8 村長の怒り
レイ:トモロ村の子ども
ターシャ:トモロ村の子ども、レイの姉
ジーノ:トモロ村の子ども
ナルカ:『ひきかえ』に来ていた村人
ケーレ:『ひきかえ』に来ていた村人
「今日の『ひきかえ』に、ヤマビトが来なかったんだ」
ジーノは何かを言いたいような、それでいて口を開くのをためらっているような、複雑な表情をしていた。
(ああ……、やっぱり……)
僕は朝からここにいた。僕が知るかぎり、『ひきかえ』の小屋に入った者も出た者もいなかった。今日、あの子は小屋に来なかった。それで全てに説明がつく。
でも、僕はそれを信じたくなかった。僕は、あの子が今も小屋の中にいて、そのうちに扉を開けて出てくるのだと信じたかった。
あの子が『ひきかえ』に来なくなったのなら、山を下りることがないのなら……
――もう、会えない?
僕は、頭からざあっと血の気が引くのがわかった。倒れてしまわないように、そばの木の幹に手をついて身体を支えた。これ以上考えるのが怖かった。
「レイ、特に、村長さんがものすごく怒っているの。ナルカさんとケーレさんが広場に引き出されて……」
ターシャの声で我に返ると、ターシャの顔が真っ青になっているのが見てとれた。ジーノがターシャの肩を抱き、落ち着くようにと促した。
「とにかく、急いで戻ろう。いま山にいるなんて知られたら、大人に何をされるかわからない」
ジーノの先導で、僕らは走り出した。駆け足で村に戻りながら、ターシャが言った。
「レイ、あんたは今日が『ひきかえ』の日だって知ってたから、あの子に会うために山に来たんでしょう」
ターシャの顔色は、まだ戻っていなかった。村を取り囲む板塀の向こうから、ざわざわとした大人たちの声が聞こえてきていた。
「……そうだよ」
ターシャは僕の答えを聞いて、軽く頷いた。ターシャは早口で続けた。
「でも、あの子は来なかったのね。今日は、会ってないわよね」
「……うん」
それならいいの、とターシャはほっとした様子だった。そして、山に行った僕が、ヤマビトをひきとめてしまっているのではないかと心配になって、慌ててジーノと一緒に来たのだと言った。
僕は、小屋のほうをちらりと振り返った。
今に出てくるんじゃないか、絶対に見逃すまいと、僕はずっと小屋の扉を見ていた。でもどんなに待っても、それはぴくりとも動かなかった。
「……会えなかったよ。誰も、出て来なかった……」
僕がそう言うと、それきりターシャもジーノも黙ってしまった。僕らは息を切らしながら、村の入り口を目指してひたすら走った。
前の『ひきかえ』の日のことは、ターシャたちには話してあった。『妖精』の顔を見たことも、言葉を交わしたことも……。
(僕のせい? 僕が、余計なことをしたから?)
僕に見られたから、あの子は来なくなったんだろうか。そう思うと、目の奥が熱くなった。それなら僕は、なんて馬鹿なことをしたんだろう。
――ただ会いたいだけだった。
今も目の前にあるかのように、あの子の姿を思い出せる。
宝石のような深緑の瞳、そこからぽろぽろと流れる銀色の涙。近くで見る肌は人形のようになめらかで、白く輝くようだったけれど、左の頬の赤さが痛々しかった。
一瞬で僕の脇を走り抜け、しなやかな動きで木立の間を駆けて、あっという間に山の中へと去ってしまった。その後ろ姿の揺れる髪すら絵のように綺麗で、その一筋一筋が絹糸でできているんじゃないかと思ったくらいだ。
ああ、そして、あの声。澄んだ鈴の音のような、それでいてどこか甘いような声。何度でもあの子の声を聞きたいけれど、思い出すと胸がぎゅっと苦しくなる。
――大嫌いだ!
僕に投げかけられた言葉はただ一つ、『大嫌い』だった。
嫌われたいわけがない。傷つけたいわけがない。何に怒っていたのかはわからないけど、とにかく謝りたかった。だから今日も、あの子をひたすら待っていた。
でももう、謝ることさえできないかもしれない。二度とあの子に会えないかもしれない。それがたまらなく怖い。
僕は、いつの間にか泣いていたようだった。ターシャたちに見られたくなかったので、そのまま涙を散らしながら走った。ぼやけたジーノの姿を追いながら、頭ではあの子の言葉がぐるぐると回り続けていた。
◆
僕らが村の入り口に着いたときには、そこには誰もいなかった。3人でそっと中に入り、おそるおそる進んでいったが、やはり人の姿はなかった。畑には仕事を途中で放り出したあとがあり、不測の事態が起きたことを示していた。
「広場にみんな集まっているんだろう」
ジーノがまわりを見渡して言った。どうやら、僕を探している大人はいないようだった。
「広場に行くの?」
ターシャが、か細い声で言った。ターシャの足は進まず、広場に行くことを嫌がっていた。
「広場を通らないと、家にも帰れないだろ」
ジーノが諭すように言ったが、ターシャはいやいやをした。
「だって、村長さんがすごく怒っていたじゃない……。私、怖い」
姉さんらしくない姿に、僕は驚いた。
「そんなに怒ってるの?」
「もう、見たことないくらいかんかんなの。杖を振って追いかけ回して……、たくさんあの人たちをぶって……」
そこまで言うと、ターシャはぎゅっと目を閉じた。
村長さんは、濃い眉毛の下にぎょろりとした怖い目を持つ人だった。うちの両親よりはずっと年上で、小柄のがっちりとした体をしていた。一度大きな病気をしたとかで、いつも太い杖を持っていたけれど、歩くときにそれに頼っている様子はなかった。
たまたま出会うことがあれば、僕らは頭を下げて挨拶した。そうしないと、大人たちに怒られるからだ。僕らが深く頭を下げると、村長さんは満足そうに笑った。
僕はこっそりと目を上げて、そのときの村長さんを盗み見たことがある。村長さんは、丸々と育ったヤギを見るような目つきをしていた。
(逆らったらどうなるんだろう)
僕があの子に会ったことが知られたら、僕も杖で打たれるんじゃないだろうか。そんな思いもよぎったが、話しているうちに冬の空の灰色は濃くなっていて、日はそろそろと落ちようとしていた。
もう、子どもは家に帰る時間だ。しぶるターシャを説き伏せ、僕らは広場へと向かった。
広場では、2人の男と村長さんが、村の人たちに取り囲まれていた。
ターシャの言ったとおり、村長さんはひどく怒っていた。顔を真っ赤にし、杖を何度も男たちの上に振り下ろしていた。いくら言っても足りないという感じで、同じことを繰り返しては怒鳴っていた。
「馬鹿者! 馬鹿者!」
2人の男は、やはりナルカとケーレだった。彼らは畑ではあまり見かけず、よく村長さんのお使いをしていて村にいないので、ほとんど話したことはなかった。
2人は、もうずいぶん殴られ続けているらしく、身体中そこかしこが赤く腫れ上がっていた。ひいひいと泣きながら身体を丸くし、頭だけを腕で守っていた。ターシャは顔を背け、彼らを見ないようにしていた。
「あいつらが採ってこなかったら、誰があの草を採ってくるんじゃ!」
村長さんが、ナルカの上にまた一回ぴしりと杖を当てた。ひいっとナルカが悲鳴を上げた。
「お前らのせいじゃ! 代わりにお前らが行け!」
「勘弁してください、勘弁してください」
身体の大きなナルカも村長さんには逆らえないようで、謝りながら、ただ打たれるにまかせていた。村長さんは次に、ケーレにも杖を当てた。ケーレは低くうめいた。
「すぐに行け! 行けと言うに! お前らなど死んでも構うものか、さっさと行ってこい!」
「山は……山は行けませんよう。ほんとうに死んじまいますよう」
男たちは泥まみれになりながら、情けなく許しを乞うていた。
「そんならヤマビトを呼べ! お前らのやったことの責任を取れ! 何とかせい!」
「何度も言ったじゃないですかあ、もう……あいつは死んじまってますよう。だから来ないんですよう」
――え?
ターシャとジーノも同じ言葉を聞いたらしく、2人して僕の方を向いた。
(あの子が、死んだ?)
呆然としている僕に気づくはずもなく、村長さんは怒鳴り続けた。いくら言っても怒りが収まらないらしく、杖の先を何度も地面に叩きつけていた。
「それなら代わりのヤマビトを探せえ!」
「あいつが最後なんですってえ。エーヴィアももう死んだんですから……」
村長さんの顔は真っ赤になり、目はきりきりと吊り上がった。その形相を見て、ナルカとケーレは慌てて腕で自らをかばい、小さくなった。杖を持つ村長の手には青筋が浮き上がり、ぶるぶると震えていた。
「それがわかっていて、金のなる木を殺してしまうやつがおるか! この阿呆どもが!」
「すみません! 申し訳ありません……」
村長さんは、獣のように吠えた。
「お前らに任せたわしが馬鹿じゃった! この村は終わりじゃ!」
「いや、でも、俺たちだって、金をちゃんとくださってたら……」
「うるさい! 言い訳をするな、この糞どもが!」
そうしてまた、村長さんは男たちを打ち始めた。男たちは、雪でぬかるんだ地面の上をのたうちまわり、彼らの足が動くたびに泥がびしゃびしゃと飛び散った。
僕は、それをぼんやりとした頭で見ていた。泥が自分に飛んできて服を汚しても、避ける気にもならなかった。全てが夢の中で起きているような気がした。
(ナルカとケーレが殺した? あの子を?)
あの日、小屋から出てきたあの子は泣いていて、顔が腫れていたんだ。そして、僕の前から走り去って……。
(あいつらは、あの子に何をしたんだ?)
僕があの時、逃げるあの子に追いついていたら、助けることができたのだろうか。
輪の中に紛れている僕らに気づいて、大人の誰かが家に帰りなさいと言った。僕はまだ頭が混乱していたが、ターシャとジーノが僕を家まで連れて行ってくれた。
◆
その日の夜は、父さんも母さんも真っ青な顔をしていた。お通夜のような夕食が終わると、親たちは「集まりがある」と言って出かけていった。
僕らは子どもだけで食器を片付け、寝る準備をすませた。僕らはそれぞれベッドに潜ったが、のんきに眠る気にはなれなかった。
ターシャが僕に、「……ちょっと、話さない?」と声をかけた。僕が起き上がると、ターシャがやってきて、僕のベッドに腰をかけた。
「……なんだか、大変なことになったんだね」
「うん……」
ターシャの声は優しかった。ターシャは次の言葉を一生懸命探しているようで、長い沈黙が続いた。
「……あの子、無事だといいね」
ターシャの目が、気遣うようにそっと僕のほうを向いたのがわかった。
「…………うん」
また泣いてしまいそうで、それ以上何かを言うことができなかった。赤くなった目をターシャに見せたくなくて、僕はただうつむいていた。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。