5 プルラ
タチアナ:ハーフェン帝国第2皇女
扉の向こうから、パタパタと廊下で人が走る音が聞こえた。
「何かあったの?」
皇女タチアナは刺繍をしていた手を止め、そばに控えている侍女に尋ねた。ここは皇帝のおわす宮殿であり、その中でも皇族たちの居室がある奥の棟にあたる。その廊下で無作法にも走る者は、なにか事情を抱えているに違いない。
侍女も小首をかしげた。数年来タチアナに仕えている彼女にも、今日の騒ぎに心当たりはないようであった。
「さて、何でございましょう……。殿下、少し私が聞いてまいりましょうか」
「ええ、お願いするわ。何だかいやな感じがするの」
タチアナは、朝から自室で過ごすようにと言いつけられていた。窓のほうに目をやると、よく晴れた空に、眩しく太陽が輝いているのが見えた。
タチアナは、ため息をついた。
(いつもなら、庭を散歩しているのに)
窓からさす光が、タチアナの黄金色の髪をきらりと照らした。外の空気は冷たくなったとはいえ、いっぱいに吸い込んだらどんなに気持ちがいいだろう。部屋の中には見慣れた天蓋つきのベッドと、よく磨かれた小ぶりのテーブルと、花のモチーフをあしらった布張りの椅子があった。
タチアナのためにしつらえられた、これらの調度品は非常に高価であり、ひとつひとつが宝石何個分もの価値があるのだそうだ。しかし、閉じ込められた今日のタチアナにとっては、それらは何の魅力もない、見飽きた家具にすぎなかった。
(それでも、去年よりはましかもしれないわ)
昨年、タチアナは大きな病気をした。高熱に苦しむ身体はベッドから動くことができず、幾日もベッドの天蓋ばかりを見て暮らした。それに比べれば、部屋の中を歩き回れるだけ、今のほうがまだいいと言えた。
(せめて、面白いお話でもあればいいのだけど)
タチアナは、進まない刺繍をテーブルの上に置いた。まだ12歳になったばかりのタチアナは、年相応の夢見る少女だった。育ち始めたばかりの胸の中は、噂好きの侍女たちが語る恋物語に疼いた。
――でも。
タチアナの立場では、自由な恋愛などとうてい許されない。それはタチアナ自身がよくわかっていた。
タチアナに婚約者はまだいなかったが、候補となる存在がいた。幼いころからその人の存在を教えられ、いつかその領地に嫁いでいくのだと聞かされていた。ただ、正式な婚約はしていないので、未だ言葉を交わしたことはなく、侍女から遠目に「あの方ですよ」と教えられるだけだった。
その人はすらりとした美青年で、立ち振る舞いも洗練されていた。侍女たちはさえずる小鳥のように、彼の容姿を褒めた。
タチアナも、あのような素敵な青年が結婚相手であることは嬉しく、誇らしくもあった。しかし、大きくなるにつれ次第に不安が増していった。
自分よりもずっと年上で、もう大人になっている人。そんな人が、未熟なタチアナを愛してくれるだろうか? 近衛兵のリュカが侍女のマーサにするように、耳元で愛しているよとささやいて、優しくタチアナを抱きしめてくれるのだろうか。
タチアナがまたため息をつき、刺繍を手にしようとしたところで、話を聞きに行った侍女が戻ってきた。
「殿下、ただいま戻りました」
「どうしたの? 顔色が悪いわ」
侍女の顔は強張っていて、青ざめた色をしていた。侍女は廊下に何度も目をやりながら、そろそろとタチアナに近づいてきた。それはまるで、廊下に何か恐ろしいものでもいて、それに気づかれることを怯えているようであった。
「タチアナ様、しばらくこのお部屋から出られない方がよいかと」
「まあ、いったいどうしたと言うの?」
あまりよくない知らせなのだわ、とタチアナは思った。侍女は椅子に座るタチアナのそばに腰をかがめ、震える声で言った。
「陛下が、プルラでお倒れになりました」
◆
「トラメンダがないとはどういうことだ」
皇帝の居室の外で、皇太子は声を荒げて怒鳴った。皇太子のつかみかからんばかりの勢いに、年老いた侍医は、可哀想なほどに肩をすくめて縮こまっていた。
「申し訳ございません」
侍医は、同じ言葉を繰り返した。
『トラメンダ』は、モンテグラシスという薬草から作られる、疫病の特効薬である。帝国内ではここ数年おきにプルラという疫病が流行り、人々、特に裕福な貴族たちは争うようにトラメンダを手に入れようとした。
「いくらかは置いてあったはずだろう」
「前回の流行の際、最後のものを使い切ってしまったのでございます。その……タチアナ殿下の治療で」
皇太子はぎりっと歯がみをした。そして、侍医をにらみつけた。
「それならどうして、新しいものを用意しておかない」
「ほんとうに、国内にないのでございます……。ロッカ領の方でも、モンテグラシスの量が減っており、じゅうぶんなトラメンダを作ることができておりません」
侍医はまた、申し訳ありませんと繰り返した。そして頭を下げつつも、目を少し上げて皇太子の顔をそっと覗いた。
皇太子は現皇帝がもうけた、ただ一人の男子である。優秀であるとの評判だが、癇性で余裕のないところがあった。幾度となく病のために寝込むことがあり、痩せぎすで小柄な身体をしていた。高い鼻梁に尖った顎が、その線の細さを際立たせていた。
神経質な手つきで襟元を直し、皇太子は侍医の頭の上から再び怒鳴った。
「皇帝陛下の一大事だぞ。ないで済むか。ロッカ家は何をしている」
「ロッカ侯爵は、領地から急いで取り寄せるとおっしゃっておいでです。ですが、なにしろロッカ領は遠方ですので……。それに、モンテグラシスからトラメンダを作るにも、十日は日がかかるそうです」
皇太子はふんと鼻を鳴らした。
「肝心なときに、役に立たないな。どうせ、商売ばかりで自分の領地を肥やすことしか考えていないんだろう」
侍医は、ロッカ家の当主であるシスモンド・ロッカ侯爵の姿を思い浮かべた。帝国の南に位置するロッカ領は、複数の国と接し、陸路水路に恵まれた交易の盛んな地である。そこを治めているシスモンドは、確かに商売には長けているのかもしれない。
しかし、侍医の知る彼は、どちらかといえば実直な軍人に似た雰囲気を持つ人物であった。トラメンダの話をしたときも、実際に皇帝の病に心を痛めている様子であり、「急ぎます」と約束した言葉には、誠実さがにじんでいた。
しかし、皇太子の覚えはあまりよくないらしい。それなのにロッカ家のトラメンダに頼らなければいけないことが、よけいに皇太子をいらだたせているようだった。
「では、私は薬を用意してまいりますので……」
侍医は、そそくさとその場を離れようとしたが、皇太子にじろりと睨まれ足を止めた。
「薬と言うが、陛下のプルラをトラメンダなしで、どうやって治すつもりだ。トラメンダを置いておかなかったのはお前の過失だぞ。何かあれば、お前の首では足りん」
「そ、そんな……」
また身体を縮め、侍医は震え上がった。侍医は再び自分に向いた矛先をなんとかそらそうと、一生懸命に頭を働かせた。
「どうした、まさか、何も考えていないのではないだろうな」
「ご、ございます、ございます。その……」
侍医は一瞬答えを口に出すのをためらったが、目の前の皇太子の形相を見て、結局は絞り出すように言った。
「なんだ」
「疫病に効くという薬はございます。ただその……まだ、新しい薬でして、あまり使用したことがないものなのですが」
「そんな薬を、皇帝陛下に使用するつもりか」
「で、ですが、この薬は、ベルレスカ家から献上されたものなのです」
「……ほう?」
皇太子は、ベルレスカの名前に反応し、わずかに片眉をあげた。そして侍医を責めるのをやめ、腕を組んで、話を聞こうとする体勢になった。
「続けろ」
「この前、ベルレスカ侯爵がお持ちになりました。ベルレスカ領で研究し、作ったものなのだそうです。侯爵がおっしゃるには、疫病に大変よい効果があると……」
皇太子は侍医の話を、頷きながら聞いていた。
ロッカ家と対照的に、ベルレスカ家は皇太子の覚えがよかった。感情的になりがちな皇太子をいさめることなく、徹底的に味方であり続ける態度のせいかもしれない。
「ふふん、確かにベルレスカなら、薬の材料も手に入れることはできるだろう」
帝国の東に位置するベルレスカ領は、港を有し、チェジアという国に隣接している。ロッカ家と同様に、交易で賑わう地であった。
皇太子は、いくぶん気分を良くしたようだった。そして、侍医に尋ねた。
「その薬の名前は、なんというのだ」
「『アンティフラ』と申します」
「いい名前だ」
皇太子は、もはや怒ってはいなかった。今はもう薄い唇に笑みすら浮かべていた。
「まあ、いいだろう。ベルレスカが持ってきたものなら安心だ。すぐに準備しろ」
「承知いたしました」
侍医は安堵の息をつき、急いでその場を離れた。侍医が廊下の向こうに消えると、皇太子は我慢しきれなかったというように、ふっと笑いをこぼした。
「いい方向だ。アンティフラが効果を現わせば、ロッカ家も大きな顔はできなくなるな」
皇太子はちらと扉の方に目を向けた。扉の向こうからは、伏している皇帝のために働く侍女や侍従たちの動き回る音がしていた。それから皇太子は踵を返すと、ゆっくりと自分の居室の方へと去っていった。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。