声明採択1
*
結局、あれから横になれたのは小一時間してからだった。ベッドに転がったらすぐに眠りの世界へ旅立てたわ。
それでも睡眠不足は解消しない。今夜こそ熟睡できますように。
今日はいよいよ『世界会議』六日目。
最終日の明日は閉会式しかないから、会議らしい会議は今日でおしまいになる。
今日は、午後からの『世界会議国際宣言』採択のときに、永世中立国の代表として声明を発表するという大仕事が待っている。
五分もかからない演説だけど、全世界のお偉いさんたちの前に出るのはこれが始めてだから、さすがに緊張する。
だけど、それさえ終わったら、楽しそうな仮面舞踏会に世界最大規模と言われている大舞踏会、それと……
こ、ここの市街地ってどんな感じなのかしら。すごく大きいみたいだから見て回るのが楽しみ。
水害の後、復旧が少しでも進んでいるといいのだけど。
とにかく。
今日こそは何事も起こらずに、平穏無事に過ごせますように!
私はかなり切実に願いながら、今日の朝食会場の品揃えの多さに満面の笑みを浮かべた。
医務室のベッドで一晩を過ごすのは始めてのことだった。
薬品の匂いで眼が覚めるというのは、あんまり気分のいいことじゃないと知った。長い間病床にいる人たちがどんな気持ちでいるのか、少しだけわかったような気がした。
侍医さんたちを呼んできてユートレクトへの処置を最後まで見守った後、心身ともに尽き果てた私が倒れこんだのは、復活した臣下のとなりのベッドだった。
いいのよ、薄かったけどカーテンで仕切られてたから、おとといみたいな接触事件もなかったし。
それに、万が一容態が急変したとき、そばにいたかった。
嬉しいことに私の心配は現実にはならなくて、朝になると、ユートレクトは私より早くベッドから起き出して服を着替えていた。
カーテン越しに動いている姿が見えたときには、寝起きの頭でも動揺して真剣にカーテンさまに感謝した。
奴が侍医さんたちのところに診察を受けに行った後で、私も心置きなく身支度を整えた。
侍医さんたちは、今日一日安静にしているようにと注意したみたいなんだけど、奴ときたら全然聞かなかったみたいで、代わりに私が間接的お小言とたくさんの薬をもらったのだった。
「侍医さんたちからお薬預かったからね。朝昼晩、毎食後各一錠ずつ必ず飲んでください、ですって」
先に立って(多分)嬉しそうにおかずを取る臣下に、私は小さい声で話しかけた。
空腹らしいけが人は、おかずたちから眼を離さずにこれまた小声で聞いてきた。
「何種類ある?」
「三種類」
「おまえが飲め」
なんで私が、あんたの薬を飲まなくちゃいけないのよ!
って大声でつっこみたいけど、周りに人がいるから言えない……まったく、子供じゃないんだから薬くらいつべこべ言わずに飲みなさいよね。
あ、そういえば私、昨日薬を飲むのをすっかり忘れてたわ!
いろいろあったはずなのに、その『いろいろ』があんまり大きなことばかりだったから、薬を飲んでいないと頭が痛くなるのも忘れてたのかしら。
いい機会なのかな。
私が飲んでいる薬、実はあんまり長い間飲み続けていると身体によくないらしいの。
特に女性は子供を産むとき、胎児によくない影響があるかもしれない、と調べた書物に書いてあった。
侍医に聞いても『陛下の症状を治すのが先決です』と言うばかりで、副作用のことは教えてくれなかったのよ。
勝手に薬を減らすことは止められているから、センチュリアに帰ったら相談してみようかな。
薬を飲まなくても頭が痛くならないんなら、飲まないに越したことはないものね。
今までだったら、薬を飲むのを忘れたらそれだけですごく怖くなって、真夜中でも起き出して飲んだり、翌朝まとめて2錠飲んだりしたこともあったのに、今日はそんな風には思わなかった。
これが、病気が回復に向かっている兆しだといいな……
まだ少し顔色は悪いけど、平然と朝食を山盛りにしている病みあがりの臣下を見て、私は素直に緊張から解放された思いをこめて息をついた。
そうして今日は思う存分主食とおかずをよそって、居心地のよさそうな席……周りを気にしないで話ができそうな場所を探していると、
「もう動き回っても大丈夫なのか!?」
クラウス皇太子が信じられないという顔をして、こちらに向かってきた。
「はい兄上、昨夜はお騒がせして、本当に申し訳ありませんでした」
私たちは一礼すると、ユートレクトがさすがに心から申し訳なさそうに兄上に謝罪した。
「なに、無事だったなら、何も言うことはないよ。よかった……本当によかった」
クラウス皇太子は心から安心したように何度も頷くと、トレイを空いているテーブルに置いて、ユートレクトの肩をぽんと叩いた。
大食漢の弟がトレイを持っていなかったら抱擁しそうな勢いだったけど、無理もないと思う。親族で一番奴のことを心配していたのは、きっとこの方だと思うから。
「ホク王子には、ローフェンディア騎士勲章が授与されることになったよ。昨日は本当に目覚しい活躍をしてくれたからね」
照れくさそうに笑ってクラウス皇太子はまたトレイを持つと、一緒に朝食を摂ろう、と言って先頭に立って席を探し始めてくださった。
「そうですか、ホク王子もお喜びになることでしょう。私も助けていただきましたから」
こんなに殊勝なユートレクトを見るのは、始めてかもしれない。
他人にお礼を言ったり感謝したりするのが苦手……というか、人に頭を下げるのが嫌いだと思っていたけど、そんなことないんだ。
あああ、これ以上考えをめぐらせるのはやめておいた方がいいわ。なんか顔が緩んできそうだから。
「おまえも倒した賊の数だけならホク王子より多いが、ローフェンディア騎士勲章は皇族には与えられないからな。そうだ、代わりに私から何か贈ろう。何がいいだろうか……」
ローフェンディア騎士勲章っていうのは、世界的にも栄誉ある勲章として知られていて、これを授与された人は一国の君主に匹敵するもてなしを受けるらしい。
すごいわね、ホク王子って。女性なのに剣も使えて、男顔負けに活躍するなんて。
私もそんな風になりたいけど、剣技だけは『姫さまには無理です、才能のかけらもござらん!』って軍の最高指揮官に断言されて以来、誰も教えてくれないのよね。
あ、うちにも一応軍があるのよ。
永世中立国はどことも戦争しないし他国の戦争にも首をつっこまない、と言えば平和そうに聞こえるかもしれないけど、その代わり、もし他国に攻められても誰も助けてくれないってことでもある。
だからある程度……いやかなり自衛のために武装しておかなくちゃいけないのよ。
それはさておき。
クラウス皇太子は植え込みの向こう側に眼をやると、遠慮なく話せそうな席を見つけたのか、私たちを爽やかな笑顔で振り返ると、
「いいことを思いついたよ。ここの離宮がちょうど空いているんだ。
明後日からの皇族審判に出席してもらうあいだ、あそこを二人で使ってくれ。婚前旅行にとてもふさわしい館だ。フリッツもあそこに入ったことはないだろう? なかなかいい設備が揃っていて、例えば寝台は」
「遠慮しておきます」
爽やかな笑顔とはほど遠いことを普通の音量でのたまったので、私とユートレクトは即座にお断りした。
設備ってなんだろう、ってちらっと考えたけど、絶対に朝の会話にふさわしい答えじゃないと思った。
**
私が離宮の『設備』に心を奪われているうちにいい席が見つかったみたいで、クラウス皇太子が手を振る方にるんるん歩いていったのだけど、誰かさんのおかげでまた下座に座らされることになった。
なんであんたがクラウス皇太子と並んで上座に座るのよ。まあ、今日は病みあがりだし多めに見てあげるけど。
しばらくの間、三人ともおとなしくご飯を食べていたのだけど、私が焼きたてパンのおかわりをしようか迷っていたら、
「あら、フリッツじゃありませんか! もうお身体はよろしいの?」
朝にぴったりなララメル女王の華やかな声が聞こえてきて、私たちは気さくな挨拶を交わした。
「はい、おかげさまで。ご心配おかけしました」
「意識不明の重症と聞きましたから、それはもう、心配したんですのよ!
おかげで昨日は眠れなくて…皆さんご覧あそばして、この見事なくまを!」
ご覧あそばして、とはいうものの、最高位の淑女のかんばせをじろじろ見るわけにもいかないので、私たちは苦笑してごまかすしかなかった。
ララメル女王は昨日ユートレクトと衝突してたはずなのに、そんなことはもう根に持っていないみたいでほっとした。けど、安心しているのもつかの間、
「そうそうアレク、ちょっといらしてちょうだい。お二人とも、アレクをお借りしてもよろしくて?」
私はわけのわからないまま、二人から少し離れたテーブルに朝食のトレイごと移動させられるはめになった。
その間に、残してきた二人のところへホク王子がやってきたので、私たちも席から挨拶すると素敵な笑顔で返礼してくれた。
ホク王子が女性だなんて未だに信じられない気分だわ。あんなに背が高くて素敵で、見た目はまるっきり男性なのに。
向こう側の会話が、こちらにも聞こえてくる。
「ホク王子、昨晩はご迷惑をおかけしました。お手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした」
その慎ましさを私にもぜひ見せてほしいわ、薬も飲めないわがまま宰相閣下。
「何をおっしゃいます、私こそ昨日は」
ホク王子が何か答えようとしたけど、急に言葉を切ったみたいだった。どうしたのかな。
もしかしてあいつ、またホク王子を睨みつけたんじゃないでしょうね。命の恩人になんてことするのよ。
「どうしたんだい、ホク王子?」
「いえそれが……」
クラウス皇太子もおかしいと思ったのか訊ねてたけど、ホク王子は言いづらそうにしているらしい。
それっきり男性陣のテーブルの会話が聞こえなくなってしまうと、ララメル女王は彼女にしては小声で本題をふってきた。
「アレク、単刀直入に聞きますけれど、昨日はどちらで休まれましたの?」
どうしてそんなことを聞くんですかと考えて、私は昨晩のことを思い出した。
そういえば、ララメル女王にもリースルさまと話していたこと、聞こえてたみたいだったわよね。
ということは……
私は心の中で顔を青ざめさせた。
ララメル女王も私の気持ちを知ってるってこと!?
ララメル女王、ユートレクトのことをさんざんこきおろしてたから、なんて言われるか…考えるだけでも恐ろしいわ。
「医務室ですが……それが何か」
私は細心の注意を払って返答した。
ララメル女王は妖艶な顔をずいっと近づけると、更に具体的に聞いてきた。
「それは、あそこの仏頂面な方と同じ個室で?」
う……
「いえ、違います」
もちろんうそだけど、同じ部屋で寝たなんてララメル女王じゃなくても誰にも言えないわ。
私はどきどきしながら、ララメル女王の返事を待った。すると、ララメル女王は予想とは違う反応をした。
「まあ、つまりませんわね。せっかくいろいろなお話を伺えると思いましたのに」
てっきり、
『あんなお堅い方と同じ部屋で休んでも、色事が起きないなんておかわいそうに……あの方、絶対にどこか回線が外れているんですわ』
とか言われると思ったから、そういう意味では安心したけど、『いろいろなお話を』ってとこを強調するのはやめてほしい。お話するようなことは起こってませんから。
「ですけど、フリッツもあれだけ元気なら、昨晩も大分早く意識を取り戻したのではなくて?」
「はい、意識を戻したのは一時過ぎでした」
「まだ十分に活動範囲内ですわ。それで、何がありましたの?」
だから、何もありませんってば。それに『活動範囲内』ってなんですか、時間のことですか?
なんだか、何もないことがまるで私の罪のように思えてきたんだけど、これって絶対被害妄想よね。私、悪くないわよね。
「はい、ユートレクトが意識を取り戻してから二時間ほど起きていましたが、今日のことがありますので三時前に休みました」
私はあくまで事実を冷静に伝えた。だって、それ以外にどうしろっていうのよ。頬を桜色に染めて、
『いやですわララメル『何が』だなんて。そ、そんなこと、私と彼の間にあるわけないじゃないですか』
とか言えっていうの?
無理無理、言えないわ、そんなかわいいこと。おっさんエキス満載だろうが何だろうが、もういいわよ、ほっといてちょうだい。
でも、私の心の中の葛藤を知らないララメル女王は、とんでもない盲点を突いてきた。
「アレク、わたくしはね、あなたの嗜好をとやかく言うつもりはなくってよ。恋愛は自由ですもの、誰を愛しても構わないと思いますわ。
ですけどね、立ち振る舞いまで、あの方みたいになる必要は、ないと思いますわ。
あなたはまだうら若い淑女ですのよ。それをなんですの、その味気も色気もない受け答えは。
まるで、フリッツがそっくりそのまま乗り移ったみたいなしゃべり方じゃありませんか」
ショックのあまり眩暈がした。
それはあまりにひどいんじゃないかしら。
こんなにかよわくかわいい乙女をつかまえて、あの氷雪魔人と話し方が同じだなんて。
「あのララメル、それはあまりにもひど」
「女性同士、何があったと聞いたら、答えることは一つに決まっているじゃありませんか。
男女が密室に二人きりになれば、いろいろ……素敵なことがありましたでしょう?」
私は悲しみをこらえながら反論しようとしたけど完全に無視されてしまい、また言葉を考えないといけなくなってしまった。
ていうか、ユートレクトがかなりの重傷だったことが、遥かかなたの棚の上に放り投げられてるような気がするんだけど……
あれでも一応、要安静の病人で、本当に薬は飲んでもらわないと困るのよ。
それなのに、うろうろしていられるのは『閣下の精神力の賜物』だって、侍医さんたちが言ってたもの。
今日だけは絶対に! 奴の神経すり減らすようなことしちゃいけないんだから。
うろうろさせてるのは、私のせいだってこともわかってる。今日は会議の最終日だし、声明文も読まないとけいないから一緒にいてくれてること。
ごめんね、これからもっと頑張って、あんたが安心して寝込めるようになるから。
「……ご期待に添えなくて申し訳ないのですが、ララメルが想像していらっしゃるようなことは、全くありませんでした」
「どうして言っているそばから、そういうお返事なの!?
わかりました、貴女があくまで隠すおつもりなら、わたくしにも考えがありますわ」
いえ、隠すもなにも本当のことを言ったんだけど、私、また変な言い方したのかしら……ってララメル女王、どうして席を立って、男性陣のところに向かってるんですか!?
私が止める間もなくララメル女王はユートレクトの横に立つと、威厳高く彼に声をかけた。
「はい、何か」
「あなた、昨夜一晩、あんなに素敵な淑女につきっきりで看病してもらっておきながら、お礼はなさいましたの?」
『あんな素敵な淑女』こと私の方を指さすララメル女王は明らかに興奮しているんだけど、その憤りは眼の前の私の臣下にはまるで伝わってないみたいだった。
「いえ、特に何も」
その短く冷静すぎる答えに、ララメル女王も少し頭をひねったのか、
「お礼というのはね、物をさしあげるとか、そういうことでなくてもいいんですのよ。
例えば、女性に敬意を示す手の甲への接吻ですとか、思いが募れば、それ以上のことですとか」
「ご期待を裏切って恐縮ですが、女王陛下。陛下がご想像しておられるような事態は、一切起きておりません」
それを聞いたララメル女王は顔を真っ赤にしてこちらに戻ってくると、私にあれこれお説教をし始めた。
どうして私が怒られないといけないの?
クラウス皇太子はなんだか知らないけど大笑いしてるし、ホク王子はなぜか残念そうな顔をしていた。
なんなのよ、もう……
そう思って、ララメル女王から視線をそらすと、釈然としない顔の臣下と目が合って、私は自分も今あんな顔をしているに違いないと確信したのだった。