10 蘇る記憶
――――世界がめまぐるしく変わっていく。新幹線の窓の外より速く、視界そのものの時間が限りなく加速していくようだった。そして、それがぴたりと止まった。
「おお・・」
それは第一高校入学式の日――随分と懐かしい記憶だった。僕はかまぼこ形の屋根を見上げて、感傷たっぷりのため息をついた。
そう、初めて京先輩に出会ったのがこの日だった。
「やあ、君だろ?神谷って」
いつの間にか周囲の風景は切り替わり、次に僕が立っていたのは学生寮の前だった。僕を呼び止めたのはーーやはり、見慣れた顔だった。ふわふわの茶髪が、春風で揺れる。人懐っこい笑顔に泣きそうになった。
僕はその人にすがりつきたかったが、体はぴくりとも言うことを聞かなかったし、唇はやるきなさげに動いた。ここでは外観だけではなく、当時の僕もまた忠実に再現されるらしい。
「はあ・・なんですか」
「私は京旧誉だ。この学校一の悪夢祓い見習いだよ」
京先輩はそう傲慢な自己紹介して、豊満な胸を張った。男子高校生にとっては目に毒なポーズに、僕は目を逸らした。
「君は入試成績一番だって聞いたよ。色々と優秀なんだってね」
先輩は教職以外知りえない情報を公の前で暴露し始めた。その『入試成績一番』という単語に周囲の新入生が一斉にこちらへ振り向くが、僕が先輩を制止したりたしなめたりすることはなかった。
なぜなら、その頃の僕は他人に興味がなかったからだ。せいぜい顔も見たことのない保護者と、中学から僕をかまい続けてくれた菱くらいまでが気にかける範囲だった。それ以外は符号か記号かーーあるいはそれ以下だったのかもしれない。そんなものの視線など、気にするはずもなかった。
「はぁ・・」
京先輩もまた、その興味のない人間の一人だ。だから僕はそうやって、気のない返事をするだけだった。
「・・・・」
すると京先輩はしかめっ面を浮かべたと思いきや、僕に向かって駆けだした。
「先輩に向かってぇ!」
「えっ!?」
先輩は僕の目の前で飛び上がり、僕の首に手を回しながら押し倒してきた。咄嗟に両手で後頭部を守ったが、背中を地面に打ちつけてしまう。
「先輩に向かってなんて口のききかただ!男の子なんだからしゃんとしなさい!」
そう僕を注意して、いじわるっ子みたいな笑顔を覗かせた。それを見た時、心臓のあたりを素手で掴まれたような衝撃が走った。
「あ・・・・はい」
素直に返事している自分に驚いて、僕は両手で口を塞いだ。それを見て、先輩は嬉しそうに笑っていた。
僕の人生ずっと、こうやって生きる屍に鞭打ってくれる人を待っていた気がした。先輩は、夢とか希望とか目標とかを自分で探すことのできない僕に、そういうものを突き付けてくれた人だった。恩人――そう、命の恩人だ。
これは僕が命を吹き込んでくれた恩人に、当たり前に憧れた瞬間だったと思う。
「先輩・・」
涙がこぼれそうになったその時、また世界が切り替わった。
次に蘇った記憶は京先輩に関するものではなかった。夕暮れの教室で、僕と菱が二人きりで向かい合っている。窓の外を見れば、年越し間もない新鮮な風景があった。僕はこれが一月十五日だと、既に京先輩が第一高校を去ってまもないことだと正確に思い出すことができた。
「・・」
やや曇ったガラスに反射した僕の顔は、誰がどう見てもひどいものだった。死人のように、青ざめ通り越し土気色である。
「俺がやる」
おもむろに、菱がそう宣言した。僕は窓の外から、菱の顔へと視線を戻した。この日はーーそうか。その話をしていた時だったか。
「菱・・」
「もう無理するな。お前には悪いが・・ずっとそう思ってた。まるで鬼に憑りつかれているようだったぞ」
菱はそんな冗談で済まないようなことを、冗談めかして口にした。
「少し休め。神谷」
やや強引に、菱は僕の手から一枚の紙を手に取った。菱はそれを軽く掲げて、僕に見せつけてくれる。そこには『生徒会会長 神谷鷹之仁』とプリントアウトされていた。
そして菱はその紙を真っ二つに引き裂いた。それを丸めて、教室隅のゴミ箱へ投げ捨てた。結局外れて床に転がったゴミを、菱はわざわざ拾いに行って今度こそゴミ箱に放り込んだ。
「菱・・・・」
「会長と呼べ。いやぁ、楽しみだな。これで俺が三百人の頂点か」
菱はこうして、僕の代わりに生徒会会長をすることになった。
生徒会は多忙だ。生半可な覚悟で出来るものではないし、そもそも「友人が弱っているので代わりにやります」が許されるものでもない。一体どうやって教師陣を説得したのかは分からないが、この翌週には菱が生徒会長の腕章をつけて活動していた。「代理の生徒会長って舐められたらいけないだろう」なんていって髪をオールバックに整えだしたのもこのあたりからだった。
菱は震える僕の肩に手をのせて、教室を去っていくーーーーと、そこで聞き覚えのある声が聞こえた。女性で、ごく最近の記憶にもある声だった。
多分、糸織のものだと直感した。
「まさか・・」
ついてきたのか?この悪夢に。
ありえない話ではなかった。承諾していないとはいえ、一応まだ後輩指導の期間ではある。なにかしらの事情で別棟へ戻ってきて、実習室で見かけた僕のリーナから帯域パスを盗み見ることだって可能だ。
僕はすぐに記憶の再現から抜け出すべく意識を集中させたが、浮上していく感覚があるところで途切れて、また世界が切り替わった。
声がいつの間にか止んでいて、随分つまらない風景に変わっていた。記憶自体があやふやなせいか、道路や通り過ぎていく車がもはや油絵のような形をしている。宙にはノイズが走っており、ほとんど色がなかった。
その中周囲を注意深く観察してみると、僕はどうやら高架橋のようなところに立っているらしい。
「あれ・・」
異変を悟ったのはすぐだった。視線がまるで小人のそれのように低かったのだ。僕は自分の手足を触ったりして、子供の小さくてかわいらしい体に戻っていることに気が付いた。そして、そんな小さな子供の体を包んでいるのは真っ黒な喪服だった。
「母さんの・・三回忌か?」
僕の母は、僕を生んですぐに亡くなったと聞かされている。四十九日や一回忌なら、僕はまだ別の保護者に抱かれているはずだ。一般に照らし合わせてみれば、三回忌以外には考えられない。
「鷹之仁君」
僕は名前を呼ばれて振り返った。と同時にびっくりして飛び上がりそうになった。幸いなことに、僕の幼い唇はぴったりと閉じられたままだった。
「行こうか。お母さんが待ってるよ」
僕へ手を差し出したのは、門前払先生だった。今よりずいぶん若いし、服装は軍服のようだが、見間違いなどするはずがなかった。先生が僕の小さな手を引いてどこかへ連れて行こうとしたところで、また海底から急浮上するような感覚に襲われた。今度こそ悪夢の世界に帰るのだと、僕は肩を落とした。




