4 嵐の訪れ
体感時間で言うとものの数分で、午前と午後の座学が終わった。あっという間に放課後になり、直前で「用事で遅くなるから先に行ってくれ」なんて言い出した菱に若干の不満を抱えつつ、僕は実習室に向かった。
普段生徒がいる本館の隣、Vの字建築の左の棟の入り口に学生証を通す。この別館には職員室などがあるが、今は無視して二階へ上がった。二階右端に、件の後輩がいると聞かされていたからだ。昨日も通った白塗りの廊下を渡って、ついに目的の105実習室へたどり着いた。
しかし扉に手をかけてはみたが、返ってきたのはまるで岸壁のような手ごたえだった。実際にそうであればどれだけいいだろうと思った。わざわざ素手で完璧になにかする人間はいない。つまり、僕はこのままUターンして寮に帰ることが出来る。
――やりたくない。できれば今すぐ帰って目的のない暇つぶしを堪能したい。でも、今更現実逃避することもできなかった。ここですっぽかせば、後で先生からどんな罰を食らうか分かったものではないからだ。
「よしっ」
僕は思い切って、今日の今だけ妥協することにした。
今日だけ、これで最後だ。とりあえずさっさと終わらせて、きちんと本人に断ってからやめにしよう。そうすれば、明日からは僕の日常が帰ってくる。
海よりも深いため息をついてから、引き戸を開いた。
「失礼しまー・・す」
一応、きちんとそうかしこまる。だが、心の訴えのままに拒絶を表している自分の体の変化には気が付かなかった。
僕は背中を丸め、腰を深く折り、なぜか足音を立てないようにつま先歩きで入室していた。
そして、それがいけなかった。
閉め切られた窓際にぼうっと立っていた人物が、こちらへ振り返って僕を見た。腰まで伸びた艶のある黒髪が、窓から差し込む日差しで輝いている。これが普段であれば、赤面でもしていたのかもしれない。
しかし、僕が彼女の美貌に息を呑んでいる時間はなかった。彼女の強気そうな切れ長の瞳が明らかな不信を象っていく。その視線はまさに、「小声でブツブツ言いながら、漫画のコソドロのような姿勢で実習室に侵入してきた不審者」を見るそれであった。
「いやーーーー」
僕はすぐさま訂正しようとしたが、彼女の反応のほうが早かった。
「ふゅ、不審者ぁぁあああ!」
彼女は迫真の形相でそう叫びながら、すぐ近くにあるリクライニングチェアを片手で持ち上げて、僕に向かって投げたのだ。そう、お花とか団子ではない。リクライニングチェアである。その重厚で堅牢な脚立のほうから、僕の顔面めがけて飛び込んできた。
「うおっ!」
僕は咄嗟に膝を床について体を捩った。リクライニングチェアは僕の頭上を通り越して、実習室の引き戸を容赦なく破壊していった。
「それ以上近づいてみなさい!ただじゃ済まないわよ!」
「ちょ!落ち着こう!僕はっーーあぶねぇ!」
彼女は聞く耳の持たない様子だった。そして、まるでスナック菓子でも投げつけるように、リクライニングチェアを次々と放り投げ始める。
僕はたまらず実習室から出て、逃げるように職員室へ走った。
これまた偶然か必然かーー職員室に飛び込んで最初に目が合ったのは、担任の門前払先生だった。先生と一緒に実習室の前まで戻ってみれば、それはひどい光景が広がっていた。
外れた扉と割れたガラスの破片、いくつもの高価そうなリクライニングチェアが廊下に転がっている。当事者の僕でさえ、ここに台風でも来たのかと疑ってしまうほどだった。
「なにをやっているんだ・・・・」
僕は門前払先生が怒っているところは見たことがない。ただ、ここまで呆れ果てたところもみたことがなかった。
「すいません!本当にすいません!」
先生にひたすら平謝りを始めたのは、その惨状を招いた張本人だった。こうして見れば非常に理性的で、さっきの人と同一である自信を失くすほどだった。
切れ長の瞳に、すっと通った鼻筋と薄い唇。なぜかやや薄幸ぎみな印象を受けるが、かなりーーいや、滅多に見ないレベルの美人だった。より具体的に表すと、通り過ぎた十人のうち九人は振り返るレベルの美人である。たとえ僕が面食いでなかったとしても、彼女が頭を下げて、その重そうな黒髪が揺れる度に心がひどく傷んだだろう。
僕は先生を刺激しないように、そっと間に入った。
「先生、僕も悪いところがありましたし」
「当たり前だ。この件については君たち二人に責任を取ってもらう」
そう言いながらも、先生が厳しい目つきを向けたのは僕ではなかった。
「反省するように」
「はい・・すいません」
まあ、当然だろう。彼女はいっそう落ち込んだ様子を見せた。
先生は彼女のしょぼくれた様子を一瞥し、今度は僕の方に向き直った。
「環境に問題があるようなら隣を使え。どちらも空いている」
「分かりました」
どうやら後輩指導は続行らしい。僕は残念そうに頷いた。
それから、剛力な後輩と隣の実習室へ移動して、まずは挨拶から始めることにした。とはいえ、一体何から言えばいいのかーー気のいいセリフを探し、なんとか絞り出す。
「い、いやぁ、本日はお日柄もよく・・」
少し悩んで出て来た言葉がそれか。僕は自分自身に呆れた。
彼女からも「何言ってんだコイツ」といった視線を向けられた。頼むからその目はやめてくれ。
「お互い災難だったね。まあ、気にせずやっていこう」
次こそフランクに、かつ先輩らしさも忘れていない気の利いた一言だったと思う。だが、彼女は不満そうな口ぶりで、なにやらぼそりと呟いた。
「ん?なに?」
そう訊き返すと、彼女は僕をじろり睨みつけた。
「アンタのせいでしょ?」
――な、なるほど。
僕は本当に、心の底から「引き受けなければよかった」と後悔しながら、崩れかけの笑みのまま機材の説明を始めた。彼女はそのことにやや驚いたようだが、すぐにきつい表情に戻った。
きっと彼女の座右の銘は「長いものに巻かれろ。短いものを引きちぎってしまえ」とかだろう。僕から渋々と説明を受ける彼女の態度を見て、そんな人間なのだろうと感じた。
五分くらいで、僕は彼女に一通りの説明を終えた。「次は実際に」という話の流れになったのだが、あの初対面で随分嫌われたらしい。彼女が座った席は、僕の座った席からもっとも遠いところだった。
「じゃあ、まずリーナを起動して。それからリラックスね」
「・・はい」
しかし嫌ってはいても、この時間を放棄する気はないらしい。教えたことや言ったことは、素直にきいてくれている。糸織は制服の胸ポケットから、掌サイズより少し小さな携帯デバイスを取り出した。
一方、僕のリーナは糸織のものと比べて色が違うし、一回りくらい大きかった。胸ポケットにはギリギリ入らないくらいのそれを、手元を見せるようにして操作してみせる。常々「目立つし持ち運びにくい」と思っていたが、今回はその大きさが幸いした。少し距離があっても、糸織は僕が何をしているか分かるようだ。
糸織はすこしもたついたが、なんとか僕の操作をなぞることが出来た。
「こんな感じで起動したら、さっき言った帯域パスを入力する画面が出てくるから」
「分かってるわよ」
そうでしょうとも。
「それで、あとは自動。目を閉じてリラックスしてたら、いつの間にか訓練用の空間に潜航してるよ」
それっきり、僕は口を閉じて、椅子に身を預けた。「もしかしたら、さっきの恨みとかいって殴りかかってくるかもしれない」なんて考えないわけではなかったが、彼女の姿をそっと薄目で確認しようとした直前に、意識がどこかへ吸い込まれていった。
2020.09.08 改稿