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二つの瓶  作者: 梨花むす
第一章
26/27

26 恋着

トラメンダ:疫病プルラの特効薬

モンテグラシス(=八花草):トラメンダの原料となる薬草

アンティフラ:プルラの治療薬


ルート:『ヤマビト』の子ども


クラレオ・ロッカ:ロッカ侯爵家嫡男

エウリコ・ロッカ:ロッカ家次男

シスモンド・ロッカ:侯爵、ロッカ家当主

バルダン:ロッカ家家令


ヤソン:ロッカ家家庭教師、植物学者

「さあ、今日はここまでにしましょう」

 

 授業を終えた教師は、本をパタンと閉じた。冷え込む季節となり、部屋の中には冬の寒さが入り込むようになっていた。2階にある部屋の窓は閉じられ、その外に伸びる枝の葉は色を失い、地面にひらひらと落ちていっていた。


「ありがとうございます、ヤソン先生」


 ルートは椅子から立ち上がり、礼をした。ヤソンと呼ばれた教師は微笑み、「上手になりましたね」と褒めた。

 

 ここ最近のルートは、昼は城に通い、夜はソニタ夫婦の家に帰るという生活を続けていた。行き帰りには、トニオかロッカ家の兵士が付き添ってくれていたので、時には街を楽しむこともできていたし、城の中でも1人になることはなかったので、だんだんと安心して過ごせるようになっていた。

 

 ヤソンは荷物をまとめながら、ルートに言った。

 

「ルート、午後はモンテグラシスのところに行くのでしょう。今日はご一緒してもかまいませんか。この前調べたことで、ちょっと確かめたいことがありまして」


 ヤソンは他国から来た植物学者であり、ロッカ家に寄宿をしている。その博学を買われて、今はルートの家庭教師をしているのだった。

 ルートは、かるく首を傾げて答えた。

 

「クラレオ様も、ヤソン先生に聞きたいことがあるとおっしゃっていましたから、大丈夫だと思いますが……。僕、聞いてきましょうか」

「ああ、それなら、私も一緒に行きましょう。君を1人にするわけにはいきませんからね」


 ヤソンが荷物を小脇に抱え、立ち上がった。ルートが扉の鍵を開けようと手をかけたとき、廊下の方から、数名の足音と、人の話し声が聞こえてきた。ヤソンは眉をひそめた。


「何やら、騒がしいですね」

 

 すると、急に激しく、揺れるほどに扉が叩かれた。ルートが驚いて手を引っ込めると、外から怒声が響いた。

 

「開けろ! ここにいるんだろう!」

「あっ……」

 

 ルートの顔から、さあっと血の気が引いた。その声は、忘れもしないエウリコだった。ヤソンはルートを下がらせ、扉の方に声をかけた。ヤソンは、エウリコの教師も務めていた。

 

「エウリコ様、いったい何事ですか?」

「開けろ! そこに『ヤマビト』がいるだろう!」


 いらだった(かん)(ごえ)は、ルートを呼んでいた。扉の向こうからは、従者や使用人たちが、エウリコを止めている声がしていた。


「あ、あああ……」

 

 ルートは震える足で、じりじりと後ろに下がった。ルートは身をもって知っていた。エウリコは容赦なく暴力を振るう。バルダンを殺した、あの男と同じように。

 エウリコの声は、あの日の男と同じように怒りに満ちていたし、かばってくれるヤソンの背中は、かつてのバルダンと重なった。


「開けろ! ヤソン!」

「エウリコ様! 扉を叩くのはおやめください!」


 そうしている間にも、扉はドンドンと激しく叩かれ続けていた。扉が破られたら、エウリコは自分めがけてやってくるだろう。今度は何をされるのだ。もし、ヤソンがエウリコを止めようとしたら、ヤソンはどうなってしまうのか。

 エウリコに呼びかけるヤソンの声が、だんだん遠くなっていった。

 

(今度こそ、今度こそ、僕がちゃんと逃げないと……)


 あのとき、バルダンの言うとおりに、すぐに逃げていればよかったのだ。あの男が狙っていたのは自分なのだから、さっさと逃げていれば、バルダンは殺されずにすんだのだ。


 ヤソンが振り返り、ルートを気遣った。

 

「ルート、大丈夫ですか」


(また……同じことが……)


 怒声がまた響き、血に濡れたナイフと、くずおれるバルダンの姿が蘇った。バルダンは、あのとき何と言っただろう。


 ――行きなさい!


「……僕、逃げます。だから先生、逆らわないで。あいつを止めたりしないで」

「えっ?」


 ルートはそれだけ言うと、いきなり走り出して窓を開け放ち、外へと飛び出した。


「ルート! 何をするんです!」


 ヤソンの叫ぶ声を背中で聞きながら、ルートは枝をつかんでぶらさがった。そして、身体を振り子のようにして、さらに飛んだ。


「ルート!」


 ヤソンは窓から身を乗り出し、ルートの名を呼んだ。慣れた身のこなしで着地をしたルートは、振り返らずに正門の方へと走り出した。




 

 庭園を突っ切って走って行くルートの姿は、いくらヤソンが呼びかけても、だんだんと遠ざかっていった。

 

「いかん」と、ヤソンは窓から離れ、慌てて扉を開けた。エウリコがすかさず部屋の中に入ってきたが、ヤソンは構わず、従者の1人を捕まえて言った。


「ルートが1人で外に出てしまいました。シスモンド様に報告をお願いします」

「は、はい。ただいま」

「それと、こちらにも人をよこすようにしてください。エウリコ様を何とかしないと」


 ヤソンが急いで部屋の中へ戻ると、エウリコが窓にかじりつき、声を枯らさんばかりに叫んでいた。


「行くな! 待て! 逃がさんぞ!」

「エウリコ様、危ないですから、こちらへ……」

「邪魔するな!」


 従者たちは、暴れるエウリコを窓から引き離そうとしていた。ヤソンがそれに加わろうとしたとき、扉の方から声がした。


「……これは、何事だ?」


 もしや、シスモンドが到着したかと、ヤソンは振り返った。しかし、そこにいたのは、怪訝な表情のクラレオであった。


(よりにもよって)

 

 ヤソンは、内心頭を抱えたい気持ちだった。今、この兄弟が顔を合わせるのは、よいこととは到底思えなかった。

 

「ヤソン、ルートはどうした。授業はもう終わったのか」


 クラレオはヤソンの方へと進んできたが、その奥に、窓にしがみついているエウリコがいることに気づくと、鋭い声を上げた。


「エウリコ! 何をしている」

「兄上……」


 低く唸るような声を出しながら、エウリコがゆっくりと振り向いた。真っ赤になって息を切らせ、目を血走らせたエウリコの形相に、クラレオは一瞬驚いたようだった。

 エウリコは、そのままクラレオに向かってこようとしたが、すんでのところで従者に抑えられた。かすれた声で、エウリコは叫んだ。


「あなた方が隠すせいで、あいつは逃げてしまった! どうしてくれるんです!」

「逃げた……? どういうことだ」


 事情の分からないクラレオは、眉をひそめてヤソンの方を見た。ヤソンは、自分の星回りを恨みながら答えた。

 

「……ルートは、エウリコ様が来たのに怯えていました。私が対応しているうちに、いきなり窓から飛び出してしまったのです」

「何だと!?」


 クラレオはエウリコを押しのけ、窓に駆け寄って下を覗いた。ヤソンは、できるだけ平静に話を続けた。


「落ちたわけではありません。枝につかまり、飛び降りたところは私も見ました」

「怪我は、していなかったか」

「降りるとそのまま、門の方へ駆けていったので、大きな怪我はしていないと思います。呼びかけましたが、振り返らず走って行ってしまいました」

「なんと……」


 クラレオはエウリコに厳しい一瞥を向けると、窓から身を離し、ルートを探させるよう従者に言いつけた。そして、自分も部屋を出て行こうとしたが、そのとき、エウリコが従者の手をすり抜けてつかみかかってきた。


「うっ」

 

 あっさりとクラレオに振り払われ、エウリコは無様に床に倒れた。クラレオは、自分を憎々しげに睨みつけるエウリコを、冷ややかに見下ろした。


「やめなさい、エウリコ。こんなことをしている場合じゃないだろう」

「いいえ! 私にはもう、時間がないのです!」

「時間が……?」

 

 クラレオがいぶかしげに眉を寄せると、エウリコはへたりこんだまま、泣きそうな声で叫んだ。

 

「ご存じでしょうが! 私は、明日にはもう皇都に行かねばならんのです!」

「それは知っている。そもそもお前は、ここに何をしに……」

「ずっと、あいつを私から()()()()()のですか!」


 クラレオの顔から、すっと表情が消えた。

 

「……取り上げる……?」


 クラレオの纏う空気が、一気に冷たく、怒りに満ちたものとなった。エウリコは青ざめて震えだし、クラレオの身体から噴き出す青白い炎のような圧迫感に、ヤソンまで背筋がぞくりとした。


「何を馬鹿なことを言っている。あの子は、最初から誰の()()でもない」


 クラレオが一歩足を進めると、エウリコは、座ったまま後ずさりをした。

 

「そんなことも分からないから、お前はあの子に会えないのだ」


 クラレオは吐き捨てるように言うと、うなだれたエウリコを尻目に、そのまま扉の方へと足を進めた。

 しかし、エウリコは、一度ぎりっと唇を噛むと立ち上がり、「お待ちください」とクラレオの前に立ち塞がった。クラレオは意表を突かれたようだったが、険しい顔のまま足を止めた。


「……まだ、何かあるのか」

 

 ヤソンは、普段は穏やかな好青年のクラレオが、これだけ感情をあらわにするのを初めて見た。顔立ちが整っているだけに、怒りを湛えた表情には凄みがあり、取りつく島もないように感じられた。


「なら、ならば……、お願いです、せめて、あの絵を……離れの絵をください!」

「離れの……絵を?」


 エウリコの従者たちは、顔を見合わせた。彼らは、『離れの絵』のことを知らないようだった。『離れの絵』とは、クラレオが画家に命じて、ルートを描かせた絵のことだ。


(確かに、出来は良かったが……)


 ヤソンも、実物は数回しか見たことはない。絵は、出来上がるとすぐに離れに運び込まれたし、モンテグラシスに関わる者しか、離れに入ることは許されていないからだ。

 

 ヤソンの耳にも、エウリコの起こした事件は届いていた。たった1回会っただけで、エウリコはルートを忘れられなくなった。それが全ての原因だ。

 皇都行きが明日と決まり、引き離されることに恐怖して、エウリコはこの部屋に押し入ろうとした。そして今は、憎いであろう兄に対して、絵だけでもくれるよう懇願している。ヤソンにとっては、それは異常としか思えなかった。

 

 クラレオは、苦々しい顔をして言った。


「お前は、また……」

「絵くらいはいいでしょう! 兄上は、また描かせることができるのに……」

「だめだ。絵は渡さない。お前はもう、あの子に関わるな」

「どうしてですか!」


 クラレオが何を言っても、エウリコは一歩も引かなかった。エウリコのあまりに執拗な態度に、さすがのクラレオも戸惑っているようだった。

 

「いったい、お前はどうしたんだ。おかしいぞ」

「おかしいのは、兄上だ! ここまで、ここまで言っているのに、なぜ……」


 そこに、クラレオの従者が急いでやって来た。


「クラレオ様、ルートはもう、正門を出てしまったそうです」

「なに」


 従者の報告に、クラレオは顔色を変えた。そして、「何かあってからでは遅い、急ごう」と言うと、エウリコなどいないかのように、自分の従者とともにあっさりと部屋を出て行ってしまった。


(やれやれ)


 ヤソンとエウリコの従者たちは、ほっと息を吐いた。ここで兄弟喧嘩を続けられても、自分たちが肝を冷やして縮こまるだけだ。それよりは、ルートを早く探しに行ったほうがずっといい。

 

 しかしエウリコだけは、去って行くクラレオの背を指さして叫んだ。


「ほら、やっぱりおかしいじゃないか!」

ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。

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