1 八花草
ルート:山に住む子ども
――その花は、夜明けにひらく。
夜の間は固く閉じてうつむいていた蕾が、ゆっくりと天を向いていく。そして、つんとしていた先っぽが次第にゆるみ、少しずつ、白い花弁が覗いていく。
(……始まった)
ルートはそっと立ち上がり、咲きかけた花へと近づいた。この花を咲かせている草の名を、ルートの両親は『八花草』と呼んでいた。その名のとおり、剣のようにまっすぐな葉に囲まれて伸びた茎に、いくつもの蕾がぶら下がっている。
ルートは手早く根元を掴み、きゅっとひねって草を摘み取った。まわりを見渡すと、いくつか同じように開きかけた花が見られた。ルートは慣れた手つきで、次々に八花草を摘んでいった。
ルートの使い古した籠がいっぱいになるころには、辺りは白い花で埋め尽くされようとしていた。その蜜をめがけてどこからか一匹、また一匹と蝶々が集まってきた。
(そろそろ、帰らないと)
すべての花が開ききると、受粉が始まる。受粉すると八花草は毒を吐く。吐かれた毒はあたりの土にしみわたり、次の花を咲かせるまでの間、生き物を寄せつけない。うっかり近寄った生き物は、八花草たちの養分となる。そうやってこの草は、敵から種と我が身を守っているのだ。
八花草たちが再びその身に毒をたっぷりと蓄え、開花の準備を済ませた頃には、まわりの土からはすっかり毒が吸い出され、人が近づけるほどになる。だからこの時期が、八花草の収穫には一番安全なのだ。
ルートは最後の八花草を籠に入れると、手早くそれを背負った。欲を出すとろくなことにならないと、小さな頃からうるさいほどに父親に言われてきていた。山ほどの八花草を抱えたまま死ぬなど、ばかばかしいこと限りない。
八花草がまとまって生える場所は他にもあった。明日からもまた、開花を確認しに行かなくてはいけない。
「……ここには、しばらく来られないな」
つい独りごちてしまい、はっとする。自分に山のことを教えてくれた父親に次いで、母親までも昨年亡くなってしまった。独りで暮らすようになってから、喋る相手がいないせいか、つい思ったことを口に出してしまうことが多くなった。
(いけない。油断しては……)
ルートは籠を背負ったまま、そうっと立ち上がった。花に警戒心を起こさせないよう、慎重に足を進めていく。朝露に濡れた土肌を踏みしめ、数歩進んだところで、ふと後ろを振り返った。
(ああ……、相変わらず、きれいだ)
夜明けの空気は澄んできらきらと輝き、純白の花の絨毯と、その上で踊る色とりどりの蝶々たちを照らしていた。一昨年までは、父親が隣にいた。目の前の光景につい見蕩れてしまうルートを、父親はいつも急かした。
(……もう、誰もいない)
じわりと目が熱くなるのを感じ、ルートは前に向き直った。そして籠のひもをぎゅっと掴むと、またそろりそろりと山道を歩き始めた。
◆
「さっさと持ってきたものを置け! 毒蟲!」
「妙なことしやがったら、ただじゃおかねえからな!」
数日後、埃っぽい小屋の中で罵声を浴びながら、ルートはじっと黙って立っていた。
小屋の中には、どっしりとした大きなテーブルが、小屋を二分するように置かれていた。テーブルの下やそのまわりには土のうがぎゅうぎゅうと積まれ、身体の小さなルートにはかんたんに乗り越えられそうもなかった。しかしそのテーブルの向こうでは、大の男が2人、身を固くして壁に張りついているのだった。
彼らは防寒用のマントをはおり、顔の下半分に布を巻きつけているため、どんな顔つきなのやら、どちらが年上なのやら分からない。ただ、布の上から覗く目だけは、二人とも同じように、ルートをきつく睨みつけていた。
怯えと憎しみをはらんだその視線は、いつものこととはいえ、ルートにとって気分のいいものではなかった。ルートは深く息をつくと、頭に被ったフードの裾をつまみ、そっと目の上まで降ろした。
ルートは、持ってきた八花草の束を脇に抱え、テーブルへと近づいた。すると、男たちが後ずさりをしようとして、さらに壁に張りつく形となった。小柄な方の男が、目元を赤くして金切り声を上げた。
「動くときは言えって言ってるだろ!」
(言われた覚えはないけど)
ここに来る者たちは、いつも自分勝手に怒鳴った。ルートは男の声には答えず、八花草の束をテーブルの上にとんと置いた。すると、男たちの目がその束に釘付けになった。
「置いたよ」
ルートがそう言って後ろに下がると、男たちが尻込みしながら、そろそろとテーブルに近づいてきた。身体の大きな男が、革の手袋をした手で、ざっくりと八花草の束を掴んだ。小柄な男は、麻袋の口を広げて八花草を受け取ろうとしているが、腕を前に突き出し、顔を思い切り背けている。2人がこわごわと作業をするせいで、八花草が麻袋にしまわれるまで、かなりの時間がかかった。
麻袋の口が閉じられると、2人の男はほっとした表情を浮かべた。これで仕事は終わったといわんばかりの2人に、ルートはため息をついて、声をかけた。
「……そちらのも、渡して」
「あ?」
男たちは、それでやっと自分たちが持ってきた荷物のことを思い出したようだった。身体の大きな男が、床に置いていた薄汚れた袋を片手で掴むと、テーブルの上に乱暴に置いた。
「ほらよ」
ルートが袋をたぐり寄せたときには、男たちはもう小屋を出て行こうとしていた。
「あ……、ねえ」
バタンと閉まった扉の向こうからは、ガチャガチャと鍵を閉める音に続いて、がさつな笑い声が聞こえてきた。もう一度ため息をつき、ルートは袋の中身を確認した。
(また……減ってる)
悔しさをどうすることもできず、ルートは袋を持つ手を、ぎりぎりと握りしめた。
「うう……」
――どうして、こんな扱いを受けないといけないんだ。
昔から続いてきた取り引きのはずだった。
月に1度、干した八花草を渡す代わりに、小麦などの食糧や、衣類などの生活に必要な物品をもらう。この物々交換は、ルートのような山に住む人々と、この村との間で、長い間行われてきた。
山に住む人々が次第に減るに従って、八花草の収穫量も減ってしまった。しかしそれ以上に、村人から渡される袋の数が少なくなった。やがて山に住むのがルートの家族だけとなったときには、袋の数はたった一つになっていた。
それでも、ルートの母親が生きていたころまでは、かろうじて生きていけるだけの量は袋の中に入っていた。
それは、おそらくルートの母親であるエーヴィアが、この村の出身だったからだろう。
エーヴィアは村について話すことはほとんどなかったが、小屋に現れる村人はエーヴィアのことを知っているようだった。父親が亡くなったあとは、エーヴィアがルートを連れて小屋に行った。その頃の村人は、今よりもずいぶんていねいな言葉を使っていた。
エーヴィアが病に倒れ、ルートが一人で小屋に来るようになってからは、村人の態度はあからさまにぞんざいになり、袋の中身は抜き取られるようになった。ルートがいくら頼んでも、エーヴィアを医者に診せることも、薬を渡すことも村人は拒否した。
(怯えているのに……)
猛毒を吐く八花草を、村人たちは必要以上に怖がった。摘んでしまえば素手で触ろうと何と言うこともないが、それをルートが彼らに教えたとて信用はしないだろう。彼らは、山の人々をもまた、毒草と同じように扱うのだから。
(ううん、そうじゃない。僕なんてそれ以下なんだ)
上背があり、立派な太い腕を持っていた父親とは違って、ルートは村人たちより小さく細い。毒は怖くても、ルート自身などどうにでもなると思っているのだろう。まさに、いつでも踏み潰せる『毒蟲』だ。
それに彼らは、山に住む者がいまやルートひとりとなったことを知っている。いくら虐げたとて、報復を行うような仲間がいないことがわかっているのだ。
考えれば考えるほど、どんよりと暗い気分は悪くなっていくようだった。何度目かのため息をつくと、ルートは袋を背負い、小屋の扉を開けて外に出た。すぐ目の前は山の斜面となっており、細い山道が上へと伸びていた。
「さむ……」
フードを上げて顔を出すと、ひんやりとした空気を感じた。山から吹き下ろす風は、冬の始まりを告げるように冷たくなっていた。ルートは、擦り切れた古いマントを身体に巻き直した。
(冬を越せるだろうか……)
袋の中身が抜き取られるようになってから、衣類がほとんど手に入らなくなった。ただ、今のところ衣類はまだいい。何とか父親や母親の遺したものでしのぐことができるからだ。
しかし、食糧までもが減らされてしまっては、冬の山を乗り切ることができそうにない。身体の小さなルート一人では、ウサギなどを捕まえる程度の罠を仕掛けるのが精一杯だ。父親が生きていた頃のように、大物を狩って、数週間分の食糧にすることはできない。
だから今日も、袋の中身を増やしてもらうように言おうとしていたのだが、伝える前に村人はさっさと帰ってしまった。
(まあ、次に同じくらいのものがもらえれば、なんとか……)
夏のあいだ、こつこつとためていたので、食糧にまだ少し余裕はあった。それに、本格的な冬がやってくる前に、もう一度小屋に来る機会はある。しかし……。
これから、こんな日々がずっと続くのだろうか。暗い気分になり、ルートはうつむいて、また大きくため息をついた。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。