一の巻 姫の旅立ち⑧
カステラおばさんはとても早起きです。
お日様が丘の上から顔を出すずっと前に起き上がり、料理を作り始めます。
この美味しい匂いがスポンジ姫の鼻に、届かないはずがありません。
お腹を二度ほど鳴らし、薄目を開け様子を伺います。
窓から、日差しがたっぷりと入り込んで、辺りを明るくしています。そっと起き上がったスポンジ姫は、ダイニングの中を覗きます。
小さな丸いテーブルにはフルーツが乗せられ、その脇には暖炉があり、そのそばには、揺り椅子が置かれています。夕べは暗くてわかりませんでしたが、何もかもがこじんまりとして窮屈そうに家具が並べられています。
まぁなんて気の毒な。
スポンジ姫は心からそう思いました。
「おや、姫様はまだお目覚めではありませんか?」
パッと扉が開き、そんな声が聞こえてきたのです。
「まぁ、ティラミスったらなんて生意気な」
一人ご散りながら、スポンジ姫は眉を顰めます。
「あらあら、早かったのね」
「おはようございます」
ティラミスは嫌味を込めた目つきで、スポンジ姫が覗き込んでいる扉をジロッと見ました。
「スポンジや、もういい加減起きなさい。朝食が出来ましたよ」
カステラおばさんが、テーブルいっぱいに料理を並べて行きます。もうスポンジ姫のお腹は黙っていられません。
「ふぁ~良く眠りましたわ。あら、ティラミスも戻っていたの?」
大きく伸びをしながら、わざとらしくそう言いながら入って来たスポンジ姫に、深々とティラミスが、おはようございます。と頭を下げます。
いつもと変わらない態度に、気を良くしたスポンジ姫はパジャマを脱ぎ棄て、両手を広げます。
どうも様子がおかしいと気が付いたスポンジは、そのままの体制で振り向きます。
どうしたことでしょ。いつもなら当然、姫、本日のお召し物です。と言って着せてくれているはずです。
てきぱきと、カステラおばさんの手伝いをしているティラミスに、スポンジ姫は不機嫌な声を掛けます。
「ティラミス、私のお着替えは?」
そう言われたティラミスが、不思議なものでも見るように首を傾げます。
「あなたは執事でしょ? 私のお世話が仕事のはずよ」
信じられないと言う顔で言うスポンジ姫に、ティラミスは、あっと小さな声を上げて、これは大変申し訳ございませんでした。と深々と頭を下げたのですが……。
「まったく、仕方がない人ね。今日は許してあげる」
ティラミスが、内ポケットから大事そうに何かを取り出し、スポンジ姫に渡します。
それを見たスポンジ姫の顔が、みるみる赤くなっていきました。
どうしたことでしょう?
「おやまあ、風邪でも引いたのかい?」
カステラおばさんが、ずれたメガネ越しに訊きました。
「お父様ったら、何を仰っているのかしら? 私がなぜ、本当に、町の子供たちと一緒の学校へ通わなくてはいけなくって? ティラミスは遠い親戚にすることに相成ったって何? あなたは、ここに一緒に暮らさないって、どういうこと? 普通の暮らしをしなさいって。着替えとかどうすればよろしくって?」
怒り心頭のスポンジ姫に対し、冷ややかな笑みを浮かべたティラミスが答えます。
「ご自分のことは、ご自分でお願いします。ちょうどいい機会でございます。ワタクシメは、久しぶりに兄のところへと参ることにしました」
「兄ですって!」
「この先を少し行ったところで、炭焼きをしております。少々事情がありまして、離れて暮らしております」
スポンジ姫にとって、ティラミスの兄などどうでも良いのです。それより何より大事なのは、
「では、わたくしの世話はどうするの?」
「スポンジや、ここにちゃんと書いてあるじゃない。自分のことは自分でやりなさいって。これはクリームの字だね」
カステラおばさんから手紙を引っ手繰って、もう一度スポンジ姫は読み返します。
確かに細く丸い文字は、クリーム王妃の字です。
ではと言って、ティラミスは行ってしまいました。
スポンジ姫は、泣きたい気分でいっぱいです。
忌忌しき事態に、スポンジ姫の心はすでに折れてしまっています。
食事を摂る元気もありません。と言いたいのですが、そこはスポンジ姫。さすがでございます。
出された食事のおいしさに、箸が止まらないではありませんか。
その様子を、カステラおばさんは目を細めて眺めています。
どうやら、これなら大丈夫のようです。
一安心したカステラおばさん、お替りと差し出された茶碗を受け取ったのでした。