言葉より3
*****
『世界羨望の頭脳の持ち主』(本人自称)の土木建築講座は、タンザ国王本人の宣言通り、とてもわかりやすくて楽しかった。
ユートレクト以外の人に何かを教わったのが久しぶりだった私にとっては、有意義な時間になった。
ただ、伝授してくださった『語呂合わせで覚える・道路建設いろはの歌』が、頭から離れなくて困ってるんだけど。
……かっかるかっぱめるけっちょ。
これだけ聞いたら、何のことかさっぱりわからないわよね。
でも、説明すると長くなるし覚えなくてもいいから、細かいこと言うのはやめとくわね。
時間もいつの間にかぎりぎりになってるし、早くリースルさまの部屋に戻らなくちゃ……っかるかっぱめるけっちょ。
まずい。
いろんなこと教わったのはいいけど、変なとこでこのフレーズ言わないように気をつけよう、と気を引き締めて歩いていると、
「楽しそうだな」
背後から聞こえた棘のある声に、楽しい気分が根こそぎ削り落とされて振り返ると、あからさまに不機嫌な顔をしたユートレクトが壁に背をもたれかけさせて立っていた。
「そ、そんなことない……よ」
「あいつと、どんな楽しいことを話していた」
え、どうして知ってるの?
もしかして、ここから見てたの?
「なにって……」
なぜか本当のことが言えなくて、口ごもってしまう……
違う、心ではわかってる。
変な意地を張って、彼に何も言わず、何も聞かずに動いたことに、少しでも後ろめたさを持っているから、だから何も言えないこと。
私が答えられないでいると、
「他人に説明できないようなことか」
いつもの怒っているときの声とは、まるで別の声だった。
私を蔑むような、けれど冷たさとも違う、どこか乱暴な感じの熱をはらんだ声だった。
それが、まるで私がタンザ国王と男女の関係を楽しんでいたみたいに聞こえて、思わずかっとなった。
「そんなことない!」
「だが俺には言えないわけだ」
時間が止まってしまったみたいに、一瞬身体が動かなくなった。
こんな言い方をされたことは、今まで一度もなかった。
いつも、いくら怒っていても、その言葉には必ず彼なりの論理があって、厳しすぎると思っても私の頭を黙って下げさせるだけの理性があった。
こんな……ただ感情にまかせて怒っているような言い方、たとえ私が悪いとしても納得できなかった。
そこまであからさまに感情をぶつけられるほど、悪いことをしたとは思えなかった。
私は思い切って口を開いた。
「言えるわよ、さっきの会議で出た『縦貫道』の建築技術のこと聞いてただけだもの」
だけど、言い終わった途端に、言わなければよかったと後悔した。
ユートレクトの表情が変わっていた。とても怖い……つい最近見たことがある顔だった。
それがいつだったか、動揺して思い出せなかったけど、私はまだその表情から、彼の気持ちを読み取ることができないのは覚えていた。
その激しい感情をあらわにした顔で私に近づいてくると、強引に私の右腕をつかんだ。
突然のことに驚いて声も出せないままでいると、私を引き寄せてそのまま早足に歩き出した。
「やっ……なにするの、離して」
「いいから来い」
その声は、いつもよりも一層低くて怖かったけれど、声の持ち主の言うなりにしてしまう力を持っていた。
さっきの言葉よりもっと強引で、ずっと……私が感じたことがないものがこめられているような気がした。
つかまれている腕が痛いくらい熱くなって、普段なら息切れするような歩調にも気が回らないくらいだった。
王宮の中は信じられないほど静まり返っていて、私たちの他には誰も歩いている人はいなかったけど、角を曲がるたびに、誰かと出会わないか気が気でなかった。
「ど……どこにいくの?」
返事はなかった。
沈黙が、腕をつかまれていることが、こんなに怖いことだとは思わなかった。
本当なら嬉しくてたまらなくて、心の内でだけでもつかの間の喜びに浸れるはずなのに、そんな気持ちは何かに……つかまれた腕をとりまく熱に封じられたかのように湧いてこなかった。
自分が何をしたせいでこんな風にされているのか、彼が何を考えているのか、まるでわからなかった。
彼の気持ちにも、目まぐるしく変わる景色にもついていけなくて、リースルさまの部屋に向かっていることがわかったのは、部屋まであと僅かのところだった。
リースルさまの部屋の前に着くと、ユートレクトは私の腕をつかんでいた手を離して、
「今日おまえたちには、別のところで寝てもらう」
腕の呪縛を解いたことで全て元に戻ったかのように、その声はいつもの冷静すぎるものになっていた。
「どうして」
「襲撃犯の主犯格と数名が既に逃亡していた。
部下どもが言うには、今夜またリースルを襲う手はずになっていたらしい。
逃亡した奴らが計画を実行しないとも限らんからな」
普通なら何も思わないはずなのに、沈黙が長かったせいか、そう答えたのがとても饒舌なように感じた。
リースルさまの部屋の扉を叩こうとする背に、私は勇気を振り絞って声をかけた。
「わ、私、何か悪いことした?
それは今までにたくさん悪いことしてるけど、ごめん、今のは……わかんないよ」
今までみたいに、自信なさげにならないように言ったつもりだった。
それに気がついてくれたのかどうかは、わからなかったけど、
「おまえは悪くない」
そうつぶやいた声は、確かに優しかったのに私が入ってくるのを拒んでいた。
******
「リースル、もう少し限度というものをお考えなさいな」
「ですけど」
「ですけど……じゃありませんわ。あなたは仮面屋じゃないんですのよ。
なんですの、ガボレット大公妃なんて、毎年のように名前を見ていますわ。
大公妃ともあろう者が、毎回毎回人さまに仮面を借りるなんて。恥ずかしいとは思わないのかしら」
ララメル女王はそう言いながら、デザートのクリームプディングをほおばった。
「ララメル、妃たちはあなたたちと違って『世界会議』に出られるわけでもなく、ずっと時間を持て余しておいでなのです。
仮面一つ忘れたくらいで、最終日の楽しみに参加していただけなくなっては、おかわいそうではありませんか」
「あなた、ガボレット大公妃が本当に仮面を忘れてきたとお思いですの?
わざとに決まっていますわ。
あの方のお国の財政は、年々厳しくなっていますもの。いっそここに来なければ、その分の旅費も浮きますのに」
ララメル女王はさっきから機嫌が悪かった。
機嫌の虫がどう動いたのかわからないけど、リースルさまの寝室で待機しているたくさんの仮面を思い出して、一言物申さずにはいられなくなったらしい。
明らかにやつあたりされている、ガボレット大公妃が気の毒だった。
リースルさまは私の方をちらっと見ると、ララメル女王に気づかれないようにため息を漏らしてから、子供に話しかけるような声でララメル女王に訊ねた。
「ララメル、デザートのおかわりはいかがですか」
「ええ、お願いしますわ。次は何かさっぱりしたものをお願いできて?」
「わかりました。アレクはどうなさいますか」
「ありがとうございます、では、ララメルと同じものをお願い致します」
リースルさまが卓上の鈴を鳴らすと、私たちに見えないところで待機していた侍女さんが現れた。
『爽やかな味と舌触りのデザートを二人分』というリースルさまのオーダーを受けると、静かに、だけど速やかに去っていった。ララメル女王が侍女さんの後ろ姿に向かって、
「いいこと、今日の夕食の費用はすべて! センチュリアの憎たらしい宰相閣下につけておいてちょうだい! リースルの分もよ!」
なんて言うからだと思う。
「ララメル、窮屈な思いをさせて申し訳ありません。ですけど、アレクもいるのですし、あまりフリッツを責めないでやってください」
「いいえ、許せませんわ!」
リースルさまが懸命になだめても、ララメル女王の怒りは収まらないようだった。
それもこれも。
「なんですの、あの全身鉄骨と岩石でできたみたいな態度!
わたくしを誰だと思っていますの、南方地域最古の国家の一つ、ファレーラ王国の女王でしてよ!
そのわたくしが、あなたを売るようなことをすると思って、リースル!?」
「いいえ、誰もそんなことは思っていません」
「でしたらなぜ、わたくしを部屋に返さないのです、失礼にも程がありますわ!」
そう。
あれからユートレクトに言われて、リースルさまと私は、今晩だけ衛兵さんたちの詰所に近い一室で休むことになったのだけど、そこにララメル女王も入れられることになったのよ。
いわく、
『ララメル女王は南方地域のお方。
どなたと接触して、どこから情報が漏れるかわかりません。
本日はもう、どこにも出歩かれませんように。身の回りのものは、こちらで用意致します』
ララメル女王はもちろん反論した。
私たちがどこで休むかなんて誰にも言わないし、それに、淑女には誰にでも、お気に入りの身の回り用品がある、せめてそれを取りに行かせてもらいたい……
この後のユートレクトの返事がよくなかった。
『身の回りのお品は、お教えいただけましたら、合鍵でお部屋に失礼してお持ちします。
もっとも人は……お部屋の前に待ち人がいてもお連れできませんが』
どうやらこれが図星だったのも手伝って、ララメル女王はしこたま自尊心を傷つけられ……今に至ってるわけよ。
まったくもう。
あんなに不機嫌だった理由も全然わからないままだし、ララメル女王はこんなだし、どうしてくれるのよ。
「アレク、あなたもあなたなのよ。あの石頭にやりたい放題させることないんですわ。
殿方というのはね、優しくすればするだけつけあがる生き物なんですのよ。女性経験の少ない殿方なら、ましてですわ」
とうとうララメル女王の矛先がこちらを向いて、私はどう返事をしたものか困ってしまった。
女性経験……ねえ。
でも、浮き名を流したことがあるんだったら、もてないこともなかったのよね、きっと……って、だ、だめよ、今は余計なこと考えちゃ。
確かに言えるのは、私にあの臣下の操縦は無理、ってこと。自信を持って『整備不可』と断言できるわ。
人間、できないものはできないと言う勇気も必要よね。
そう決意して、私が口を開こうとしたときだった。
「ララメル、またそんなことをおっしゃって。女性経験の多さ少なさなど、関係ありませんわ。問題なのは、相手を思いやる気持ちです。
アレクがフリッツの個性を認めてくださっているから、彼も自分の才覚を余すところなく発揮できているのです」
あの、リースルさま。
認めてるというよりも、有無を言わせてもらえてない感じなんですけど。
「才覚ですって!?
わたくしを運命の殿方かもしれない方から引き離すことの、何が才覚だとおっしゃるの?
あの朴念仁が浮き名を流したことがあるなんて、わたくし、絶対に信じませんわ。
男女の逢瀬をこんな形で潰すなんて、女に縁のない男のやっかみですわ!」
ララメル女王が悔しがると、リースルさまの澄んだ瞳にじんわりと涙が滲んだ。
「ララメル……ごめんなさい、わたくしが至らないばかりに、命を狙われて、あなたやアレクにご迷惑をおかけして……わたくしなんて、嫌われても当然です」
「な、何をおっしゃるの、リースル、嫌うだなんて。わたくしとあなたの仲じゃありませんか」
突然のリースルさまの涙に私も動揺したけれど、ララメル女王は自分が泣かせたと思ったのか、おろおろして、
「あなたは何も悪くありませんわ。悪いのは、あなたの不出来な義理の弟ですのよ。ですから、どうか泣かないで」
「フリッツのことを、悪く言わないでくださいまし……」
「わ、わかりましたわ、今日のところは、あなたに免じて許してやりますわ」
リースルさまの顔が、信じられなくらいぱっと明るくなった。
「ありがとうございます、ララメル。わたくしたち、これからもお友達ですわね?」
「当たり前じゃありませんか。さあ、涙をお拭きになって」
その様子を見守っていた、『爽やかな味と舌触りのデザート』を持ってきた侍女さんが、なぜか顔をこわばらせたような気がしたのでリースルさまを見ると。
リースルさまは、ララメル女王から借りたハンカチーフの下から、私に怖いくらい無垢な微笑みを向けていた。
この可憐で慎ましい女性が、クラウス皇太子のお妃さまに選ばれた理由を知ってしまった気がして、私は心の中でがっくりと肩を落としたのだった。
*******
食事が終わり、湯浴みなどを済ませると、私たちは衛兵さんたちに守られながら部屋を移動した。
「約束の時間ですわ……」
夜も更けていたので、部屋の灯りを消して横になっていたのだけど、ララメル女王はなかなか寝つけないのか、身体を起こして壁にかかった時計を嘆きに暮れた目で見ると、ベッドの上で悲しげな息を漏らした。
「初めてでしたのに……北方地域の殿方と懇意にするのは。ようやくここまでの仲になれましたのに……」
「あなたならまたいい殿方が見つかります、ララメル。そんなに気を落とさないで」
さめざめと泣くララメル女王を、リースルさまが身を起こして優しく慰めたので、私もベッドから起きあがった。
すると、ララメル女王は私の方を恨めしそうに見て、
「アレク……あなたの宰相は、ほんっとうに人でなしですわ。
北方地域の奥ゆかしい殿方と親密になるのが、どれだけ大変なことか、ご存知ないんですわ」
「申し訳ありません、ララメル。よく言い聞かせておきます」
「本当なら今頃、北方地域の方特有の逞しい身体と、澄んだ瞳と、高くてすっきりとした鼻梁を目の当たりにして、息が詰まるほどのときめきを覚えているはずでしたのに!
それをあの、書物と算盤だけが恋人の謹厳大王は……!」
ララメル女王の怒りはいまだに収まってない。
そんなに北方地域の殿方って、奥ゆかしくて魅力的なのかしら。お話したことないからさっぱりわからないけど。
にしても、書物と算盤だけが恋人って……
当たってないこともないから思わず笑ってしまって、私はララメル女王に睨まれてしまった。
「何がおかしいんですの、アレク。あなたはホク王子がいると思って、そんな悠長にしていられると思ったら、大間違いですわ。
ホク王子は他の国の貴婦人たちにも人気がおありなんですから。ぼやーっとしていたらかすめ取られてしまいますわよ」
「いえ、そんな、ホク王子を独占しているつもりなど……」
私がどう答えていいかわからず、ごにょごにょと口元でつぶやいていると、リースルさまが、
「まあララメル、アレクがホク王子のもののように、おっしゃらないでくださいまし。
アレクには、フリッツをもらっていただかなくてはならないんです。
それからララメル、くれぐれもホク王子にアレクの仮面を教えたりなさらないでくださいましね」
前半部分は置いておくとして、私の心配していたことを、無邪気な微笑みを浮かべながらすぱっとおっしゃった。
ララメル女王は絶対隠し事ができない性格だと思う。
リースルさまの言葉を聞くと、しばらくの間動きが止まってしまった。
なんてことかしら、危ないったらありゃしないわ。
「そ、そそんなこと、しませんわ、しないに決まってるじゃありませんか。
き、昨日は、ホク王子に引き合わせ損ねましたけど、だからといって、アレクの仮面をホク王子に教えるのと引き換えに、ホーンアイル公爵との一夜を手にしたなんて、あ、あってはならないことですもの」
ララメル女王、やっぱりそんなこと企んでたのね。
ていうか、ホーンアイル公爵ってどなたですか?
「ララメル、やはりそのつもりだったのですね!
ホーンアイル公爵といえば、北方地域最大の貴族のお一人ではありませんか。まさか、その方との逢瀬が……」
リースルさまの言葉で謎が解けると、ララメル女王はまた涙目で私とリースルさまを見て、
「そうですわ、今日、今まさにこの瞬間だったのですわ!」
そう叫ぶと、また泣き崩れてしまった。
私とリースルさまは顔を見合わせると、どちらともなく首を振ってため息をついた。
ララメル女王は眼を真っ赤にはらしながら枕をわっしとつかむと、その枕が特定の何かであるかのように、両手にむぎゅうううっと力をこめて枕を潰しにかかった。
「あの謹厳魔王……愛も潤いもない、藁のようにすかすかの心の、慇懃無礼で紙と鉛筆の世界しか愛せない男……断じて許してはおけませんわ」
「ララメル、なんてことをおっしゃるのです! 愛も潤いもないだなんて。
そんなことありませんわ、フリッツは確かにアレクに好意を持っているのです」
リースルさま、だからどうしてそういう方向に話を……と私が頭を抱えたときだった。
外から扉が叩かれる音がして、私たちの間に緊張が走った。
私が誰何の声をかけると、先刻私たちをここへ連れてきてくれた衛兵さんの声がして、リースルさまに話があると告げたのだけど、まずは私が応対に出ることにした。
私は小さく扉を開くと、確かに見知った衛兵さんだったのでほっとしたのもつかの間、その顔には血の色が薄かった。
「これは……アレクセーリナ女王陛下でいらっしゃいますか!」
「そうです、どうしました、何かあったのですか?」
悲痛な衛兵さんの声に、私の声も少し動揺したものになった。
「センチュリア王国からお越しなのは、陛下と宰相閣下だけとお聞きしておりますが、本当に他にどなたもおられないのですか?」
その問いかけに、いやな予感が渦を巻いて私の心を支配した。
確かに、センチュリアから『世界会議』に来ているのは、私とユートレクトしかいない。
「どうしたのです、何があったのですか。落ち着いて報告なさい」
リースルさまがいつの間にかベッドから起き出して、私の後ろに立っていた。
その清らかで落ち着いた声が、私を少し冷静にしてくれたと思った途端、
「ユートレクト……宰相閣下が、意識不明の重症を負われました!」




