異変
……気付くと、もう夜になっていた。
時刻は午後6時40分。どうやらいつのまにか寝てしまっていたらしい。
流石にもうドアを叩く音も変な笑い声も聞こえなかったし、ドアの向こうに人の気配もなかった。
それでも恐る恐るドアを開き、廊下に人がいないことを確認してから、ようやく俺は緊張を解いた。
安堵の息を吐きつつ部屋に戻ると、ふとした疑問が浮かんだ。
そもそも、あれは現実だったのだろうか、と。
(夢……だったのか? それにしてはリアルな夢だったが……)
首を捻っていると、階下から母の声が聞こえて来てビクッとする。
しかし、その内容は単純に夕食が出来たことを知らせるものだった。
続いて隣室の妹が「は~い」と返事をしながらパタパタと廊下を駆け、階下に降りて行く音が聞こえる。
何気ない、いつもの日常の音だった。
そして、実際にリビングに行くと、そこにはやはりいつも通りの光景が広がっていた。
机で夕刊を広げる父と、料理を運ぶ母、それを手伝う妹。
「そんなところで何してんのよ孝一。早く入りなさいよ」
「あ、うん」
リビングの入り口で立ち尽くす俺を見て、母が怪訝そうにそう言う。
そのことに軽く羞恥心を感じながら、俺はそそくさと食器を運ぶのを手伝いに向かった。
それからも特に何事もなく、家族も夕方のような異様な素振りをすることは一切なかった。
そして、夕食を終える頃には、俺は夕方のあれは夢だったのだと結論付けた。
しかし……どうにも、そのことを家族に確認する気にはなれなかった。
* * * * * * *
── 翌日
週明けの大学は、前日の休みを引きずっているのか、どこか気怠そうな雰囲気が漂っていた。
俺自身も、寝過ぎで若干だるい体で教室に入ると、友人数名が固まって座っているのを発見し、その近くの席に荷物を下ろした。
「おはよ~っす」
「おっす」
「おはよ~」
「うぃ~っす」
友人達と挨拶を交わし、先生が来るまで雑談に興じる。
「なんだよ。せっかくの休日なのに、ま~たずっと寝てたのか?」
「夜勤明けだったんだから仕方ないだろ」
「お前最近ずっとバイト漬けだよな」
「まぁな、早くバイク欲しいし」
そんな会話をしながら、俺はふと、昨日のことを話そうと思った。
この友人達に話して、今なお胸の奥で気持ち悪いしこりとなっているあの奇妙な体験を、思いっ切り笑い飛ばしてもらおうと思ったのだ。
「そういやぁ、昨日寝てる間に変な夢見てさぁ」
「夢?」
「いや、正確には夢かどうか俺にもよく分からん」
「なんだそれ?」
「おう、俺が寝てたらさぁ、妹がドアをノックする訳よ。『お兄ちゃん、太陽がすごいよ』って。たぶん皆既日食のことだと思うんだけどさ。でも眠かったんで無視してたら、そこに母親が加わってさ。すげぇドアをノックすんの。その内父親まで一緒になってさ。めっちゃ『日食を見ろ』って言うんだよ。しかもどんどんノックが激しくなるし、声もデカくなるしでさ。おまけに、変な笑い声まで聞こえてきてさぁ……なんか怖くなって布団かぶってたら、気付いたら夜だった」
一息にそこまで話して、俺は友人達の反応を窺った。
そして……ぞっとした。
目の前に座る3人の友人、その全員が……不自然なまでの真顔で、ジッと俺を見ていたのだ。
その表情には、およそ感情というものは一切見受けられず、ただそのはっきりと見開かれた眼球が、瞬きもせずに俺を見詰めていた。
「ひっ……」
その異様な表情に、俺は思わず喉の奥から引き攣った音を漏らしながら立ち上がった。
一拍置いて、俺はみっともない反応をしてしまったことへの羞恥心から、半ば反射的に友人達を睨みつけた。
「な、なんだよお前ら! なんでそんな──」
そこまで言い掛けて、気付いた。
教室内が、奇妙に静まり返っていることに。
突然の静寂に、俺は咄嗟に周囲を見渡して──ぞわっと全身が粟立った。
友人達だけではない。
同じ教室にいる学生。その全員が、同じように真顔で俺を見詰めている。
ほんの数秒前まで、たしかに姦しく騒いでいたギャルグループ。人目も気にせずいちゃついていたカップル。スマホゲームに熱中していた学生。必死に課題を写していた学生。
その全員が顔を上げ、能面のような真顔で、俺をただジッと見ている。
見渡す限り、真顔、真顔、真顔、真顔、真顔、真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔…………………………
「う、うわああぁぁぁぁーーーー!!!」
昨日のドア越しの家族など霞むような異様。
まるで、自分だけが突然異世界に迷い込んでしまったかのような壮絶な違和感と圧倒的な恐怖に、俺はたまらずに教室から逃げ出した。
大学構内を、正門を目指してただひたすらに走る。
あの教室にいた学生達が追い掛けて来るのではないかと思うと、一度たりとて足を止めることも振り返ることも出来なかった。
そのまま駅まで走り続け、ちょうどホームに入って来た電車に飛び乗り、俺はようやく足を止めた。
息が苦しい。心臓が張り裂けそうだ。
しかし、それ以上に全身の鳥肌が治まらない。
「はああぁぁぁーーー……」
溜息を吐きつつ、電車のドアに背を預け、ずるずるとへたり込む。
周囲の乗客に変な人を見る目で見られるのが分かったが、そちらを気にする余裕はなかった。
思い出すのは、先程の異様な光景。
頭の中に、俺を見詰める友人達の真顔がはっきりと焼き付いていて、いつまで経っても離れてくれなかった。