第44話『皇王の憂い』
レベナはソファに寝るルーを心配そうに見ていた。
ルーは、先ほどまで息を荒くしており、額には汗が滲み出ている。
病気ではなさそうだが、とても苦しそうに見える。
何か大きな体力を失うような行為を信念迷路の世界で行ったようだ。
ホンによると、迷路内での精神作用や体力消費は現実世界にも反映されるという。
だが、ここ数分は穏やかになっている。
それどころか、顔つきはキリッと定まりつつあるようにも見える。
迷路内での事態はおそらく収まりつつあるのだ。
対して、対面のソファに座って目を閉じているホンは先ほどからずっとガタガタと震えている。
よほど、恐ろしいことを体験しているに違いない。
状況から判断して、ルーとホンが同じ体験を共有している可能性が高いようだ。
2人共、同じタイミングで緊張度を増してきているからだ。
しばらく見ていると、ホンの息づかいも穏やかになってきた。
替わりに、精神的苦痛に苛まれているような表情をしているが、危機的状況は脱しつつあるようだ。
「がんばって…。」
レべナは、ルーの額の汗を布で拭ってあげた。
何が起きているかわからないが、ホンが救援に向かっているのだ。
2人共全力を尽くしているに違いない。
すると、突然、ルーが笑顔を作ったかと思うと、ハッと目を開けた。
「ルー!」
まだ少し朦朧としているルーだったが、レベナは思わずルーの手を握った。
ルーの手は冷たく、緊張や体力消費の痕跡が感じられる。
「ああ、レベナ…。
私、戻れたみたいね。」
ルーがややぼんやりしながらも、レベナと目を合わせ微笑む。
「良かった!」と、レベナはルーの両手を握る。
「うーん…。
ああ、こ、恐かったあああー。」
ルーが意識を取り戻したことにより、ホンも連鎖的に戻ってきた。
「あはは。
ホント、とっても恐かったね!」
ルーがすっかり大人の姿でソファを2人分占拠しているホンに首を伸ばす。
それから、ルー、レベナ、ホンの3人はここまでの顛末を話し合った。
スカーラはレベナの魔術で眠らされており、その処分についてもホンと話し合った。
ホンは、魔法局の若き技術者で、200名程いる魔法局の中では両手の指に収まる程の実力者のようだ。
特に、魔術基礎論や時空論に長けており、知識量ではナンバーワンとも言われているらしい。
それ故に、若いながらも政治的力もそれなりに持っており、カノン皇王とも直接的に話すことのできる数少ない人物の一人だ。
スカーラの処分についてはホンがカノン皇王と直接相談することになり、仮処分として、スカーラは地下の牢屋に入れられることになった。
そして、ホンの尽力により、早くも3日後にはカノン皇王とルー達との謁見が決まった。
通常は1週間、長いと1カ月以上待たされることが多いらしい。
それまで、信者達の熱心な“仲間作り”がなされるとのことなので、ひょっとしたら会えないケースもあるのではないかとルーは思った。
◇ ◇ ◇
謁見当日。
ルーとレベナは城内の宿泊施設で身支度をしていた。
この3日間は、良心的にも宿泊費や食費は一切要求されなかった。
友好国の使者として来ているのであるから、国賓として扱われるのは当然といえば当然なのだが、今までそのように扱われるばかりか、捕らえられたり幽閉されたりとさんざんな扱いだったために、ルーもレベナも恐縮してしまった。
と同時に、国の代表としての重さを感じざるをえなかった。
そのため、ルーもレベナも国王と会うための支度が念入りになる。
「城下町で買ってきてもらったこの口紅、濃すぎない?」
「この借りた服、派手過ぎない?」
2人の会話はさながら男女の出会いのあるパーティ前のそれだ。
だが、これから会うのは女性の王である。
ひとしきり騒いだ後は、逆に可能な限り地味な格好にしようとなり、結局は旅の服に最低限の化粧のみをしたところで落ち着いた。
「私達って貧乏性ね。」
「こういう場で、胸や背中が開いた服を着られないんだから、絵としては弱いわね…。
ま、旅の安全を考えれば当然なんだけどね。」
「女性は普通、そういうものじゃない?」
後日の話だが、ルーは後にフォルドのアザネスと会い、それらの概念が覆ることになる。
なお、この3日間は、安全面の理由で城からは出してもらえなかった。
2人が執拗には要求しなかったこともあるが、やはり、ムクファ全体としてはカノン皇王への安全性は最優先事項であるようだ。
そのため、レベナはカノン皇王に会うためにナイフ等の武器は城の者に預けた。
ルーとレベナは、支度を済ませて1時間前には待合室で待機した。
そして、2名の魔術士とホンに同伴されながら、皇王謁見の時間を迎えた。
謁見の間は、城の最上階にあった。
その階にはその広間だけがあり、長い階段を上がると大きな白い扉があった。
時刻は昼を過ぎている。
石でできていると思われる重い扉は、ルーとレベナが行ったときには開け放たれており、2人がこの日この時間帯の初めての来客ではないことを物語っている。
扉を過ぎると、そこは大きな白い空間だった。
鐘形状の空間だが、ところどころに採光窓があり、一見、無作為に見える採光窓からの光が複雑に絡み合い、幻想的な光の立体模様を作り出している。
また、壁には植物をモチーフにした白い石の装飾が施され、ゆらゆらとした光と折り合わさって水の中にいるかのような錯覚を見る者に与える。
ルーは驚きを隠せなかったが、ホンの信念迷路の一件以来、あまり感情を昂らせないようこらえた。
こんな美しい場所から、闇の魔術が生まれたことは未だに信じられなかったが、実際ルーはその技術の被害者でもある。
ルーは、意識的に一歩引いてムクファを見る癖がついていた。
広い空間を歩き進めると、複雑に絡み合っている光は徐々にシンプルに折り重なるようになり、仕舞いにはひとつの柔らかい光にまとまる。
そして、そのぼんやりした光の中心に、カノン皇王が白い玉座に座っていた。
皇王は、薄いエメラルド色のドレスのようなローブをまとい、右手には先が床についた光沢のある木の杖が握られている。
ウェーブのかかった淡い金色の髪が胸までかかり、その中に、ややほっそりとした整った顔が微笑んでいる。
目は濃いエメラルド色をしており、柔らかいながらも鋭さを持っている。
レベナは、この一見華奢に見える女王が、政治面で偉業の多い人物であることを思い出し、その目の鋭さに納得をした。
従者に定位置まで導かれ、そこで立ち止って深々と礼をするルーとレベナ。
「ごきげん麗しゅう、美しいシュニの使者のおふたり。
どうぞ、面をお上げください。」
レベナが挨拶する前に、カノンはそう声をかけた。
「シュニの第一国軍ファラミス様の命で参りました。
私は、マレイのレベナ・ノコーラです。」
「シュニのヒガ村より来ました、ルー・ヤチネです。」
「我はカノンヌ・メルキノル。
この地と大陽の宝玉を守る者です。
シュニもマレイも美しいところですね。」
カノンが再び優しい目で微笑む。
「ありがとうございます。
早速ですが、こちらがファラミス様より預かった書簡です。」
レベナは、書簡にかけられた封を解き、カノンにそれを渡す。
カノンが、書簡を開き、中から小さな棒状の物が入った小袋を取り出す。
それを片手で保持しながら本文を読む。
長い文章なのか、よほど注意深く読んでいるのか、ルーにはそれが長い時間に感じられた。
そして更にカノンは目を閉じて長考に入る。
しばらくして、カノンは目を開け、書簡を再び包むと顔を上げて2人を見た。
「内容は心得ました。
ケイバル殿のご提案の通りに致しましょう。」
カノンがそっと微笑む。
「承知致しました。
そのようにファラミス様にお伝え致します。」
「ファラミス殿へは別途、私から返答となる書簡を出します。
届けてくださいますね?」
「もちろんです。」
カノンの顔つきが変わり、心なしか場の雰囲気が変化する。
「事は重大です。
お2人とその仲間には、更なる負荷がかかるでしょう。」
カノンの言葉に、ルーにもレベナにも小さな緊張が走る。
カノンの穏やかな言葉に落ち着いた表情、それに馴染みよく整えられた周囲の物、人、空気。
だが、それらにはある一欠片の厳しさが感じられる。
「そこで、今までの事、これからの事、いくつか伝えておきたく思います。
よろしいですね?」
レベナは身を改めて正す。
「はい。
お願いします。」
「まず先に、スカーラとホンの件は改めて我からも謝罪いたします。
話の順番が前後してしまった件も申し訳なく思います。」
カノンが左手を軽く前に出して手のひらを上に広げた。
どうやらこれは、ムレン流の謝罪の姿勢のようだ。
ホンの信念迷路の件の後、何人かに頭を下げられると共にこの動作を見た。
「いえ。
謝罪だなんてとんでもございません。」
レベナはカノンが王であり、下の者に対してどうあるべきかを理解している。
おそらく、この場がプライベートであれば、カノンは頭をも下げたであろう。
だが、王の立場である以上、それはできないのだ。
それでも、隣でホンがだらだらと汗をかいていることにより、その言葉の重さを垣間見ることができる。
周囲の雰囲気からも、この件がいかにこの国に影を落としているかは察することができる。
カノンが続ける。
「闇の魔術については、我の監督不足です。
一度こうなってしまっては、なかったことにはもうできないでしょう。
それぞれ然るべき対処をしなくてはなりません。」
カノンが立ち上がる。
「ムクファで開発された、闇の魔術は3つ。
次元の間へと強制転送する“黒穴”、“信念迷路”、そして…。」
カノンが杖を上げて何か不思議な幾何学模様を宙に描く。
「カ、カノン、様!」
ホンが小さく呟く。
「ヴァ・ラルクサ・ス・ネワ・ルクスペルス!
ヴァル・タルガ・サ・ルクス・ン・ラダハ・ナ・“ホン”オ!」
カノンが、ホンの名前の箇所を強調した呪文めいたものを発する。
「ぅが!」
その直後、ホンが硬直し呻いた。
「カノン様!
この場でそれを使うのは!」
脇に控えていた、魔術師と思われる老人が叫ぶ。
だが、カノンはそれを左手で制す。
カノンからは黒いオーラのようなものが出ている。
おそらくこれは闇の魔術の一種なのだ。
カノンが右手に持った杖を少し動かす。
すると、それにつられるようにホンは崩れるようにその場に倒れた。
「ホン!」
ルーは思わず声を上げてしまったが、ルー自身もカノンののしかかるような圧に動けずにいた。
カノンがさらに杖を動かす。
すると、ホンは倒れたまま床でずりずりと這うような動作をする。
ルーは見ていられず、とにかくこの恐ろしい術が早く終わってくれることを願った。
それを知ってか知らずか、カノンは杖を下ろして再び玉座に座る。
そして、スッとカノンから黒いオーラが消えた。
そして、カノンはガタガタと震えだす。
周囲が心配して駆け寄ろうとするのをカノンは再び左手で制した。
「大丈夫です。
ミユコ、ぶどう酒を。」
ミユコと呼ばれた女性の魔術士は、こうなることを知っていたのか、さっとぶどう酒を取り出してカノンに渡す。
カノンはそれをひと口だけ飲んだ。
「失礼しました。
これが、第3の闇魔術、“強奪支配”です。」
ぶどう酒を飲んだカノンは、少しだけ血色が良くなっていた。
この様子から、この魔術が術者に大きな負荷がかかるものであることがわかる。
「この魔術が効果を発揮するには、3つの条件があります。
ひとつ目は、強大なエネルギーが使えること。
ふたつ目は、先ほど描いて見せた図形を対象者が見ること。
みっつ目は、対象者の真名を知り、潜在意識に呪文と共に命令を下すこと。」
「まな…?」
ルーが首を傾げる。
「真名とは、様々な定義がありますが、ここではこの世に生まれ出でて最初につけられた名前のことです。
それを先ほど述べた呪文に含め、相手の耳に入れます。
やっかいなのは、ハッキリ聞こえなくてもかまわないところです。
ボソボソと、幽かに聞かせるだけでかまわないのです。」
「つまるところ、私達ができるのは、あの図形を見ないこと、ということですね。」
「そうです。
まずは、強い魔力になりうるエネルギーに注意することです。
ここのような強大なエネルギー場や、法具のあるところ、闇の技術で開発された生き物の近くは、大きな魔力を生み出すことができます。」
「闇の技術の生き物とは、あの、フォルドが開発したと言われている、翼竜や岩竜のことですね。」
「そうです。
あと、地面下を移動するという地竜もいると聞き及んでいます。」
カノンが目線を下に落とす。
場の雰囲気が曇る。
この謁見の間はカノンの感情がダイレクトに反映されるようにルーには感じられた。
不思議だが、上から差し込まれる光までもが暗さを持ったように見える。
「ムレンの闇の魔術とフォルドの闇の生物。
これらが合わさって、闇の魔術の外での行使が可能になってしまいました。」
カノンがルーを見る。
「あなたの村での出来事は、その負の融合によって現実となってしまいました。
これは、この大陸、この世界にとって、憂いるべき出来事です。
その事態を引き起こしてしまったことに、重大な責任を我は感じています。
これらの問題に対処する最善の協力をすることをお約束しましょう。
ですが、我の役割はこの地と宝玉を守ること。
従って、この地にとどまらなくてはならないのです。」
「それでも助かります。
ご協力感謝致します。」
レベナは頭を下げた。
ルーは、カノンの言葉に何の感情も湧かなかった。
事のからくりがわかっただけで、問題が波及した先に何が起こるのかの想像が追い付いていないように思えた。
ただ、その流れの渦中にあることだけが実感できるのみであった。
被害者であってはいけない…。
口から小さく呟き出た言葉にルー自身がハッとした。
強奪支配が解除されたホンがようやく立ち上がる。
それまでホンは、見たことがない表情のカノンを、床に手をついたまま呆然と眺めていたのだ。
カノンが立ち上がる。
「さて、お2人にお見せしたいものがあります。
ついてきてください。
ホンも来るのですよ。」
「は、はい。」
カノンの言葉にホンが慌てる。
「神官長、この広間に禊を。
闇の魔術を使ってしまいました。
闇が祓えるまで、この広間は使用禁止とします。」
「ハッ!」
神官長と思われる初老の魔術師が答える。
カノンはスッと歩きだし、ルーとレベナについてくるよう促した。
それに従う2人。
3人の後ろをホンがテコテコと追った。