違う世界2
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……意識の底みたいなところに、自分が横たわっているのを感じる。
視界が暗いな、とは思えるのだけど、まだ目を開くことができない。
ああ、私『気を失う』っていうのを、生まれて始めて体験したんだわ。
「アレク……!
ああ、どうしましょうクラウス、アレクが起きませんわ!
このままずっと起きなかったら、わたくし……わたくしは……!」
「大丈夫ですよララメル、落ち着いて。
気を失っているだけです、命に別状はありませんよ」
聞き覚えのある南国の華やかな鳥のような声と、聞き覚えのない穏やかで優しい男性の声が、かわるがわる聞こえてくる。
「アレクお願いよ、目を覚ましてちょうだい。わたくしよ、ララメルよ。
あのお部屋の方は無事でしたわ。だから、お願いだから、目を開けてちょうだい!」
「アレク女王、気がつかれたか? もうすぐ弟も来ますからね、気を確かに」
ララメル女王とクラウスという人が、私のそばにいるらしいのだけど……
クラウスさん。
聞いたことがあるような名前だなあ。
えっと……とりあえず誰だかはおいといて。
もうすぐ、クラウスさんの弟さんが、私のためにここに来るらしい。
私のためにわざわざ来てくれる人、っていったら……
!?
頭の中で言葉を整理すると、私は今置かれている状況を瞬時に把握した。
非常によろしくない状況だということを。
意識の底を、優雅にたゆたってる場合じゃなかった。
「……ここはどこですか!」
私は両目をかっと見開くと、腹筋を思い切り使って飛び起きた。
身体中があちこち痛いけど、そんな悠長なことを言ってる場合じゃない。
「まあアレク、気がついたのね!
よかったわ、わたくし、もうあなたが起きないものと……」
「お二人とも、助けてくださって、本当にありがとうございます!
私、自室へ戻ります。一刻も早く戻らないと!」
私が死にもの狂いでソファから立ち上がろうとしているのに、ララメル女王とクラウスと呼ばれていた男性は、それを押しとどめる。
「無理をしてはいけないよ。まだ意識もはっきりしていないだろうに。しばらくここで休みなさい」
「いいえ、それはできませんわ皇太子殿下! 私、早く部屋に戻らないと!」
クラウスという名前で、それ相応の身なりをしてこんなところにいるのは、ローフェンディア帝国の第一皇子、クラウス・ハイドレイツ皇太子殿下しか考えられない。
クラウス皇太子がここにいるのもどうしてなのか気になるけど、それより前に、私にとってさし迫っている危機があった。
クラウス皇太子の弟……つまりローフェンディア第二皇子でもあるユートレクトが、私を引き取りにここに近づいているという。
こんな姿を見られたら、それこそ何を言われることか。
ストッキングは破れ放題、足にはピンヒール以外の傷も増えてたし、ドレスもマーヤには申し訳ないけど、ところどころ破れたりほつけたりしてる。
せっかく苦労して結い上げた髪も、落武者みたいになっていた。
間違いなく三つは、低気圧台詞を投げつけられるに違いない。
それはできる限り避けたかった。
今日はもう、ユートレクトの顔を見たくなかった。
怒られたくないというのもあるけど、それよりも晩餐会で見たあの目を思い出すと、今日はこれ以上彼と向き合いたくないと思った。
「お願いです、皇太子殿下、ララメル。今日のところは、おいとまさせてください。
私はもう大丈夫です。一人で戻れますから」
自分でも意識しないうちに、不思議なくらい声が震えていた。
そのせいかなのか、それとも私の嘆願の真意を汲み取ってくれたのかはわからないけど、クラウス皇太子は親切にもこう言ってくださった。
「わかった。フリッツには、私から説明しておくから大丈夫。
心配しなくていい、しばらくここで安静にしているんだよ。今動き回ったら本当に危ないからね」
「あ、ありがとうございます、皇太子殿下」
ああ、なんていい人なんだろう。思わず本当に涙が出そうになってしまった。
少し高めの穏やかな声に、優しいまなざしと春の陽だまりのような微笑み……
クラウス皇太子をこんなに近くで見たのは始めてだったけど、想像していた感じとは全然違っていたから驚いた。いい意味で想像と違っててよかった。
この人のどこが『性格的には……問題が山積み』なのよ。
あんたの方がよっぽど問題てんこ盛りよ、まったくもう。
と、心の中で悪態をついていたら、部屋の扉が四回ノックされた。
来た。
自分でも身体がこわばるのがわかった。
どうしてここまで怖がってしまうのかな。
今日は既に一度怒られているから、神経が過敏になってるのね、きっと。
ああ、かわいそうな私……でも明日にはきっと、けろっとしてると思う。
「フリッツだな、私が出る。
ララメル、アレク女王に着替えを出してやってもらえませんか?」
「わかりましたわ。
アレク、立てるかしら? とにかく着替えましょう」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます、ララメル」
ララメル女王に支えられながら、私はゆっくり立ち上がった。
やっぱりまだ頭がくらくらした。
この調子だと、一人で部屋を出て行ったとしても、途中でユートレクトにつかまったと思う。
クラウス皇太子が扉を開けると同時に、私はララメル女王と共に奥の間に滑りこんだ。
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私は恐れ多くも、ララメル女王に着替えを手伝ってもらいながら、黒装束を追いかけていった後の事の次第をようやくまともに聞くことができた。
でも、ララメル女王の話をそのまま書くと途方もなく長くなるから、まとめさせてもらったわ。
◇黒装束が刺したのは、クラウス皇太子の妻、つまり皇太子妃のリースルさまを護衛していた、近衛兵Aさん(ララメル女王命名)だった。
◇なので、黒装束は、本当はリースル皇太子妃の命を狙ったものと思われる。
◇ララメル女王がリースル皇太子妃に聞いたところによると、近衛兵Aさんの傷は幸いなことに浅かったらしく、むしろ黒装束に深手を負わせたらしい。
◇ララメル女王が、腰を抜かしながら、どうにかこうにか部屋にたどり着いたときには、近衛兵Aさんは、応急処置をしただけで部屋から出て行ってしまったそう。
ララメル女王は、自分が部屋にたどり着くのに必死で、周りの音も人の姿も全く見えていなかったらしい。
◇クラウス皇太子がここにいるのは、私の大声を聞いて駆けつけたから。
でも、クラウス皇太子があられもない格好で気絶していた私を発見したときは、既に黒装束の姿はなかった。
現在も近衛兵たちに捜索をさせている。
◇私が伸びていたこの部屋は、リースル皇太子妃の管理下にある部屋で、『世界会議』の開催中はちょっとした衣装なども置いてあるらしい。
◇ちなみに、医務室らしきものは、私とララメル女王が歩いていた場所とは全く逆の方角にあるらしい。
「……というわけでねアレク、それはそれは大変だったのよ。
リースルが無事で、近衛兵Aさんも軽傷らしくて、本当によかったですわ……はい、これに着替えてちょうだいな」
さっきいた部屋で、私が着替え終わるのを待っているであろうクラウス皇太子とユートレクトに、筒抜け間違いなしの大音量で、ララメル女王はおしゃべりを続けながら、小さなクローゼットから手際よく衣装を選んでくれた。
もう、何も言い訳できない。
まあ、いいか。怒られる前から怖がってても仕方ないし。
悪いことしたわけじゃないもんね。
「ありがとうございます。
本当ですね、お二人ともご無事でよかったです。
ララメル、怖い思いをさせてしまって申し訳ありませんでした」
「いいえ、これしきのこと、国では日常茶飯事ですわ。月に一度は命を狙われていますもの。
それよりアレク、あなた本当に素晴らしいわ。
殺人鬼を、バルコニーから落ちてまでも捕らえようとするなんて!
わたくし、あなたとお友達になれて、本当によかったわ!」
月に一度、命を狙われてる?
の割には、あの騒動でかなり動揺してたみたいだけど。
あんまり深く考えないでおこう、うん。
私は、ララメル女王が選んでくれたリースル皇太子妃のドレスに着替えた。
サーモンピンク色のフリルがたっぷりのスカートで、胸元にはたくさんのビーズが輝いている。
腰のところに大きな花のコサージュとリボンがついていて、とってもかわいらしい作りになっている。
これも私に似合ってるかは、あんまり考えないでおこう。
リースル皇太子妃は洗濯などは不要、お礼に持って帰ってくれてもいい、とおっしゃっていたそうだけど、洗濯はお言葉に甘えるとしても、なるべく早く返しに行かなくちゃね。
それよりも今は。
「お友達などと……もったいないお言葉、恐れ入ります」
私は脱ぎ散らかした服をたたんでくれているララメル女王にお礼を言った。
まさか『世界会議』で、お世辞でも私のことを『お友達』なんて言ってくれる人に出会えるなんて、夢にも思ってなかったから、本当に嬉しかった。
「何を他人行儀なことをおっしゃいますの?
いいこと、今度そんなことおっしゃったら、わたくし、あなたの秘密をばらしましてよ?」
ララメル女王独特の丁寧ながらもきさくな言葉に、私は嬉しいながらも首をかしげた。
「秘密とおっしゃいますと」
「あなたの、そこにあるほくろね。とても色っぽくてよ。
これは、恋人でなくては、なかなか見られないものですもの。大いなる秘密だと思いますわ。オホホホホホホホ!」
「……!」
だからそういうことを、ほくろを指差しながら、大音量で言わないでくれるかなあああ!!
「そろそろ男性陣もしびれを切らせているかしらね。さあアレク、参りましょうか」
「……は、はい」
クラウス皇太子のご助力も虚しく、ユートレクトに顔が合わせづらい要素が大幅に増して、私はララメル女王と衣装室から出た。
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奥の衣装室から出てきたとき、ユートレクトが私を見て、ほんの少し驚いた顔をしたような気がした。
なんでだろう。ほくろの話に反応した顔つきじゃないことはわかるんだけど。
「さあ、今夜の女勇者をお返ししますわ。
フリッツ、アレクは怪我人なんですのよ。丁重にお送りしてちょうだいね」
「はい、ララメル女王陛下。ご助力感謝致します。
お手を煩わせて誠に申し訳ありませんでした」
「あら、いやですわ。また、女王陛下だなんておっしゃって。
ララメルでよいと申しているではありませんか。相変わらずお堅くていらっしゃるのね」
こうしてみると、ララメル女王はとても顔が広いみたい。
クラウス皇太子やその奥さまの皇太子妃とも仲がよさそうだし、ユートレクトとも面識があるみたい。
私はお堅くていらっしゃる人のとなりに立つと、おいとまとお礼を述べた。
「それでは、本日はこれで失礼致します。
ララメル、皇太子殿下、本当にありがとうございました。妃殿下にもどうぞよろしくお伝えください」
クラウス皇太子とララメル女王の笑顔から、離れたくなかった。
「こちらこそ、本当に感謝している。どうもありがとう。
妃も、ぜひ直接あなたに会ってお礼をしたいと申していた。また改めてお会いしよう。
ララメル、あなたはこれからどうします?」
「わたくしは、リースルのところへ寄ってから戻りますわ。もちろん一緒に来てくださるでしょう、クラウス?」
「もちろんですよ。私もリースルが心配ですしね」
「あら、いやですわ、クラウスったら、本当に愛妻家なんですもの。わたくし、あてられてしまいますわ」
あてられてもいい。
私もララメル女王と一緒に、リースル皇太子妃のところへ行きたい。
横のお堅い人から、ものすごい冷気を感じるから。
「では、女王陛下、皇太子殿下、本日はこれにて失礼致します」
気圧の低さを礼儀のオブラートで完璧に隠した口調でそう言うと、ユートレクトは私よりも先に部屋の扉へ向かっていった。
「アレク、気をつけてお帰りなさいね。フリッツにおぶってもらうとよくってよ!」
「フリッツ、そう早く歩くな、陛下はまだ意識が混乱して……まったく、あいつはいつもああなのだから。変わり者の弟で申し訳ない」
二人のねぎらいの言葉もユートレクトには聞こえていたかどうか。
多分、地獄耳だから聞こえてるだろうけど。
私は最高位の淑女にしてはやや不恰好に二人の言葉に返礼しながら、部屋を後にした。
沈黙がとっても重い。
頭もまだ少しぼーっとしていて、早く歩こうとすると脚がもつれて転びそうになってしまう。
だというのに。
「何をのろのろ歩いているのだ、早く歩け」
ああ、どうしてあなたはそんなに予想通りの言動をするのかしら?
晩餐会はとうの昔に終わっており、廊下には私とユートレクトの足音だけが響いている。
「やはりしでかしたか、まったく油断も隙もない」
そろそろ、低気圧台詞の嵐が私に上陸しそうだった。
「万が一他の首脳たちが見ていたら、どうするつもりだったのだ。いい笑いの種だ」
「……ごめんなさい」
あのね。
ちょっと聞いてもいいかしら。
私って女王だったわよね?
あまり出来がよくないのはわかってるけど、一応『センチュリア女王』だったわよね?
この話のどこかにも、確かそう書いてあったわよね!?
……ありがとう。
たまに自分が何者か、確認したくなるときがあるのよ。
よし、今回は思い切って言ってみよう!
「で、でも、あのまま黒装束が逃げていくのを、黙って見てることなんてできなかったわ。
もしも、あなたが私の立場だったらどうしてた?
黙って見ているだけ? 声をあげて叫ぶだけだった?
お笑い草になっても構わないわ。私は、悪を捕まえる方を選んで間違ってなかったと思う」
数歩離れたユートレクトの背中に向かって、私は久しぶりに自分の本心をぶつけた。
ユートレクトが肩越しにこちらを振り返った。
確かに、ベランダから飛び降りてしまったのは、わざとじゃないにしても危なかったし、命の危険もあるから、一国の女王としては浅はかな行動だったと反省している。
でも、私は女王でもあるけれど、その前に普通の人間だもの。
『悪、許すまじ!』と思って、いけないことなんかないと思う。
それにあのときは、私しか動ける人間がいなかった。
だから、間違いじゃないと思う。
どうして今日は、こんなに強気になれるんだろう。
そう思ったとき、ララメル女王とクラウス皇太子の笑顔が頭をよぎった。
二人は私の行為を、認めて、許して、ねぎらってくれた。
そしてララメル女王は、こんな私を『友達』とまで呼んでくれた。
きっと、二人が私に勇気を与えてくれたんだと、このときはっきりとわかった。
私の視界を水色の瞳が鋭く貫いた。
普段なら面と向かうと少しは怖いはずなのに、今は不思議と怖いとは思わなかった。
「……そうだな」
短い沈黙の後、ユートレクトはなぜだか少し自嘲したようにつぶやいた。
「君主たる者、国民の模範となる行動を常に取らなくてはならん。
今回のおまえの行動は、確かに無謀ではあったが、民衆の模範たるにふさわしい行動だったと評価している」
……え?
ひょっとして私、認めてもらえたの!?
と思った瞬間、よっぽど嬉しかったのか、ユートレクトに駆け寄ろうとした私は、見事に脚をもつれさせてそのまま床に座り込んでしまった。
ドレスが無事で本当によかった……
「言っているそばからこれだ」
「ご、ごめんなさい」
「さっさと帰るぞ。明日も一日会議なのだからな。
議事や資料に目を通す時間がなくなるだろうが」
あれ?
自力で地面を踏みしめてる感覚が全くないのに、視界が急に高くなった。
と思ったら、二時の方向、それもすぐ近くに、いつもの冷静すぎる顔があった。
これは、いわゆる『お姫さまだっこ』状態じゃないの!?
私はたちまち、全身が火だるまになるんじゃないかってほど身体が熱くなった。
「ちょっ……! なにしてるの!? 一人で歩けるわよ!
そんな、ララメル女王に言われたからって、柄にもないことしてくれなくてもいいわよっ!」
「おまえの歩みにつきあっていたら、いつ部屋に戻れるかわからん。
黙っていろ、皆が起きる……それにしても重いな、断崖絶壁のくせに」
「なっ……!!」
どさくさに紛れて、重いだの断崖絶壁だのって。
よくも言ってくれたわね!
どっちも気にしてるのに!
……とは、なぜかどうしても言えなくて、私はそのまま、ユートレクトの両腕の中で固まってしまった。
これって、一応気を遣ってくれているのよね。
多分、きっと、恐らくだけど。
「ありがとう、ユートレクト」
どんな相手にでも『ありがとう』と『ごめんなさい』だけはきちんと言いなさい、という母の教えを守って、私は冷静すぎるはずの奴の顔を見た。
「行くぞ。落とされたくなかったら、腕を俺の首に回しておけ」
だけど、ユートレクトの言葉と表情は、何か苦痛に耐えているような気がした。
このときの私は、何も気がつくことができなかった。
ただ、自分の腕を彼の首の後ろに回したとき感じた、互いの体温がとても暖かくて、それだけで幸せだった。
彼の、異性を見つめていたあの目のことなど、忘れてしまっていた。