の名声ばかりを気にしているようであった。
彼女の夢語りの後味は、どうもあまりよくなかった。今のタチアナにとって、アンティフラは大事な薬ではある。しかし、その作り手であるロジーナには、二度と会いたいとは思えなかった。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。