2 出会い
ルート:山に住む子ども
レイ:村の子ども
ターシャ:村の子ども、レイの姉
ジーノ:村の子ども
「もうすぐかな」
思わず口から声が出てしまい、レイは自分で驚いた。こつん、と上から頭を叩かれる。
「ちょっと、レイ、静かにしてよ。気づかれたらどうすんの」
「ごめん、姉ちゃん」
姉のターシャが、頭の上から早口でささやく。2人が身を潜めているのは、山裾に広がる林の中の、一抱えほどもある太い木の陰だった。
「ねえ……、出てくるかな」
「出てくるわよ。今日が『ひきかえ』の日なのは、間違いないんだから」
そう言って、ターシャは鳶色のポニーテールを揺らし、木々の向こうの古ぼけた小屋に、同じ色の勝ち気な瞳を向けた。レイがそっと上を向くと、ターシャの薄いそばかすのある顔が、いつもより緊張しているのが見えた。
「しっ……、そろそろだぞ」
隣の木に、同じように身を隠していたジーノが、低い声でぼそっと言った。同年代の少年であるものの、まだ13歳で身体の薄いレイとは違って、16歳のジーノはすでに背も高く、肩幅も広かった。ジーノのこげ茶色の髪は、山ではあまり目立たず、隠れるのに都合が良さそうだった。
「うん……」
レイはごくりと唾を飲み、小屋の方に顔を向けた。今、この3人は、ちょっとした冒険を試みているところなのである。
レイたちが見張っているのは、『ひきかえ小屋』と呼ばれる古い小屋である。その小屋は、変わった造りをしていた。両側を塀に挟まれるようにして建てられているのである。
レイたちの村は、隣国と帝国を隔てる山脈のふもとにあった。村の西側に連なる山々には多くの生き物が住み、村は、動物よけのために木製の頑丈な塀を作る必要があった。
『ひきかえ小屋』は、村の西はずれ、山のふもと側の塀の途中にあった。北から伸びた塀はぴったりと小屋の壁に接がれており、反対側の壁からは南へと続く塀がまた伸びる。小屋と塀の間に、人が入り込めるような隙間はなかった。
村の大人たちは、子どもが『ひきかえ小屋』に近づくのを嫌った。中に何があるのかを聞いても、「大人になったら教えてやる」の一点張りだった。
しかし、隠されると見たくなる。村の中から見える『ひきかえ小屋』の扉には、がっちりとした鉄製の鍵がいつもかかっており、扉に手をかけようものなら、村の大人たちに烈火のごとく怒られた。しかしそれは、子どもたちの好奇心をかえって刺激した。
「ね、あの小屋を山側から見てみない?」
ある日、ターシャがそう言い出した。好奇心旺盛なターシャは、大人になるまで『ひきかえ小屋』の秘密がおあずけになることが耐えられないようだった。レイももちろん小屋に興味はあったが、大人に怒られるのもいやだった。
「でも、山は危なくない?」
「村の塀のそばなら、さすがに大丈夫でしょ」
「そうだけどさ」
結局はターシャに押し切られ、レイも連れて行かれることになった。面倒見がよく、口の固いジーノを仲間に引き入れ、3人は大人の目から隠れながら、山に行く日を相談した。
「せっかくだったらさ……、『ヤマビト』も見たいよね」
相談している最中、ターシャは目をきらきらさせて言ったが、レイもジーノも最初は尻込みした。
レイたちの村は、何代か前の人々が、山からふもとへと続く森を切り開いてできあがった。森の恵みを受けつつも、畑で作物を作り、ヤギや豚などを育てて暮らしている。山はすぐそばにあるが、狩人はいない。村の人間は、どんなに力自慢でも山に近づこうとはしない。山の中には、そこかしこに毒草が生えていると言われているからだ。
しかし、山に棲んでいる者はいる。『ヤマビト』と呼ばれる人々だ。
ヤマビトは、毒に満ちている山に棲む。こともあろうに、その毒草までも自在に扱う。そして毒草と引き換えに、村人に食糧や衣類などを要求する。
毒を恐れる村人たちは、致し方なく彼らの要求を呑む。その毒草を処分するために、村長は、はるばる遠くの街まで行かなくてはならない。これが、一月ごとに繰り返される。
これが、この村で言われる『ひきかえ』なのだ。
過去には、自分たちの子どもを産ませるために、村の女性を要求したこともあったそうだ。だからヤマビトは、村では忌み嫌われていた。
――毒蟲。
村の中には、ヤマビトを、憎しみをこめてそう呼ぶ者もいた。山から来るのは、恐ろしく、忌まわしいもの。大人たちは声をそろえてそう言い、山に近づくなと子どもたちを脅した。
だから、レイもジーノも、ターシャを心変わりさせようと何度も説得した。しかし、弁の立つターシャに2人とも言い負かされ、結局、山へは『ひきかえ』の日に行くことになってしまった。
『ひきかえ』が行われる日を知るのは簡単だった。その日は、大人たちがいつもに増して、子どもたちを『ひきかえ小屋』から追い払うからだ。
(今日は朝から、母さんたちがうるさかったからな)
大人たちの様子から、今日が『ひきかえ』の日だと見てとったレイたちは、村をそっと抜け出した。そして、塀に沿って山側に回り込み、木々に隠れて小屋を見張ることにした。
山の方から見る『ひきかえ小屋』は、村から見るよりも古ぼけた感じがした。塀や村側の壁は何度か補修された跡があったが、山側には手が入っておらず、木の色は褪せ、ところどころが朽ちていた。山側の扉には、見たところ目立つ鍵はなかった。
小屋の方からは、男の声が聞こえてくる。おそらく、『ひきかえ』はもう始まっているのだろう。『ひきかえ』が終われば、山側の扉から『ヤマビト』が出てくるはずだ。
(どんな格好をしているんだろう……)
『ヤマビト』というからには、人の形をしているのだろうか。それとも、山に棲む獣と見分けがつかないような姿なのだろうか。もしくは、人とは似ても似つかない、おぞましい魔物が出てくるのではないか……。
もしかして、自分はとてつもなく危ないことをしているのではないかと言う気持ちが、レイの中で渦巻きはじめた。気がつけば、ぴったりと身を寄せるターシャの身体もわずかに震えており、レイはますますこの場に来てしまったことを後悔していた。
「帰ろう」という言葉が喉まで出かかったとき、急にバタン、と強く扉が閉まる音がした。続いて、ガチャガチャという硬い金属がぶつかる音が響いた。レイは慌てて小屋の扉に目をやったが、それは変わらず閉まったままであった。
「村の方だね」
「鍵をかけているのかしら」
「たぶんね」
大人に見つかれば、大目玉なのは間違いない。塀の向こうなので、村側から自分たちが見えることはないと思うものの、3人はさらに身体を小さくし、じっと身を潜めた。そうしているうちに、村の男たちの笑い声が聞こえた。
「来るぞ……」
ジーノが額にじっとりと汗を浮かべて言った。3人はお互いに目配せをし、頷いた。
3人が見つめる中、小屋の扉がキイと音を立てて、ゆっくりと開いた。扉から出てきたのは、小柄な人影だった。フードを深くかぶり、マントを羽織ったまま、袋をひとつ背負っていた。
(あれが……ヤマビト?)
ヤマビトは扉が閉まったことを確認すると、フードを上げて顔を出し、深く息を吸い込んだ。
「あ……」
柔らかな明るいブラウンの髪が、フードの中からふわりとこぼれ出た。遠目にもすっと通った鼻筋とほんのりと上気した頬が見え、整った顔立ちを想像させた。フードの隙間からちらりと覗く首は細く、華奢な骨格の持ち主であることを示していた。
「え……?」
「あれが……?」
ターシャやジーノも、戸惑いを隠せていない。無理もない。たった今まで、ヤマビトは異形の人間か、あるいは獣そのものではないかと思っていたのだから。
山から風が吹き下ろし、ヤマビトの髪を乱した。ヤマビトが痩せぎすの手でざっくりと髪をかき上げると、赤く色づいた大きめの耳が現れ、横顔があらわになった。長い睫毛や薄い色をした形のよい唇もはっきりと見えたし、木陰のやわらかな陽射しを受けているなめらかな肌は、あきらかに年若い人間のものだった。
(僕と同じくらいの……)
「さむ……」
ヤマビトは人がいるなどとは夢にも思っていないようで、油断した様子でひとりごちた。風に乗って、レイの耳にその声が届いた。あどけない、少し高めの声に、レイの頭は真っ白になり、身体はいつの間にか細かく震えていた。ヤマビトはフードを戻すと、古そうなマントを身体にしっかりと巻いた。
レイはもう、目の前の光景にすっかり心をとらわれていた。かの一挙手一投足を見逃すまいと、木を抱く手にも力が入った。当初に抱いた怖さなど、今やどうでもよかった。叫び出したくなるような、どうしようもなく切ない気持ちをおさえるのに必死だった。
(あの子が……、あの子がほんとうにヤマビトなの……?)
村の大人が『毒蟲』と呼ぶもの。それと、今、レイの目に映る美しい人の姿が、どうしても頭の中でつながらなかった。
――むしろ、おとぎ話の妖精のような……。
ぱき。
小さな音が響いた。緊張のあまり、ターシャが小枝を踏み折ってしまったのだ。ヤマビトが音に気づき、フードを上げてレイたちの方を見た。
3人が慌てて身を隠す一瞬、ヤマビトの深緑の瞳が、レイの視界に飛び込んだ。山の獣がたてた音だと思ったのか、ヤマビトはあっさりと顔を戻すと、山道を軽やかに上っていった。
木の葉を踏む足音が消え、しばらく経ったあと、3人は同時にずるずると地面にへたりこんだ。最初に口を開いたのは、ターシャだった。
「ごめん……」
「いや、仕方ないよ。ばれなくてよかった」
そう言うジーノも、額の汗を袖で拭っていた。ターシャは木にもたれたまま、胸に手を当て、荒くなった息を整えていた。
「同い年くらい……かしら」
「いや、レイと同じくらい……。もしかしたら、レイより年下かもな」
緊張が解けてくると、ターシャとジーノは興奮した様子で、自分たちが見たものについてしゃべりはじめた。しかし、レイはぽかんと口を開けたまま、ただ黙っていた。
(なんて、なんて言ったらいいんだろう)
――あんなに綺麗なものは、今まで見たことない。
「どうした。ぼんやりして……」
ジーノが心配そうに顔を覗き込んできたが、レイは上の空だった。目を閉じても、開いても、そこにはただ美しい、深緑の瞳をした山の妖精の姿だけが映っていた。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。