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言葉より4

********



 私はとっさに言葉が継げなかった。


「意識不明の重態とは、どれほどの傷を負われたのです」


 私が動揺しているのを察してくれたのか、リースルさまが私の前に立つと衛兵さんに直接問うた。


「それが、傷は大したことないのですが、賊の矢に塗ってあった猛毒が回られて……」

「な……!」


 ララメル女王の短い悲鳴が聞こえた。


「その毒は、命に関わるものなのですか」

「侍医によれば、毒を受けてから数時間持ちこたえられなければ、お命は危ういと」

「わたくしの命を狙っているという賊は、まだ捕らえられていないのですか」

「いえ、閣下やホク王子のご活躍により、賊は全て捕らえられております、ご安心ください」


 リースルさまの表情が厳しいものになった。何かを心に決めたように私と衛兵さんを見ると、


「アレク、この者についてお行きなさい。早く女王陛下をお連れするのです、いいですね」


 そう言って奥に戻ろうとしたリースルさまを、衛兵さんは慌てて引き止めた。


「恐れ入りますが、妃殿下もできますればお越し願いたく……宰相閣下がうわごとで、妃殿下のお名前を呼んでいらしたそうなのです」


 それを聞くと、心の中に黒くて冷たい塊のようなものが降りてきたのを感じた。

 こんなときなのに、薄汚く心を動かしてしまった自分がいやだったけど、今はそんな気持ちに構ってるときじゃない。

 待ってるんだから……早くリースルさまを連れて行ってあげなくちゃ。


「リースル、行きましょう」


 私がリースルさまの腕に手をかけようとすると、リースルさまは優しく、だけどはっきりとこう言った。


「わたくしは参りません」


 信じられない言葉に、私はリースルさまを見つめる目が感情的になるのを止めることができなかった。


「なぜですの? 貴女を呼んでいるのでしたら、声をかけてさしあげなくては。わたくしも参りますわ、心配ですもの」


 ララメル女王の声にも、リースルさまは首を縦に振らなかった。


「ララメル、わたくしたちはここに留まりましょう。衛兵長、少し外でお待ちなさい」


 衛兵長さんは心配そうに扉を閉めて姿を消したけど、私はリースルさまを急かさずにはいられなかった。


「リースル、早く参りましょう、一刻を争うのですよ?」

「ですからアレク、貴女一人でお行きなさい」


 そのいつになく落ち着いた口調はとても冷たくて、まるでユートレクトさえも突き放しているように聞こえた。


 どうしてそんな冷たいことを言うの?

 意識が遠のくなかでも、あなたに逢いたがっているんだよ?

 あなたのことを心配しているから、無事を確かめたいから……逢いたいから。

 誰のためにけがをしたと思ってるの!?

 誰のために命を……この数時間が峠だなんて。


 感情が申し訳ないくらいたかぶって、そう思う気持ちを抑えることができなかった。


「いやです、リースルも一緒にいらしてください。彼の君主としてお願いします」


 声に怒りがこもっているのを知りながらも、我慢できなかった。


 けれど、リースルさまは私の無礼な物言いに動じないどころか、今度は穏やかに微笑むと、私の耳元に愛らしい唇を寄せて囁いた。


「心配いりませんわアレク。フリッツはこのくらいで命を落としたりしません。

 それにわたくしは、今あの方にお会いしてはならないのです」


 その春の陽だまりのような声に、一瞬心がほどけて安心しかけたけど、最後の言葉の意味がわからなくて私はまた声を荒げた。


「なぜですか、今お会いにならなければ、いつ会えるとも知れないのですよ!?」

「アレク、あの方の腕の傷をご存知ですか?」


 知ってる。昨日見たもの。左腕の包帯と背中の痛々しいあざ。


 リースルさまも知ってるんだ。

 どうして知ってるの? 服を脱がなかったら、わからないと思うけど……


 でもその傷がどうしたっていうの?

 今はそんなこと関係ないでしょう!?


 私は苛立つ気持ちを抑えて答えた。


「はい、存じていますが」

「あれは、わたくしのせいでできた傷なのです」


 リースルさまは、ララメル女王に聞こえないようにするためか、声を一層小さくした。


「一日目の晩餐会の夜、賊がすぐそばに潜んでいると聞いて、彼はわたくしの元に来てくれました。

 自分が賊を撹乱するから、わたくしにあらん限りの声を出して、襲われたふりをするようにと。

 ですけど、そんな危険な目に遭わせたくないと承知しないでいると、

 彼は自ら左腕を刺して、わたくしに悲鳴をあげさせたのです。

 迂闊でした。その後はあなたも知るところです。

 あなたが追い詰めたのは、彼だったのです。

 わたくしは彼だけでなく、貴女も傷つけてしまいました」


 私は突然の告白に、頭がついていけなくなりそうになって、懸命に一日目の夜のことを思い出した。


 それって、もしかしなくても、私がバルコニーから落下までしたにも関わらず、無残に気絶して捕まえ損ねた黒装束のことよね。


 それじゃあ私がララメル女王から聞いた話も嘘……というか、ララメル女王の勘違いだったってことなの?

 本当に黒装束を刺したのは、リースルさまを護衛していた近衛兵Aさんじゃなくて、黒装束自身……ユートレクト本人だった……


 ああ、なんてことなの。

 そんなこと全然知らなくて、息巻いて賊を追い詰めたつもりが自分の臣下だったなんて。

 あの背中のあざも、きっと私と一緒に落ちたときにできたものに違いないわ。

 私よりひどかったから、もしかしたら私をかばって落ちたのかもしれない。


 しかも、ムチ皇子に雇われてた賊の皆さんの話だと、このときリースルさまを襲おうとした賊は、確か黒装束に何人かしとめられたのよね。

 かばってもらった私でも気絶したのに、気絶どころか一人で賊と戦ってたなんて。


 それに……忘れもしないあの夜だもの。お姫さまだっこしてもらったのだって。

 腕、絶対に痛かったよね、ごめんね……


 何も言えない私の横で、リースルさまが言葉を繋げた。


「わたくしはもう、あのようなことをしてほしくない……これ以上わたくしのために傷つけてほしくないのです、彼の身体も、心も。

 わたくしの厚意が、わたくしの思い以上に彼を縛りつけてしまうのなら、それは彼にとっての思いやりではなくなってしまいます。ですから、彼に会うわけにはいかないのです」


 まさか……まさかじゃない。

 こんなこと、知ってなかったら言えないもの。


 リースルさまも知ってたなんて。


 ユートレクトの気持ちをわかってて……わかってるから会わないの?


 でもそれじゃあユートレクトの気持ちはどうなるの?

 そんなことでもう二度と会えなくなるなんて、私だったら、その方がよっぽど辛いよ。


 時間が惜しかった。こんなところで話している暇があったら、リースルさまを引きずってでも早く連れていきたかった。


「それに彼には貴女がいます……お好きなのでしょう、彼のことを?」


 その言葉は、優しく私の心に落ちて、黒く冷たく凝り固まったものを溶かしていった。


 知られていたのは恥ずかしかったけれど、いやだとは思わなかった。

 リースルさまが私のことを心から案じてくれているのが、暖かい声色からめたのが嬉しかった。


「彼を思うなら、信じて差し上げてくださいまし。毒の一つや二つで朽ちるような方ではありません。大丈夫、あなたさえいれば必ず彼は助かります」


 リースルさまの声はどこまでも優しかったけれど、ここに留まる意思は動かせそうになかった。


「時間を取らせました、さあ早くお行きなさい。

 つきっきりになるでしょうから、荷物もお持ちになった方がいいと思います」


 確かに時間は惜しかった。これ以上ここで話してばかりいられない。

 早く姿を見たかった、逢いたかった。


 自分中心の思いに少し後ろめたさがよぎったけれど、これが私の偽りない本心だった。


「わかりました。ありがとうございますリースル、行ってまいります」


 ごめんね、リースルさま連れて行けなくて。


 でも、くたばらずに待ってなかったら承知しないからね!

 これからいやっていうほどおっさんエキス注入して、元気にしてやるんだから!


 私はストールを羽織って荷物を持つと、リースルさまとララメル女王に一礼して部屋を出た。


 部屋の扉が閉まる寸前、『そういうことでしたのね……』というララメル女王の声が聞こえたけれど、振り返る余裕はなかった。



*********



 壁の時計が一つ鳴った。


 全ての処置を終えた侍医たちが出て行って、訪れていた人たちもいなくなると、私は心を決めて、ベッドに横たわるにユートレクトの顔を視界の中心に入れた。




 医務室に着いて一番最初に目にしたのは『同意書』だった。

 侍医たちは懸命に処置をしてくれたけれど、ユートレクトが意識を取り戻さないまま最悪の事態を迎えた場合には、その処置に対して異論を唱えない、という契約を結ばなくてはならなかった。


 ユートレクトはセンチュリアの高官だけど、ローフェンディアの皇族でもある。

 それにも関わらず、私に署名を求めてきたのが不思議で納得がいかなくて、侍医たちに問うた。

 主君でしかない私がこんな重要なものに署名などする資格はない、このようなものに署名できるのは、彼の肉親……皇帝陛下や母君ではないか、と。


 すると、侍医の一人がこう言った。


 これは閣下の意思なのです。意識を失われる寸前に、自分に関する全てのことを女王陛下に委ねるとおっしゃいました。閣下の母君は既に他界していらっしゃいます。皇帝陛下もご承知です……


 震える手と霞む眼で署名を終えると、ようやくユートレクトがいる部屋に通された。


 白くて……眩暈がするくらい白い部屋だった。

 むせ返るほどの薬品の匂いだけが、この部屋に眠る人の容態の深刻さを物語っていた。


 閣下は皇族でもあらせられ、軍隊にも所属しておられましたから、毒には少なからず耐性がおありです。それでもアスタフをお受けになられては、並の人であれば既にお命はなかったでしょう……


 侍医のそんな声も、どこか別の世界のものに聞こえた。


 アスタフは世界最凶の毒物とも言われている。

 前の世界大戦であまりにも残忍な使われ方をしたので、今では製造禁止になっているはずの毒物。

 それがどうして、こんな風に使われているのか。


 ここに来る途中で衛兵長に聞いた話だと、今日襲撃に来た賊が持っていた武器などは、すべてフォーハヴァイ王国が用意したものらしかった。アスタフもあの国王が直々に賊たちに手渡したものだと聞いた。


 侍医たちからの説明を聞いて腑に落ちないことや、もっと他に方法があるのではないかと思ったことは、すべて問い正した。

 私に医療の知識はないけど、考えられる限りのことは考えて手を尽くしたかった。

 ローフェンディアの人たちも、敬愛する皇子を救いたいと願う心は同じだった。

 これがローフェンディア以外の国だったなら、私の言動は煙たがられたかもしれないけれど、それを心から受け入れてくれたのが救いだった。


 ホク王子が来てくれた。

 この人がユートレクトの受けた毒に気づくのが遅れていたら、彼の命は既になかったとも聞いていた。

 私は丁重にお礼を言ったつもりだったけど、自分がなんと言ったのかもう覚えていない。


 クラウス皇太子が来てくれたとき、リースルさまにここへ足を運んでもらえるように伝えてほしい、とお願いしたのだけは覚えている。

 クラウス皇太子は優しく頷いてくれたけど、もう一度訪ねてくれたときリースルさまの姿はなかった。


 大丈夫、アレクさえついていてくれれば、きっと目を覚ますよ……


 そう言って私を励ましてくれたクラウス皇太子もとても辛そうだったから、それ以上何も言えなかった。


 その間にも、侍医たちやローフェンディアの高官たちが、万一のときの事務処理のために私を訪れた。

 明日の『世界会議』には、永世中立国の声明を発表するまでは出席すること、センチュリアへの早馬は誰宛てに飛ばせばいいか……


 身の回りのものの処分まで私に託されていると聞いたときには、目の前が真っ暗になった。

 そんなことを聞くたびに、叫びだしそうになる心をねじ伏せた。


 私は彼の主君だから、逃げ出すことも理性を手放すこともできない。

 彼にふさわしい主君であることが、私にできる数少ないことだと思った。


 最期まで見届けないといけない……でも、最期になんて絶対にさせない。




 今まで怖くてまっすぐに見ることができなかった。

 まともに見てしまえばきっと、心がくじけて泣き出してしまうと思ったから。


 だけど、いつも視界の端で祈っていた。少しでも彼から眼を離したら、その隙に死神が降りてきてしまいそうな気がしていた。


 ようやく落ち着いて……心は全然落ち着いていないけど、彼を見守ることができると思って、その姿をまじろがず目に映した。


 白い寝具に包まれた顔が、今にもどこか遠くへ行ってしまいそうで点滴台にすがりついた。

 点滴から伸びて彼の腕に刺さる針だけが、彼を繋ぎとめる生命の糸のように思えた。


 こんなことじゃいけない、私がしっかりしなくちゃ。

 強くなるって……今度こそ自分に自信を持てるようになるって、決めたじゃない。


 私は涙を抑えると、ベッドの横の椅子に腰をおろした。


 ふと上着のポケットに目がいくと、中から紙片が覗いているのが見えた。

 夕刻、タンザ国王に土木建築のことを教わったとき、重要なことを書いてもらったものだった。


 あの後のことが胸によぎった。


 始めてあんなに感情的なところを見たこと、その後の優しけれど私を拒むような声……最後に彼の姿を眼にしたのは、ララメル女王に冷静すぎる言葉をかけている姿だった。


 そんなの……いやだ。


 このまま解り合えないままなんて、頼りなくて情けない私しか知られないままなんて……

 ううん、私のことなんかどうでもいい。誰よりもこの人がこれから幸せになるために、連れて行かないで、お願いだから。


 さっき見たときよりも彼の顔の血色が薄くなっているような気がして、喉元に黒い大きな鎌がつきつけられたような、恐ろしいけれど逃れられない何かを感じた。


 どうしたら繋ぎとめられるの、どうしたら……


 私は自分でも意識しないうちに、明日発表する永世中立国の声明を口にしていた。

 ブローラ首相からいただいた原稿に自分で考えた文面を入れたものを。


 この声明文は、自分でもよくできたと思うの。

 今までたくさんのことを教えてくれた、あんたのおかげなんだから。


 これが私の全世界的な初仕事になるのよ。

 手塩にかけた私の晴れ姿を見ないなんて、絶対に許さない。


 会議が終わったらね、賊も捕まえてくれたことだし、居酒屋でもどこでもご馳走してあげるわよ。連れて行ってくれたらね。


 その前に、私の艶やかなドレス姿を見て、驚くんじゃないわよ。

 すっごく綺麗なドレスなんだから。

 あのドレスを着た私を見たら、リースルさまじゃないけど、少しは私を見直して……


 ごめんね、リースルさま連れてこられなくて。


 ふと見ると、点滴が刺さっている方の腕が、手が、かすかに動いて、指先が宙をかいていた。

 でも、ここには私しかいない。


「ごめんね….私で」


 口をついてしまった言葉は、あれほどこらえていた涙を簡単に誘って、あたりに小さく響いた。


 彼の手に触れたのは、これが二度目だった。


 手伝いに移せるものなら、私の命を少しでもさらっていってほしいと願って、両手でその手を包んだ。

 僅かに残る体温も、これ以上持ち去られたくなかった。


 涙が命の雫になるのなら、どれだけでもあげられるほど、とめどなく頬を伝って手の甲に落ちてほどけた。


「….そんな小さな声では、大広間の末席まで聞こえんぞ」


 ほどけた涙が空気になって、聞きたくてやまない声を聞かせたのかと思った。


 けれど、涙に揺らいでいても、私の眼はしっかりと刻んでいた。

 共に歩くと約束した水色の強い瞳を。

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