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虎を飼う  作者: 空峯 千代
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蜜を誘う

「大切なのはビギナーズラックよ。誰だって人生の初心者でしょう?」


 決して生半可ではない夜の世界。

 競争の激しい環境を、華々しいビジュアルと手練手管(てれんてくだ)で生き抜いてきたお袋の口癖だった。


 それぞれがそれぞれの事情を抱えて闊歩(かっぽ)する夜の街。

 週末の喧騒(けんそう)やアルコールの匂いは、幼い頃の俺にとって生活の一部としてあった。

 ただ大多数の子供にとってはそうじゃなかったらしい。

  あたりまえが周囲にとってのあたりまえではなかった時、それは"異常"と呼ばれる。

 誰に教えられるわけでもなく、俺は幼いながらにぼんやりと悟っていた。


 それでも、夜の世界は自分にとって居心地がいいことに変わりはなかった。

 毅然(きぜん)とたち振る舞うお袋の姿は、凛として美しかった。

  理解は得られなくとも、誰かに理解される必要はない。

 (まばた)きを忘れるほど美しいものがそこにあるなら。


「もうアラーム五回鳴ったけど、いいの?」


 スマホのけたたましいアラーム音とユーガの声で眠りから覚めた。

 返事をして起き上がろうとすると、連勤の疲労感が目覚めようとする意志をごっそり削っていく。


「……休みだからもう少し寝る」


 寝返りをうって、ベランダ側の壁の方へ向きを変える。

 剥がれていた布団を肩まで被るようにしてからもう一度寝直す体勢をとった。


「じゃあ、フウタが起きないなら俺も二度寝しよ」


 ユーガは、言うなりベッドに身体を乗り上げて布団に空間をつくり潜り込んできた。

 想定外の行動だったが、ユーガを追い出すよりもそのまま寝たい気持ちが勝つ。


「ガキかよ」

「俺はいつまでもガキだよ」


 悪態をついたが、ユーガはなんてことなさそうに返した。

 とっくに成人している男二人が、狭いベッドでたまに脚をぶつけ合いながら二度寝に(ふけ)る。

 なんとも言えずむさくるしい。

 とはいえ、子どもの頃に戻ったような不思議な懐かしさを覚えたのも事実だった。

  快適には程遠いがまんざら悪い気はしないもんだ。

 昼までに起きられたらコンビニに行ってこよう、とぼんやり考えつつ微睡(まどろ)みに身を任せた。




「もういいのか?」

「うん。早く始めちゃおうよ」


  ユーガは躊躇(ためら)いなく着ていたTシャツを脱ぐ。

 そして、予め指示していたとおりに後ろを向き椅子に腰掛けた。


  軽く昼食を終えた午後、二人でアトリエに向かった。

 これからユーガをモデルにデッサンして、一枚の絵を描く。

 背を向けたユーガを眺め、構図を再度確認してから少しちびてきた鉛筆を持った。


「同じ姿勢のままだと疲れるから、休憩したい時はいつでも言ってくれ」

「わかった」


 少食のユーガは相変わらず線が細く、日焼けした跡もない。

 透けるように白い肌だった。

 まだ十代だった夏の日に俺が彫った虎もそのままだ。


 虎は、白い肌の持ち主とは対照的だ。

 ブラック&グレイで縁取られた肉体が強さを主張しているように見える。


 賞に応募してみようか、とふと思ったのはユーガの何気ない一言からだった。


『これだけいい絵が描けるんだから、いけるんじゃないの』


 本人はきっと軽い気持ちで言っただけだっただろう。

 けれど、ほんの一瞬、その言葉で自分に風が吹いたような気がした。

 おまけに頭の中でパッと花開くように浮かんだ絵が、とうのユーガなのだから不思議なものだった。


 今、目の前にある細い身体と屈強な獣。

 陶磁器のような白いキャンバスに黒い墨で描かれた虎。

 自分が賞に送り出せるほど力を注げる絵があるならこれしかないと確信した。

 その証拠に鉛筆を動かしはじめると、そこにあることが決められていたかのように線が描き加えられる。


 まるで、ひとつの世界を覗いている気分だ。

 見えなかったものを、絵にすることで垣間見ている気がする。

 束の間の世界に潜っていると、順調にスケッチは進んでいった。

 気がつけば、まっさらなキャンバスにはユーガの背中が据えられている。


 当然、黒い虎もはじめからそこに居たみたいに中央を陣取っている。

 頭だけ動かして絵から距離をとり、全体を一望して細かい修正を加える。

  直しを入れたほんの数箇所を除けば、(おおむ)ね浮かべていた景色そのままで感動すら覚えた。

 とりあえず下書きを終えて腕時計を見ると、いつの間にか描きはじめからゆうに三時間を越えていた。


「ごめん。そろそろ休憩にしよう」

「……よかった。身体バキバキになりそう」


 実際にユーガが伸びをしただけで面白いように骨の鳴る音がした。

 さっきまで絵画のように佇んでいたのに、小気味のいい音がまぬけで思わず笑ってしまう。

  自分も腕を上に伸ばして背中を仰け反ると、同じように音が鳴って今度はユーガに笑い返された。


 ソファベッドに並んで座り、コンビニで買ってきた新発売のフラッペを飲む。

 ラムネ色とピンクがマーブルに合わさった見た目からは想像出来ない、思いのほかフルーツ系のさっぱりした味だった。

  わざとらしいシロップの甘みが子どもの頃に食べた屋台のかき氷を思わせる。


「ねえ、見て」


 ユーガはこちらを向いて口を開け、水色になった舌をあっかんべえするように見せてきた。


「今日のおまえ、ほんっとバカじゃねえの」


 おどけた顔のユーガに自分もあっかんべえして青くなった舌を見せる。


「俺ら二人ともバカじゃん」


 俺の下にこびりついた青を見て、ユーガも笑う。

 いつかの夏の日、高校生だった頃の俺たちに戻ったみたいだった。

 それからひとしきり笑って、溶けてきたフラッペをストローで手持ち部沙汰に混ぜながら、たわいのない話をつづけた。


「絵のモデルなんてやったことないけどさ、フウタに絵にしてもらえるの嬉しいよ。なんというか、生きてていいんだって思える」

「何言ってんだよ。急に」

「俺は夢なんてないし、今も昔もあやふやなままで生きてるから」


 ユーガは中身のないプラスチックのカップを凹ませては戻してを繰り返した。

 安っぽいプラスチックの音はどこか空虚に聞こえる。


「けど、フウタが作品にしてくれたら「大丈夫」って言ってもらえてるような、そんな気がする」


 だから綺麗に描ききってね、と。

  花が咲くような笑顔を見せるユーガは、いつか見たお袋が家でしか見せない顔にそっくりだった。

 作りものみたいに綺麗なのに、こういうときのユーガは俺の知る誰よりも人間らしい。


 休憩を終えてから改めてユーガを椅子に座らせる。

 そこから更に神経を研ぎ澄ませて絵に集中した。

  無心で描いていくとスーッと霧が晴れていき、静謐(せいひつ)な空間が頭のなかに満ちる感覚になる。


 なだらかな肩、うっすらと筋肉のある腕、シャープな身体のライン。

 まるでユーガをそのまま絵のなかにトレースするように丁寧に、そして丁重に。

 何ひとつ描き残しのないよう丹念(たんねん)に描いた。

 すべてが美しく崩れてしまいそうな肉体。

 ここにもう一度俺が虎を宿す。


 全ての線がキャンバスに収まりきるまで、手を動かしながら考えた。

 プール授業の見学中、刺青を彫ったあの日、母校の屋上で話した時間。

 思わず絵にしたくなるくらい凛とした美しい友人のことを想う。


「フウタ。もう遅いし、おなかすいた」

「……ほんとだな。今日はもう帰ろうか」


 言われて、ようやく空が暗くなっていることに気づく。

 ユーガの顔には疲労が(にじ)んでいた。

 アトリエを出た後、ユーガのリクエストに応えて、近所の肉屋でコロッケとトンカツを買ってうちへ帰った。


 その後も日にちを決め、少しでも多くの時間をとり、着実にユーガをキャンバスに収めていく。

 その工程は祈りにも似ていて、実際のところ「この壊れそうな友人がどうか幸福でいてくれるように」と願ってもいた。


 もしも絵が受賞したら、二人でどこか遠くの美しい場所に行く約束もした。

 「生きていて良かった」と思えるような景色を見に行こう、と我ながら小っ恥ずかしいセリフも吐いた。


 そうして、完成した。タイトルは『虎が雨』。

  出来上がったばかりの絵を見たユーガは、しあわせそのもののように笑ってくれた。


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