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トラメンダ:疫病プルラの特効薬
モンテグラシス(=八花草):トラメンダの原料となる薬草
アンティフラ:プルラの治療薬
ルート:『ヤマビト』の子ども
クラレオ・ロッカ:ロッカ侯爵家嫡男
エウリコ・ロッカ:ロッカ家次男
シスモンド・ロッカ:侯爵、ロッカ家当主
バルダン:ロッカ家家令
ヤソン:ロッカ家家庭教師、植物学者
「さあ、今日はここまでにしましょう」
授業を終えた教師は、本をパタンと閉じた。冷え込む季節となり、部屋の中には冬の寒さが入り込むようになっていた。2階にある部屋の窓は閉じられ、その外に伸びる枝の葉は色を失い、地面にひらひらと落ちていっていた。
「ありがとうございます、ヤソン先生」
ルートは椅子から立ち上がり、礼をした。ヤソンと呼ばれた教師は微笑み、「上手になりましたね」と褒めた。
ここ最近のルートは、昼は城に通い、夜はソニタ夫婦の家に帰るという生活を続けていた。行き帰りには、トニオかロッカ家の兵士が付き添ってくれていたので、時には街を楽しむこともできていたし、城の中でも1人になることはなかったので、だんだんと安心して過ごせるようになっていた。
ヤソンは荷物をまとめながら、ルートに言った。
「ルート、午後はモンテグラシスのところに行くのでしょう。今日はご一緒してもかまいませんか。この前調べたことで、ちょっと確かめたいことがありまして」
ヤソンは他国から来た植物学者であり、ロッカ家に寄宿をしている。その博学を買われて、今はルートの家庭教師をしているのだった。
ルートは、かるく首を傾げて答えた。
「クラレオ様も、ヤソン先生に聞きたいことがあるとおっしゃっていましたから、大丈夫だと思いますが……。僕、聞いてきましょうか」
「ああ、それなら、私も一緒に行きましょう。君を1人にするわけにはいきませんからね」
ヤソンが荷物を小脇に抱え、立ち上がった。ルートが扉の鍵を開けようと手をかけたとき、廊下の方から、数名の足音と、人の話し声が聞こえてきた。ヤソンは眉をひそめた。
「何やら、騒がしいですね」
すると、急に激しく、揺れるほどに扉が叩かれた。ルートが驚いて手を引っ込めると、外から怒声が響いた。
「開けろ! ここにいるんだろう!」
「あっ……」
ルートの顔から、さあっと血の気が引いた。その声は、忘れもしないエウリコだった。ヤソンはルートを下がらせ、扉の方に声をかけた。ヤソンは、エウリコの教師も務めていた。
「エウリコ様、いったい何事ですか?」
「開けろ! そこに『ヤマビト』がいるだろう!」
いらだった癇声は、ルートを呼んでいた。扉の向こうからは、従者や使用人たちが、エウリコを止めている声がしていた。
「あ、あああ……」
ルートは震える足で、じりじりと後ろに下がった。ルートは身をもって知っていた。エウリコは容赦なく暴力を振るう。バルダンを殺した、あの男と同じように。
エウリコの声は、あの日の男と同じように怒りに満ちていたし、かばってくれるヤソンの背中は、かつてのバルダンと重なった。
「開けろ! ヤソン!」
「エウリコ様! 扉を叩くのはおやめください!」
そうしている間にも、扉はドンドンと激しく叩かれ続けていた。扉が破られたら、エウリコは自分めがけてやってくるだろう。今度は何をされるのだ。もし、ヤソンがエウリコを止めようとしたら、ヤソンはどうなってしまうのか。
エウリコに呼びかけるヤソンの声が、だんだん遠くなっていった。
(今度こそ、今度こそ、僕がちゃんと逃げないと……)
あのとき、バルダンの言うとおりに、すぐに逃げていればよかったのだ。あの男が狙っていたのは自分なのだから、さっさと逃げていれば、バルダンは殺されずにすんだのだ。
ヤソンが振り返り、ルートを気遣った。
「ルート、大丈夫ですか」
(また……同じことが……)
怒声がまた響き、血に濡れたナイフと、くずおれるバルダンの姿が蘇った。バルダンは、あのとき何と言っただろう。
――行きなさい!
「……僕、逃げます。だから先生、逆らわないで。あいつを止めたりしないで」
「えっ?」
ルートはそれだけ言うと、いきなり走り出して窓を開け放ち、外へと飛び出した。
「ルート! 何をするんです!」
ヤソンの叫ぶ声を背中で聞きながら、ルートは枝をつかんでぶらさがった。そして、身体を振り子のようにして、さらに飛んだ。
「ルート!」
ヤソンは窓から身を乗り出し、ルートの名を呼んだ。慣れた身のこなしで着地をしたルートは、振り返らずに正門の方へと走り出した。
◆
庭園を突っ切って走って行くルートの姿は、いくらヤソンが呼びかけても、だんだんと遠ざかっていった。
「いかん」と、ヤソンは窓から離れ、慌てて扉を開けた。エウリコがすかさず部屋の中に入ってきたが、ヤソンは構わず、従者の1人を捕まえて言った。
「ルートが1人で外に出てしまいました。シスモンド様に報告をお願いします」
「は、はい。ただいま」
「それと、こちらにも人をよこすようにしてください。エウリコ様を何とかしないと」
ヤソンが急いで部屋の中へ戻ると、エウリコが窓にかじりつき、声を枯らさんばかりに叫んでいた。
「行くな! 待て! 逃がさんぞ!」
「エウリコ様、危ないですから、こちらへ……」
「邪魔するな!」
従者たちは、暴れるエウリコを窓から引き離そうとしていた。ヤソンがそれに加わろうとしたとき、扉の方から声がした。
「……これは、何事だ?」
もしや、シスモンドが到着したかと、ヤソンは振り返った。しかし、そこにいたのは、怪訝な表情のクラレオであった。
(よりにもよって)
ヤソンは、内心頭を抱えたい気持ちだった。今、この兄弟が顔を合わせるのは、よいこととは到底思えなかった。
「ヤソン、ルートはどうした。授業はもう終わったのか」
クラレオはヤソンの方へと進んできたが、その奥に、窓にしがみついているエウリコがいることに気づくと、鋭い声を上げた。
「エウリコ! 何をしている」
「兄上……」
低く唸るような声を出しながら、エウリコがゆっくりと振り向いた。真っ赤になって息を切らせ、目を血走らせたエウリコの形相に、クラレオは一瞬驚いたようだった。
エウリコは、そのままクラレオに向かってこようとしたが、すんでのところで従者に抑えられた。かすれた声で、エウリコは叫んだ。
「あなた方が隠すせいで、あいつは逃げてしまった! どうしてくれるんです!」
「逃げた……? どういうことだ」
事情の分からないクラレオは、眉をひそめてヤソンの方を見た。ヤソンは、自分の星回りを恨みながら答えた。
「……ルートは、エウリコ様が来たのに怯えていました。私が対応しているうちに、いきなり窓から飛び出してしまったのです」
「何だと!?」
クラレオはエウリコを押しのけ、窓に駆け寄って下を覗いた。ヤソンは、できるだけ平静に話を続けた。
「落ちたわけではありません。枝につかまり、飛び降りたところは私も見ました」
「怪我は、していなかったか」
「降りるとそのまま、門の方へ駆けていったので、大きな怪我はしていないと思います。呼びかけましたが、振り返らず走って行ってしまいました」
「なんと……」
クラレオはエウリコに厳しい一瞥を向けると、窓から身を離し、ルートを探させるよう従者に言いつけた。そして、自分も部屋を出て行こうとしたが、そのとき、エウリコが従者の手をすり抜けてつかみかかってきた。
「うっ」
あっさりとクラレオに振り払われ、エウリコは無様に床に倒れた。クラレオは、自分を憎々しげに睨みつけるエウリコを、冷ややかに見下ろした。
「やめなさい、エウリコ。こんなことをしている場合じゃないだろう」
「いいえ! 私にはもう、時間がないのです!」
「時間が……?」
クラレオがいぶかしげに眉を寄せると、エウリコはへたりこんだまま、泣きそうな声で叫んだ。
「ご存じでしょうが! 私は、明日にはもう皇都に行かねばならんのです!」
「それは知っている。そもそもお前は、ここに何をしに……」
「ずっと、あいつを私から取り上げるのですか!」
クラレオの顔から、すっと表情が消えた。
「……取り上げる……?」
クラレオの纏う空気が、一気に冷たく、怒りに満ちたものとなった。エウリコは青ざめて震えだし、クラレオの身体から噴き出す青白い炎のような圧迫感に、ヤソンまで背筋がぞくりとした。
「何を馬鹿なことを言っている。あの子は、最初から誰のものでもない」
クラレオが一歩足を進めると、エウリコは、座ったまま後ずさりをした。
「そんなことも分からないから、お前はあの子に会えないのだ」
クラレオは吐き捨てるように言うと、うなだれたエウリコを尻目に、そのまま扉の方へと足を進めた。
しかし、エウリコは、一度ぎりっと唇を噛むと立ち上がり、「お待ちください」とクラレオの前に立ち塞がった。クラレオは意表を突かれたようだったが、険しい顔のまま足を止めた。
「……まだ、何かあるのか」
ヤソンは、普段は穏やかな好青年のクラレオが、これだけ感情をあらわにするのを初めて見た。顔立ちが整っているだけに、怒りを湛えた表情には凄みがあり、取りつく島もないように感じられた。
「なら、ならば……、お願いです、せめて、あの絵を……離れの絵をください!」
「離れの……絵を?」
エウリコの従者たちは、顔を見合わせた。彼らは、『離れの絵』のことを知らないようだった。『離れの絵』とは、クラレオが画家に命じて、ルートを描かせた絵のことだ。
(確かに、出来は良かったが……)
ヤソンも、実物は数回しか見たことはない。絵は、出来上がるとすぐに離れに運び込まれたし、モンテグラシスに関わる者しか、離れに入ることは許されていないからだ。
ヤソンの耳にも、エウリコの起こした事件は届いていた。たった1回会っただけで、エウリコはルートを忘れられなくなった。それが全ての原因だ。
皇都行きが明日と決まり、引き離されることに恐怖して、エウリコはこの部屋に押し入ろうとした。そして今は、憎いであろう兄に対して、絵だけでもくれるよう懇願している。ヤソンにとっては、それは異常としか思えなかった。
クラレオは、苦々しい顔をして言った。
「お前は、また……」
「絵くらいはいいでしょう! 兄上は、また描かせることができるのに……」
「だめだ。絵は渡さない。お前はもう、あの子に関わるな」
「どうしてですか!」
クラレオが何を言っても、エウリコは一歩も引かなかった。エウリコのあまりに執拗な態度に、さすがのクラレオも戸惑っているようだった。
「いったい、お前はどうしたんだ。おかしいぞ」
「おかしいのは、兄上だ! ここまで、ここまで言っているのに、なぜ……」
そこに、クラレオの従者が急いでやって来た。
「クラレオ様、ルートはもう、正門を出てしまったそうです」
「なに」
従者の報告に、クラレオは顔色を変えた。そして、「何かあってからでは遅い、急ごう」と言うと、エウリコなどいないかのように、自分の従者とともにあっさりと部屋を出て行ってしまった。
(やれやれ)
ヤソンとエウリコの従者たちは、ほっと息を吐いた。ここで兄弟喧嘩を続けられても、自分たちが肝を冷やして縮こまるだけだ。それよりは、ルートを早く探しに行ったほうがずっといい。
しかしエウリコだけは、去って行くクラレオの背を指さして叫んだ。
「ほら、やっぱりおかしいじゃないか!」
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。