楽日
── 土曜日
(仕方、なかったんだ……こうしないと……)
俺は、机の上に突っ伏している妻を眺めながら、必死に自分にそう言い聞かせた。
「あれ~? ママねちゃったの?」
「……そうだね、ちょっと疲れてたんじゃないかな?」
不思議そうに首を傾げる娘に、俺は努めて笑顔を浮かべながらそう言った。
俺は……結局、あれを見る勇気が出なかった。
そして、娘にも見せる気になれなかった。
これが本当に娘のことを案じてのものなのかは、自分でもよく分からない。
もしかしたら、娘を自分の側に巻き込みたいという、ただのエゴなのかもしれない。
それでもいい。俺は、自分が変わるのも嫌だったし、娘にも変わって欲しくなかった。
だから、俺は朝食の席で妻に睡眠薬を盛った。
そうでもしなければ、日食の時間を穏便に回避出来るとは思えなかったからだ。
「むぅ……いっしょにかいきにっしょくをみようっていってたのに……」
「まあまあ、ママも家事で忙しくて疲れてるんだよ。だから、寝かせておいてあげよう?」
学校で配布されたらしい、安っぽい日食グラスを手に頬を膨らませる娘を宥めながら、チラリと時計を確認する。
時刻は8時45分。
日食の開始時間が、たしか9時前。皆既日食は10時過ぎに始まり、3分間ほど継続するという予報だった。
その間は、決して娘を外に出してはいけないし、外を見せてもいけない。
俺は玄関に向かうと、ドアの鍵を閉め、念のためチェーンも掛ける。
そして、家中の窓を閉めて鍵を掛け、カーテンを引いた。
「どうしたの? パパ」
娘が、怪訝そうな表情で俺を見上げる。
俺は一度大きく深呼吸をすると、膝を折り、娘と真っ直ぐに視線を合わせた。
「いいかい。これからお父さんが言うことを、よく聞きなさい」
そして、俺は時間をかけて娘にしっかりと言い聞かせた。
皆既日食を見てはいけないこと。また、見ていないことを誰にも言ってはいけないこと。もし見たかどうか聞かれた時は、見たフリをすること。
最初は疑問と不満でいっぱいなようだった娘も、俺の真剣という以上に切羽詰まった様子に何かを感じたのか、やがて「わかった」と頷いてくれた。
そうして、少しほっとしたその瞬間。
あれが始まった。
迂闊だった。日食を見ないことに気を取られるあまり、このことを失念していたなんて。
『アハハハッ、ハハハハハハハ』
『フフフ、フハハハハハハハハ』
『ワハハハハハハハハハハハハ』
『ヒャーッハッハッハハハハハ』
『キャハハハハハハハハハハハ』
全方位から聞こえる、笑い声。
前回は一戸建てに住んでいたからそこまで気にならなかった。
だが、今住んでいるこの部屋は7階建てマンションの5階。しかも角部屋ではなく真ん中の部屋だ。
自然、上下左右全方位から笑い声を浴びせられることになる。
「ひっ、な、なに!?」
突然起きた明らかな異常事態に、娘がビクンッと体を跳ねさせる。
俺は笑い声への対策を忘れていたことに歯噛みしながら、娘をぎゅっと抱き寄せた。
「パパ、パパぁ……こわいよぉ……」
「大丈夫、耳を塞ぐんだ。大丈夫だから!」
娘の手を取って両耳を塞がせると、その上から更に自分の手を被せながらしっかりと抱き締める。
腕の中に娘の体温を感じながら、俺はじっと笑い声が収まるのを待ち続けた。
アハハハハ────
ハハハハハ────
キャハハハ────
笑い声が、続いている。
一体、何がそんなにおかしいのだろうか?
皆既日食とはいえ、所詮太陽が見えなくなっているだけだろう?
何をそんなに、笑うことが…………
ワハハハハ────
イーヒヒヒ────
アッハハハ────
まだ、笑っている。
そんなに楽しいのだろうか?
そんな、笑いが止まらないくらい楽しい気分になるのだろうか?
……なんだか、こうやって怯えている自分の方がおかしい気がしてきた。
そうだ。なんで俺は……何に怯えているんだ?
何を怖がって……なんで見ちゃいけないんだ? 思い出せない……
ああ、でももう……いいか。
だって、あんなに楽しそうなんだから。
楽しいことを我慢するなんて、馬鹿げてるじゃないか。
娘を抱いていた腕を解くと、すっと立ち上がる。
「パパぁ……?」
両耳を塞いだままの娘が不安そうに見上げてくるが、特に気にもならない。
今は、今はそんなことより…………
俺はふらふらと吸い寄せられるようにベランダに向かうと、カーテンを撥ね除け、窓を開けた。
そして、ベランダに出て空を見上げ────
「アハハハハハハハハハ!!」
笑い声が、口を衝いて飛び出した。
すごい! なんて素敵で……最高に愉快なんだ!!
あぁ、俺はなんでこんな素敵なものに怯えていたんだろう。
こんなに素晴らしいものを見逃し、あまつさえ13年間も無意味に怖がり続けていたなんて……あまりにも滑稽だ。
あぁ、でも、もうどうでもいい。今こうして見ることが出来たのだから。
もう、他のことはどうでも…………
それからも、笑って、笑って、笑い続けた。
笑い続け、存分に堪能した。
そうして堪能し終わった頃、背後から小さな声が聞こえた。
「パパ……?」
娘が、窓を少し開けてこちらに顔を覗かせていた。
その不安そうな姿を見て、俺は自分の顔から表情が抜け落ちていくのが分かった。
胸の中にあるのは、楽しい気分に水を差された不快感と、この素敵な体験を共有出来なかった娘に対する憐れみ。
それらの感情がないまぜになって、俺の顔から表情を奪った。
「ぱ、パパ……?」
俺の顔を見て、怯えたように体を引く娘に無言で近付くと、俺はその小さな体を抱き上げた。
そのまま腕を伸ばして高く持ち上げると、ベランダの柵の外へと体を乗り出させる。
「パパ? やだ、こわい、こわいよぉ……」
そう言って震える娘は、一瞬下を見てから慌てて目を逸らし、空を見上げた。
そして────
「ん……っ! まぶしい……」
そう言って、すぐに顔を背けてしまう。
それはそうだろう。
もう、あれは終わってしまい、今は太陽が月の陰から顔を出しているのだから。
そう、娘は見逃してしまったのだ。
あんなに素晴らしいものを。
あぁ……もう、本当に…………
「かわいそうに……」
そう呟いて、俺は────手を離した。