9 再現の夢主
黄金色の襖を開くと、その先は霧で満たされていた。いつもの根拠のない自信や高揚感で余裕ぶることすらできない。心臓を爪の先で撫でられているような、叫び出したくなる嫌悪感に歯を食いしばった。
――――間違いない。この異色の悪夢相応の主がここにいる。僕はなけなしの勇気を捻りだして、終着点へ足を踏み入れた。
「お・・?」
ふと、つま先に生ぬるさを感じた。地面を見ると、踵くらいの深さまで得体のしれない液体で満たされていた。気味の悪いそれを足でかき分けながら進むと襖がひとりでに閉じられていく。
構わず、さらに二歩目。すると突然僕の正面の霧だけが晴れて、視界が通った。
――――いた。
霧の中を探す手間が省けた。すぐそこに悪夢の主――夢主がクラゲのように宙を漂っていた。
ソレは人でも動物でもなく、服飾の姿をしていた。赤や白や金といった華やかな生地が幾重にも被覆されて、それぞれの色を際立たせている。それを着たことはないしそもそも男子が着るものではないが、姿だけは写真で見たことがあった。平安後期に成立した五衣唐衣裳――所謂『十二単』と呼ばれるものである。
このような人の形を保っていない夢主は何度か見たことはあった。そしてそのどれもが深くまで進行した悪夢の主であり、一つとして甘い相手はいなかった。
僕は無言で刀を抜いた。その僅かな金音に、十二単が震えるのが分かった。きっとそれは恐怖からくる震えではなくて、今まさにソレが臨戦態勢に入ったことを証明するものだろう。
――合図はもちろんない。既に、僕がこの空間に足を踏み入れた時点で始まっている。僕も十二単も、そのことは承知済みだった。
緊迫した雰囲気の中、十二単の表の一枚が袖からほろほろと崩れていった。砂時計の時間が逆行するような幻想的な光景に見とれかけたが、ほぐれた糸が集合して針のような形を成した時に印象はがらりと変わった。
「ぅっ」
僕が刀で、触手のように伸ばした針を弾いた耳障りな音が、開戦の銅鑼となった。と同時に謎の霧がすべて晴れ、この空間の正体が露になる。
「線香かよ・・」
そう、霧ではなかった。それは周囲に数えきれないほど並ぶ仏壇に供えられていた線香の煙だったのだ。そう分かった途端、独特の香りが鼻へ飛び込んでくる。
一方、十二単は間髪入れず次々と自身を糸へ分解して、先が針のように尖った触手に変えていた。二本、三本ーーーー合計五本の触手を水面に叩きつけた。
その余波で起きた緩い波に足がもつれる。これでは体勢が崩れて、攻撃から逃れるどころか後ずさることすらままならない。僕はたまらず入り口の襖に手をかけるが、びくともしなかった。
「デスマッチってわけか・・」
退路すら完全に断たれていた。僕がそうこうしているうちに夢主はさらに六本目の触手を形成し、僕に向かって突き出した。それは他の五本と比べて太く、したがって威力も桁違いだった。咄嗟に刀で受け流そうとはしたが、片手一本では限界があった。
「っぐ」
左の脇腹を抉られながら、僕は右に転がって避ける。なんとか軽傷で済んだと安堵した直後、僕の脳裏にありえない情報が駆け巡った。
それは昨日食べたカツカレーのことだった。甘口ながらしっかりとしたスパイスの香りが鼻を抜けていき、カツのサクサク加減まで鮮明に感じた。まるで今食べているかのように、追体験や再現と呼ばれる正確さでどうでもいい記憶が蘇っていく。
「なんっーー」
それに困惑する最中にも、糸の触手が僕に迫っていた。また片手でさばこうとはするが、三本が限界だった。なにがなんだか分からないまま、見逃した一本目に足をすくわれて、二本目に地面へ叩きつけられた。肺の空気を強制的に吐かせられて、全身が硬直する。そして六本目の太い触手が僕の胸を地面に串刺しにした。
「ぁっ」
次に頭を駆け巡ったのは、僕の人生の中で最も濃密な瞬間だった。そこは僕が夢とか希望とか目標とかを失った絶望の淵。暗くて寂しくて、しかし敬愛する先輩の最後の姿がそこにあった。
たった一つの言葉が鼓膜の奥で無限のリフレインを始める。
「――――全部、お前のせいだろ」
いつの間にか、僕の唇もそう繰り返していた。頬を何かが伝っていく感触と、全身が緩む感覚に浸ってしまう。線香の煙が晴れたはずの視界は遠く、ぼやけていった。
僕はぼちゃりという水音に耳を傾けるだけで、目前まで迫る触手への抵抗をやめた。
また見たいと思ってしまった。
どうせ痛みなんて感じない。発症者も知ったことか。僕はただーーーー
「先輩」
僕は触手を受け入れるように、横たわったまま両手を大きく広げた。




