血別
── 1週間後
「それじゃあ、行ってくるからねぇ」
「いってらっしゃい」
「雨が降ってきたら、洗濯物はしまっておいてくれよ?」
「分かってるって、じいちゃん」
村の集会所に向かう祖父母を見送ると、俺は畳の上に寝転がった。
すると、寝不足のせいかすぐに瞼が重くなる。
俺は今、田舎に住む母方の祖父母の家に滞在していた。
家族の元から逃げ出した後、真っ先に思い付いたのがこの家だったのだ。
学外の友人の家に転がり込むことも考えたが、その時は出来るだけ家族から離れた遠いところに行きたかった。
結局、俺は自分の直感を信じて電車に飛び乗ると、午後9時過ぎにこの家に辿り着いたのだ。
「家族から何か連絡が行っているかも」という俺の心配を余所に、祖父母は突然訪ねてきた俺に驚きながらも、温かく歓迎してくれた。
祖父母には「親と喧嘩して家出した。落ち着いたら自分から家に帰るから、しばらく泊めて欲しい」と伝え、くれぐれも親に連絡はしないようお願いした。
そんな俺の突然の申し出にも、祖父母は「あまり心配を掛けない内に連絡だけでも取りなさい」と言うと、それ以上は何も言わずに家に置いてくれた。
それ以来、俺はこの家で家事手伝いをしながら、居候生活を続けている。
でも、この生活がいつまでも続かないことは分かっている。
あまりにも長く滞在していれば、流石に祖父母も心配して、俺の家族に連絡を取ろうとするだろう。
そうしたらどうなるかは、嫌でも想像がつく。
(どうにか……しないとな……)
…………………………
…………………………
…………………………
皆が、笑っている。
家族が、友人達が、その他にもたくさんの人達が、俺の周りで笑っている。息継ぎすらせず、まるで壊れた機械のように。
胸の奥から突き上げるような危機感に煽られ、俺も笑う。
仲間外れだと思われないように、一緒になって笑う。
笑って、笑って、笑って。
だんだん息が苦しくなり、喉が痛くなってくる。
それでも、周りの人達はどんどん声のボリュームを上げる。
俺も、それに合わせて喉も裂けよとばかりに声を張り上げる。
笑う。苦しい。笑う。痛い。笑う。もう、笑う。もう、ダメだ……
遂に限界に達し、俺は体をくの字に折って激しく咳き込んだ。
それと同時に、周囲の笑い声がピタリと収まる。
いやだ、おねがいだ。やめてくれ。やだやだやだやだ…………
どれだけ頭の中で祈っても、勝手に頭は持ち上がる。
本当は見たくない。目を閉じたいのに、それすらも叶わない。
やがて、視界に周囲の人間の顔が映って…………
う、あ…………
「あああああぁぁぁぁぁーーー!!!」
気付くと、そこは祖父母の家の和室だった。
目の前には縁側と、その向こうに大きな庭が広がっている。
「はあ、はあ……」
畳の上で半身を起こしながら、荒い息を整える。
「大丈夫……大丈夫だ……」
そう自分に言い聞かせ、先程見た悪夢を振り払おうとする。
あの日からずっとこうだ。
寝る度に家族や友人達の真顔を夢に見てしてしまい、まともに眠れない。
睡眠不足にストレスが重なって、このままでは本格的にどうにかなってしまいそうだ。
その時、庭の方からパタパタと駆けてくる音が聞こえた。
「ちょっと、大丈夫かい? こうちゃん。何かすごい声を上げていたけれど」
「ばあちゃん……」
庭から縁側に上がって来たのは、庭仕事中と思われる祖母だった。
帽子を脱ぎ、肩に掛けていた手拭いを外しながら部屋に入って来る。
その祖母の心配そうな顔を見た途端、わずかに緊張感が緩んだ。
そして気付くと、深く考えることもないまま、どこか縋るように尋ねてしまっていた。
「ばあちゃんは……日食を……」
そこまで言ったところで、俺は自分の迂闊さに気付き、咄嗟に口を噤んだ。
「え? 日食?」
しかし、どうやら遅かったらしい。
祖母の言葉に、全身が硬直する。
背筋にはじっとりと汗が浮かび、口の中は緊張でカラカラになる。
(やばいやばいやばい! よりにもよって自分から話題に出すなんて! ど、どうする? やっぱり逃げた方が……)
しかし、俺が次の行動に移る前に、祖母の口が開かれ────
「ああ、そう言えば2週間くらい前にあったらしいわねぇ。それがどうしたの?」
…………え?
慌てて顔を上げると、そこには少し不思議そうな表情を浮かべた祖母がいた。
不思議そうな表情……真顔では、ない。
「ばあちゃん……っ!? まさか、見てないの!?」
「え、えぇ、そうねぇ……その日は山奥に山菜取りに行ってたからねぇ……」
俺の勢いに少し戸惑いながらそう言う祖母に、遂に俺の中の何かが決壊した。
「……ばあちゃんっ!!」
思わずその小さな体に飛び付くと、がっしりと抱き締めてわんわんと泣き始めてしまったのだ。
「あらあら、どうしたの? 怖い夢でも見たの?」
そう言いながら頭を撫でてくれる祖母の肩に顎を乗せながら、俺はここ数年でも記憶にないほど思いっ切り泣いた。
泣いて。
泣いて。
泣いて。
泣き疲れた頃、俺は今更になって恥ずかしさを覚えた。
ばあちゃんを離すと、シャツの袖口で涙を拭う。
涙を拭って────気付いた。
縁側に立つ、真顔の祖父に。
真顔。
真顔だ。
その手には、草刈り用の鎌が……持ち上げられ、え…………?
ドサッ
祖母が、横倒しに倒れた。
その顔は、何が起こったのか分からないようでキョトンとしている。
ただ……ただ、その首筋からすごい勢いで噴き出した血が、畳を真っ赤に染め上げて────
俺は、その光景を呆然と眺めていた。
「かわいそうに……」
不意に聞こえたその声に、ようやく俺の頭はゆっくりと動き始めた。
その声を発したのは、今まさに鎌で祖母の首を斬り付けた祖父だった。
表情は真顔のまま、しかしその言葉には本当の憐みが込められているように聞こえた。
そのことを認識した途端、頭の中がカッと熱くなった。
(かわいそう? 自分で殺しておいて何を言ってるんだ? ばあちゃんは……ばあちゃんは、やっと見付けた俺の……俺の…………っ!!)
「うあああぁぁぁーーー!!!」
再び、今度は俺に向かって鎌を振り上げた祖父に、全力で跳び掛かる。
体格差を活かして力任せに押し倒し、鎌を持った手を左手で押さえると、その顔面に向かって全力で拳を振り下ろした。
ゴグッ!
鈍い音が響くと同時に、拳に何とも言えない不快な感触と鋭い痛みが走った。
しかし、俺は気にすることなく右手を振りかぶると、再び祖父の顔面に振り下ろした。
その不気味な真顔を、文字通り叩き潰すように。
何度も何度も。
祖父の顔が、原形を留めなくなるまで殴り続けた。
気付くと、祖父はもうピクリとも動かなくなっていた。
事ここに至って、今更ながら自分がやったことに恐怖が湧き上がって来る。
しかし、ダメだ。
ここで一度へたり込んだら、もう動けなくなる。
今は恐怖も罪悪感も押さえ込んで、とにかく動け!!
そう自分を叱咤し、よろよろと立ち上がる。
それから、俺は右手に最低限の治療をし、荷物を手早くまとめると、後ろを振り返ることもなく祖父母の家を飛び出した。
そしてバスや電車を乗り継いで、特に目的地も決めず、行ける限り遠くまで逃げた。
やがて終電で電車がなくなったので、とりあえず駅近くのネットカフェに入って夜を明かすことにした。
それからしばらく、俺は手持ちの金が尽きるまで、ネットを使って祖父母のことを調べ、そして俺と同じ見ていない仲間を探すことにした。
しかし、1カ月近く掛けたその作業の結果分かったのは、あまりにも残酷な現実だった。
祖父母のことは、調べても調べても一切情報が出て来なかった。
祖母は、あの傷では間違いなく助からないだろう。長閑な田舎で起きた老夫婦の殺人事件など、ニュースにならない方が不自然だ。
祖父が死んだかどうかは確認していないが、仮に死んでいたとしたら警察で、生きていたとしたら病院で、こちらも事件になるのは間違いないはずなのに、である。
同じように、交差点でサラリーマンが轢き逃げされた事件に関しても、一切情報が見付からなかった。
その後にやった仲間探しだが、探し始めてすぐに、いくつかの掲示板やSNSで仲間を見付けることは出来た。
だが、それらは数日中、早ければ数時間で削除されたり、書き込みがぱったりと途絶えたりした。
中には、誰かに助けを求めるような書き込みを最後に、書き込みが途絶えたものもあった。
そして、1カ月が経つ頃にはそういった書き込み自体がネット上から完全に消え去った。
「なんだよこれ……なんなんだよこれ……」
ネットカフェの個室で、「助けてくれ」という一言を最後に書き込みが途絶えた掲示板を前に、俺は弱々しい呻き声を上げた。
「誰か……誰か俺を助けてくれ……」
万が一周りに聞こえないように、口元を毛布に押し付けたまま。
俺は、絞り出すように呟いた。