13 皇帝崩御/背中
トラメンダ:疫病プルラの特効薬
モンテグラシス(=八花草):トラメンダの原料となる薬草
アンティフラ:プルラの治療薬
タチアナ:ハーフェン帝国第2皇女
ソフィア:ハーフェン帝国第1皇女
ユーリ:ハーフェン帝国皇太子
レイ:トモロ村の子ども
ターシャ:トモロ村の子ども、レイの姉
「貴様のせいだ! 貴様のせいで、父上は……」
「殿下、そのような……」
「何か間違ってでもいるか。こやつに貴重なトラメンダを使ってしまわなければ、父上は回復されたかもしれないのに」
皇帝の遺体の前で、侍従が止めるのも構わず、皇太子はきいきいと叫んでいた。
「……申し訳ありません」
タチアナは、頭を下げるので精一杯であった。父親を亡くしたばかりというのに、実の兄に心無い言葉を投げつけられ、ただただ悲しかった。下を向いた目から涙がこぼれ落ちないように、両の手をぎゅっと握りしめ、必死にこらえた。
すると、姉のソフィア皇女がタチアナをぐっと抱き寄せた。
「皇太子殿下、それはあんまりなお言葉ですわ。タチアナのせいではないでしょう。それに、このような場にふさわしくないお話ではなくって?」
ソフィアが厳しい目できっと皇太子をにらむと、皇太子は苦々しい顔をしながらも口をつぐんだ。ソフィアは皇太子よりも年が上で、幼い頃から聡明で周囲からの評判が高かった。そのため、皇太子もソフィアに対してはあまり強く出られなかった。
「まずは、皇帝崩御の知らせを。そして、殿下の即位の準備をいたしましょう」
「わかっている! 姉上は口出しをしないでくれ」
皇太子は侍従たちに命令を下すと、人払いをした。そして、冷たくなって横たわる皇帝の前に膝をついた。
久しぶりに見る父親の顔には血の気がすっかりと失せており、痩せて骨の浮き出た手が胸の前で組まれていた。皇太子は、肩を震わせて泣き始めた。
(ずるいわ、お兄様は……)
タチアナやソフィアは、病床の皇帝になかなか会わせてもらえなかった。皇太子ばかりが傍にはべり、皇后ですら自由には会えなかった。だから、タチアナは生きているうちに父親と十分に言葉を交わすことができなかった。
タチアナは、またじわりとにじむ涙を、ソフィアの袖をつかんでこらえた。兄は自分のことばかりで、自身が泣くことは許しても、タチアナが泣くことは許してくれはしまい。ソフィアは、袖をつかむタチアナの手に自分の手をやり、優しく握った。ソフィアの柔らかい手が、タチアナの唯一の救いであった。
皇太子は、長い時間ひとりで泣いていた。後ろにいるソフィアにも、タチアナにも声をかけることなく、この場に自分と父親の亡骸しかないかのようであった。ソフィアが皇太子に近づき、後ろから声をかけた。
「……ユーリ、無理をしないでちょうだい。私にできることは私に任せて。こんな時だからこそ、私たち協力しなくては」
ソフィアは皇太子の名前を呼び、その骨張った肩に触れようとした。それが、皇太子にはいたく気に入らなかったようで、振り向きざまに激しくソフィアの手を払いのけた。
「出て行ってくれ!」
その大声に、タチアナはびくりとした。必死に我慢していた涙がこぼれてしまいそうであった。
「……わかったわ」
ソフィアの目配せで、タチアナはソフィアとともに部屋を出た。扉の外で、とうとうタチアナの目から涙があふれ出た。ソフィアは、ハンカチでタチアナの涙をそっと拭うと、穏やかに微笑んだ。
「タチアナ、ユーリの言うことは気にする必要はないわ」
「……はい」
「でも、あの子が次の皇帝になるのだから……。私たちは、ユーリを支えなくてはね」
(……即位するのが、お姉様だったらよかったのに)
ソフィアの言葉にうなずきながらも、タチアナは思った。この有事における冷静さ、判断の早さは、明らかに兄よりも姉の方が勝っていた。おそらく、まわりにいた侍従たちも、同じように思ったに違いない。それに、大柄で肉付きのよい姉の落ち着いた声は、痩せた兄の金切り声よりも、皆に安心感を与えていた。
(でも、そんなことを誰かが言ったら、またお兄様は、烈火のごとくお怒りになるに違いないわ)
何より、ソフィア自身が弟と争う気がなかった。ソフィアは隣国の王子との婚約がすでにまとまっており、そのうちに宮廷を離れてしまうだろう。母である皇后は兄を溺愛しており、タチアナよりは兄ユーリの方に味方をする。そうしたら、自分は一人だ。
ただ、救いはあった。皇女であるタチアナもまた、いずれ政略結婚のためどこかに嫁ぐ。いつまでも宮廷にいるわけではない。それまでの辛抱だった。
しかし、それは何年後だろう。3年? 5年? それとも10年?
ソフィアが、タチアナの手を引いた。
「さあ、行きましょう。私たちも準備をしなくては」
「はい」
善き皇帝であり、娘として愛する父親がこの世を去った。ソフィアとて、その死を静かに悼みたい気持ちであろう。しかし、皇女であるソフィアもタチアナも、ただ悲しみに暮れているわけにはいかなかった。
(お姉様に、いつまでも頼ってはいられないわ)
自分の心は自分で慰めなくては。タチアナはそう心に誓った。
◆
暗くなった家の中に、ひそひそと話す、少年と少女の声が響いていた。
「ねえ、レイ。もうやめて」
ターシャは、ベッドから抜け出そうと身体を起こした弟に、後ろから取りすがった。
「ごめん、姉さん」
レイは振り向かず、そっと姉の手を外した。窓から入る月明かりが、レイの首筋に伸びる赤い傷を照らした。ターシャは息を呑み、「見せて」と弟のシャツをめくると、その背中に釘付けとなった。
レイの背は全体が赤く腫れあがり、無数の傷がついていた。古い傷の上には新しい傷が幾重にも重なり、いくつかの傷には、まだ血がにじんでいた。レイは、黙ってされるがままになっていた。
「ああ、もうひどい傷……。ねえ、これ以上は、あなたの身体がもたないわ」
「もたなくたっていいよ。……こんな身体」
レイは自嘲するように言った。ターシャはレイのシャツを戻すと、いたわるようにその背を撫でた。
「そんなこと言わないで。あの子のことは、あなたのせいじゃないわ。もうこんなふうに、自分をいじめるのはやめて」
「姉さん。あの子は、もっと苦しかったよ。きっと……」
『妖精』の姿は、レイの目に焼き付いていた。最初は美しさばかりに目を引かれたが、思い出せば思い出すほど、痩せた体つきや、赤く腫れた頬が痛々しく、レイの胸は締めつけられた。
――大嫌いだ!
そう言われても仕方がない。そして、いまさら取り返しもつかない。
ターシャが、レイの背に額を当てた。姉の涙がレイのシャツに、熱く染みた。
「ねえ、あの子が生きていたら、あの子が許してくれたら、やめてくれるの?」
「……どうだろうね。わからない」
(あの子が、どこかで生きているなんてことを、期待していいんだろうか)
もしそうなら、どんなにいいだろう。村に愛想をつかして、ただ、山から下りてこなくなっただけだったら?。
でも、そうしたら、あの子は村から何ももらえない。痩せた身体が示すように、あのときでも、おそらく食糧は足りていなかったのだ。子どもがたった一人、山の中で生きていく術を、レイは想像できなかった。
ターシャはまだ、レイの背中で泣いていた。
「私が、山に行こうなんて言わなければ。ごめんなさい」
「姉さんを責めるつもりなんてないよ」
自分の行動が姉を苦しめているのはわかっていたが、今はただ、好きにさせてほしかった。
「僕は、あの子に会ったことを後悔なんてしてない。会えなかったらなんて、考えたくもない……」
あの子のことを知らなかったら、自分は食事の少なさや仕事の多さを嘆き、ただ人のせいにして恨みをこぼす、醜い人間のままだっただろう。まるで、今の両親のように。
「……やっぱり、今日もまた、行くの?」
「うん、……こうしなかったら、かえって壊れてしまいそうな気がして」
「ああ……」
ターシャのすすり泣きの声を背に、レイは扉の方に向かった。家の中に、両親はいなかった。レイは、寝ている隣人を起こさないよう、音を立てずにそっと家を出た。
家の裏に回ったレイは、草をかき分け、腕の長さほどもある枝を手に取った。
それは、もはやレイの日課となっていた。ジーノから真実を聞かされ、山へと駆けていったあの日、レイは山から一抱えの枝を持ち帰り、家の裏に隠しておいた。自分を罰するのは、あの山の枝でなくてはならなかった。
レイは毎晩寝床を抜け出し、家の裏で背中を打っていた。最近の両親は夜になると、レイとターシャに寝床に行くよう言いつけて家を出てしまう。おそらく、同じように不満を抱える大人たちが集まり、どこかの家で毒づいているのだ。
だから、その目を盗むことはさほど難しくはなかった。レイの秘密を知っているのは、ターシャだけだった。
レイが背中を打つ音は、寝床の中にいるターシャの耳まで届いていた。その音がしている間は、ターシャは目を閉じ、耳を塞いで泣くのだった。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。




