5 Into The Ditch
(『ジパス・アドミニ』完全終了。エラー。完全終了失敗)
世界を揺るがすほどの振動と爆音。
俺の見当識は失われた。俺はマイトー社が奪った大地に顔を押し付けられた。
意味ある物は見えず、何も聞こえない。
ただ恐ろしい寒さが俺を掴んでいる。
そして窒化炭素の硬い指が俺を引きずり始めた。
やめろ! 俺たちは勝ったんだぞ、『メルレンジェ』!
なぜ俺はこんな状況に陥っている?
幽霊のように、感じることのできない何かが俺を取り巻いている。『メルレンジェ』に焦点を合わせようと俺は全ての力を注ぐ。だが、無針注射が俺の首筋に当てられ、何かを注入してきた。
『メルレンジェ』を感じようとする俺の努力を妨害してくる。
空気は急激に粘度を増していく。『メルレンジェ』が失われ、『メルレンジェ』を感じることができなくなる恐怖がやってくる。
(『ジパス・アドミニ』起動。エラー。起動中止)
(『メルレンジェ』起動。エラー。起動中止)
俺は意味ある物を見ていない。周囲を亡霊が動き回っている。
指一本動かすことができなかった。
精神と肉体の間にリンクが確立していない。
(『システム・チェック』起動。エラー。起動中止)
(当該ファイル142の欠損を確認)
ここは寒くてたまらない。
(『システム・チェック』起動。エラー。起動中止)
俺はここで何をやっている?
俺がいるべき場所は『メルレンジェ』の中だ。
(『システム・チェック』起動。エラー。起動中止)
俺はあそこに戻らねば。
『マキシマス』を追わないと。
(『システム・チェック』起動。エラー。起動中止)
(『ジパス・アドミニ』起動。エラー。起動中止)
(『メルレンジェ』起動。エラー。起動中止)
あまりの寒さに関わらず、俺は身震いすることすらできなかった。
(『ジパス・アドミニ』起動。エラー。起動中止)
かすかな望みも止めどないエラー表示に埋もれていく。
もはやエラーの他に何も知覚することができない。
(『能率的チャティー・レディー』起動。エラー。起動中止)
(『ビブリオテーク』起動。エラー。起動中止)
思考の速度がだんだん遅くなっていく。
一つの文字を作るのに膨大な時間が必要となった。
(『肩の荷』起動。エラー。起動中止)
(『ダンジョン・マッパー』起動。エラー。起動中止)
避けがたい死の予感があった。
違う。
これは死ではない。もっとひどいものだ。
(『ジパス・アドミニ』起動。エラー。起動中止)
(『システム・チェック』起動。エラー。起動中止)
俺たちは勝ったのだよな、『メルレンジェ』?
敵……に。
(『ジパス・アドミニ』起動。エラー。起動中止)
(『システム・チェック』起動。エラー。起動中止)
敵の名はもう思い出せない。思い出す方法も思い出せない。
あらゆる物が失われていく。
(『ジパス・アドミニ』起動。エラー。起動中止)
(『システム・チェック』起動。エラー。起動中止)
いや、大丈夫だ。二つの名前さえ覚えていれば。
『メルレンジェ』。
そして……『マキシマス』。
(『ジパス・アドミニ』起動。エラー。起動中止)
(『システム・チェック』起動。エラー。起動中止)
『メルレンジェ』。
そして……そして……。
(『メルレンジェ』起動。エラー。起動中止)
だしぬけに外部知覚が戻った。細々とデータが入ってくる。
「メルさん、運が悪いね」
巨大な影が上から見下ろしてくる。『マキシマス』か?
違う。髪を束ね、白衣を着た若い女が顔をしかめて見下ろしてきている。
また彼女か! マイトー社には彼女以外にメディックがいないのか?
どこからか、そんな言葉が浮かんできた。だが、それでもこの女が誰なのか分からなかった。
「00オーバーカムが起きちゃうなんて……。GPASにハマる馬鹿ならでは、だよ」
彼女は目を伏せる。しばらく沈黙が続いた。
「あなたの『メルレンジェ』とあなたの自前の脳味噌、落差が大きすぎたんだ。00オーバーカムだなんて……。『メルレンジェ』とメルさんを行き来することは、魚を淡水と海水に交互につけるようなもんだったんだよ。精神のデータ転送で少しずつあなたの人格は削られていって……ついにはメルさんの脳が精神を拒否したんだ。あなたの構成人格の一部はちぎれて、『メルレンジェ』の疑似ニューロンが作った回廊を行く当てもなく、ぐるぐるループしているのかも。どうしてこんなことになっちゃったんだろうね……」
知るか。
『メルレンジェ』……おまえは俺を捨てたのか?
おまえにとって、俺は邪魔だったのか?
空気が歪んだ。
初老の男が浮かび上がる。ホログラムだ。髪を頭になで付け、スーツを着こなしている。
俺はこの男を知っているのかもしれない。だが、思い出すことはできなかった。
「君に驚く能力が残っているのなら、驚いていることだろう、メル。私はマイトー社のチーフ・インスペクター。つまり、社長だ」
幻影の男は歩み寄ってきて、女の反対側に立つと、俺を見下ろしてきた。
「リーク・ストイコフも罪深い物を残してくれた。君はGPAS適性が高すぎた。00オーバーカムは起きてしまった。……00オーバーカムが実在することを聞くのは初めてだろう? 私たちを責めるかね? 私たちにはGPASが必要だ。そして、00オーバーカムの存在は世界に有害な恐怖を招く。GPASは無敵の巨人で、ヒーローでなければならないのだ。私たちはその存在を隠さねばならないのだよ」
社長は物憂げに窓の外へと目をやった。
「なぜそれが起こるかは、分からない。実のところ、私たちは人間の精神とGPASの関係を何も分かっていないのだよ。分かっていたのはリーク・ストイコフだけだった。私たちは彼に依存しすぎた。……だが、彼に追いつくために私たちは努力できよう」
幻影の男の目は潤んでいた。
「メル、マイトー社は君に感謝している。君はAA社の『ハウンド』を倒して新たな伝説を作った。君が余生を何一つ不自由せず暮らせるように計らうつもりだ。たとえ、君にそのことを理解できなくてもな……」
社長は女を向いて、
「彼のデータは逐一送ってくれたまえ。00オーバーカムの極めて貴重なデータだ。彼の『メルレンジェ』回収コプターは明日到着する。……もう彼にGPASは必要あるまい。この部屋には誰も近づけるな。ファンは彼の残骸など見たくはないだろう」
「了解です」
ホログラムは消え失せた。
女はもう一度こっちを見下ろし、つぶやいた。
「メルさん、あなた馬鹿だよ……」
(『メルレンジェ』起動。エラー。起動中止)
メルは失われてしまった。
残念でならない。
だが、俺の始めた物語は止まらない。リーク・ストイコフの作った悪夢のシステムはそれを許さない。
俺は前進を続けるしかないのだ。
突破点に向かって。