女王の椅子3*
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ユートレクトの声だけが聞こえない、顔だけが見えない。
ありえないことだった。
でも、そんな変なことが本当に……あったのよ。
自分でも信じられなかったけど。
正確には、顔は『見えない』のではなく、『見ることができない』だった。
このときは全然自覚がなかったのだけど、ユートレクトの顔に目をやろうとしても、頭が上がっていなかったみたい。
下から覗き込まれると、首が勝手に横を向いていたらしかった。
その証拠に、他の人に呼ばれたときには顔も上げられたし、振り返ることもできた。
今、冷静に考えると、ユートレクトと目が合いそうになると、大きな蛇が胃から食堂を通って、口の中から出てきそうな気分になったような気がする。例えが悪いけど。
本当にこのときのことは、自分でも自覚がないのであんまり覚えてないの。
ユートレクトに無理やり連れて行かれた医務室で、
「大分お疲れのようですね。しばらくの間、公務はお休みされた方がよろしいでしょう」
主治医の診断を受けて、私はしばらくの間公務を休むことになった。主治医の声はもちろん聞こえた。
「え、で、でも、私、本当に……どうしてですか!?
ユートレクトの声、だけが、き、聞こえてないって、そんなことが……ど、どうして……」
たどたどしい自分の声も、ちゃんと聞こえていた。
言いながらも、横に立っているユートレクトにとても申し訳ない気持ちと、こんなことになって後ですごく怒られるんじゃないかという不安で一杯になって、頭の中がぐらぐらと回り始めた。
「大丈夫ですよ、ただの過労ですから。たまにあることです。養生なされば、じきによくなりますよ」
「は、はい……わかりました……ご、ごめんなさい、ユートレクト……」
診療椅子に座っていた私は、横にいるユートレクトにちらっと視線を向けたつもりだったけれど、もちろん顔は見られなかった。
「 」
彼の声も聞こえなかった。
顔も見られないから、何か言っているのか、何も言ってないのかもわからなかったけど。
何も聞こえないのが、自分では本当に不思議だったから、何も言ってくれてないのかと思って……
そんなに怒ってるのかと思うと、なんだかもう、わけがわからなくなってきて、
「ご、ごめんなさい、ほん……とうに、ごめんな、さい……!」
私はいつの間にか泣いていた。
彼の前でだけは、絶対泣きたくなかったのに。
弱いと思われているに違いないから、どんなに怒られても、ばかにされても、けなされても、彼の前では絶対に泣かない!
そう思っていたのに。
ああ、これでもう私は見放される。
完全にばかだと思われて、軽蔑される。
女王として認めてもらえることは、もうないんだ。
いっそのこと、彼がセンチュリアの国王になればいいのに。
そうすれば、私は彼と離れられる、もう苦しむこともないんだ……
そんな思いがどんどん湧いてきて、涙が止まらなくなった。
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それから、ベッドから起きられない日が何日も続いた。
目が覚めると頭が痛くて、痛みを忘れるために薬を飲んでまた眠って……また目覚めると、まだ頭が痛む。
どんなに薬を飲んでも眠っても、頭痛は治まってくれなかった。
どのくらい経ったときからだったかな……
目が覚めると時々、誰かが私のベッドのそばに腰かけて、何かを読んでいることがあるようになった。
ここは私の私室。
仮にも女王の私室に、簡単に入れる人間はそういない。
だけど、いつもそれが誰かを確認するより先に、私室の扉が大きく開かれたままになっているのが目に入って、それに安心して、また目を閉じていた。
扉が開け放ってあるなら、襲われる心配はないと思ったから。
複数の人たちの小さい声が聞こえることもあった。
何か相談ごとをしているみたいだけど、私のことかと思うと、ちゃんと聞く勇気がなくてまた目を閉じていた。
夢の中でなら、いやな自分はいなくなれたから、あのときはずうっと眠っていたかった。
自分ではそんなに悪い人間じゃないと思うのだけど、彼にあんなに言われる自分は、きっと他の人たちにもそんなによくは思われてない。
街にいた頃の友達や食堂の人たちだって、こんな私、嫌いだったのかも。
ぺらぺらしゃべるだけしか取り柄のない、うるさくて、生意気で、全然女の子らしくない私なんて。
起きていると、そんな気持ちがぐるぐる回って、自分がとても嫌いになっていた。
あのころの私は、こんなことだけしか考えられなかった。
それでも、私の周りの時間は確実に過ぎていて。
私が臥せってから一か月くらい経ったときだったかな。
目が覚めると、まだ目が開かないうちに、誰かが私の手を握っているのを感じた。
女の人の手ではなかった。
力強くて、でも優しくて、暖かくて……間違いなく男の人の感触だった。
私は目を開けられなかった。
私なんかの手を、こんなに優しく握ってくれる男の人なんて、宮中にはもちろん、街にいた頃の知り合いの中にもいないから。
「……起きたのか?」
私が目覚めたことを感づいたのか、その人は言った。
でも、目は開けられなかった。
寝顔を見られていたと思うと恥ずかしいのと……なによりも怖かった。
私は寝たふりをして、顔を反対側に向けた。
「おやすみ……」
そうつぶやいた声がとても寂しそうで、反応してあげなかったことが、すごく悪いことのように思えた。
だけど、どうしても怖くて目は開けられなかった。
そうしたら、その人に申し訳ない気持ちがこみあげてきて、涙が出てきてしまった。
涙は、私の閉じているまぶたからあふれ出して、顔を伝って枕を濡らした。
まだそばにいるらしいその人に涙が見えないように、必死で顔をそむけた。
つもりだったのに。
気づかれていたんだと思う。
その人は私の手を離すと、私の頭を優しくて大きな手でゆっくりと、何度も何度もなでた。
早く立ち去ってほしかった。
申し訳なくて、胸が潰れそうで、一人にして欲しかった。
でも、その手は信じられないくらい優しかった。
「すまない」
どうしても目を開けるのが怖かったのは、もうわかっていたから。
私のベッドのかたわらで、書類に目を通していた。
そんなときに、部下からの報告があると小声で応えていた。
私の耳はもう聞き取っていた。
今まで聞いたこともないほど低くて、でもとても痛々しいユートレクトの声が胸に響いて、涙が止まらなかった。
私は勇気を出して目を開けて、涙を手でぬぐうと頭を彼の方に向けた。
ぬぐってもぬぐっても涙が止まらなくて、彼の表情がよく見えなかった。
私の頭をなでていた彼の手が止まった。
「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……!」
私は泣きじゃくりながら何度も繰り返した。
「謝るな、おまえは悪くない。もう何も言うな」
彼の手がまた私の頭をなでた。
言葉はぶっきらぼうだったけど、とても優しい口調だったことに安心した。
「もう一度だけ……共に歩ませてくれないか」
言葉の意味がわからなかった。
とりあえず、今は怒られないのかなと思った。
「今回のこと、許されようとは思わない。
だが、俺はおまえを救いたい。
俺を打ち負かしたのはおまえしかいない。
だから俺はおまえと共に、この国を世界一、民が笑って暮らせる国にしたい」
私を救いたい? 私と一緒に……?
もう、私の面倒なんて、見たくないんじゃなかったの?
こんな七つも年下の小娘が、たった一度だけあなたを負かしただけで、縛りつけられて。
こんな、どうしようもないばかなんて。
早くこの国から、出ていきたいんじゃなかったの?
あなたが近づきたかったのは、私じゃなくて姉上でしょう?
私なんて……私は……
色々な思いが次から次に頭を駆けめぐって、彼の言葉がわからなかった。
「私なんか、いらないんじゃないの……?」
泣きじゃくって痛む喉から、やっとこれだけ絞り出した。
今の気持ちを全部話したら、きっと、ぐちぐち言うなって怒られてしまうと思った。
視界が暗くなった。
抱きしめられたわけじゃなかった。
恋愛感情でのことじゃないことも。
ただ、私の頬に胸のボタンがかすかに触れるくらいに、彼の身体が優しく覆いかぶさった。
ずっと頭をなでながら。
言葉にしないと気持ちは伝わらない、わかり合えないと思っていたけど、このときは、私にもユートレクトにも言葉はいらなかった。
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あの日から、私の病状は急激によくなっていった。
あの……今思えば、かなり恥ずかしい体勢のままでユートレクトと話したことが、私の不安を取り除いてくれたから。
「俺はおまえを、嫌いとも疎ましいとも思っていないし、あほうだとも思っていない」
しばらくの沈黙の後、頭の後ろで低い声がした。
言葉は優しくないけど、彼なりに私をとても気遣ってくれているのがわかった。
「おまえは、俺が何か言うとき、いつも脅えたような目をしている」
心がちくっと痛んだ。本当のことだったから。
「俺は……そんなに怖いか?」
私は迷ったけど、正直に言うことにした。
「はい……私は、あなたの言葉が怖いです。
いつ私がよくない判断をして、ご迷惑をかけるか思うと……」
「その丁寧な言葉遣いもやめろ。
俺はおまえの臣下だ。他の臣下と同じように、俺にも接すればいいだろう」
「あ……」
私の心が反応するのは、ユートレクトのこんな言葉だった。やめろといわれると、
『ごめんなさい、かえって迷惑だったみたいで……』
と思ってしまうの。
もし、私がユートレクトと同じ立場で、小国の王様に丁寧な言葉で話しかけられたら、
『お気遣い、まことに恐れ入ります。
ですが、私はもはや陛下の臣下でございます。他の方々と同様に扱っていただければと存じます』
とかいう風に答えると思う。
だから、ユートレクトの言葉の端々が気になってしまって……
ああ、私って本当にどうでもいいことを気にしてしまうんだなあ、とまた自己嫌悪してしまった。
「あ、はい、じゃない……うん、わか……わかったわ」
でも、突然言われても口がついてこなくて、おろおろしながら答えた。
それを面白がっているのかいないのか、ユートレクトがいたずらっぽく訊いてきた。
「おまえにも、俺が完璧な人間に見えるか?」
いきなり、何を言うのだろうと私はうろたえた。
「そ、それは……あたりまえ、じゃない。世界中のみんなが、一目置いているんだもの」
そう。
そんな人が私のところにいるのが本当に奇跡だった。
後悔はしていなかった。本当にすごい人だから。
彼が色々な改革をしてから、センチュリアの施政は安定したものになった。
経済状況も、私と重臣たちで頑張っていたときの二倍近くも回復した。
「俺が完璧な人間だったら、おまえをこんな目に遭わせなかった。完璧でもなければ人格者でもない。知らないこともまだ多い。失敗もする……まあ稀にだかな」
最後の一言が冗談ではなく、本気で言っていることがわかったので思わず吹き出した。
でも、同時にそれほど自分に自信を持てるのが羨ましいなと思った。
「何がおかしい」
「羨ましいなあと思って。そんなに自分に自信が持てるなんて。私も、自分に自信を持てるようになりたい」
私は本心を言った。
「持てるようになりたい、ではない。
今すぐ持て。
いいか、これは絶対だ」
ユートレクトの口調が厳しくなった。
「君主が自分に自信を持てないということは、自分の治める国や民に対して、自信を持てない、信頼をおけない、と言っているのと同じことだ。
それは、国や民に対する侮辱以外の何物でもない。
もし、おまえが信じて身を任せている人間に、おまえが信じられていないとしたらどう思う。そんな人間に、身を預けられるか?」
その言葉は厳しいものだったけど、口調は今までのように皮肉めいてもいなかったし、怖くもなかった。
私が今まで心に受けた小さな傷やささっている刺を、すべて払い落とす力がこめられていた。
私の身体と心は、もう私だけのものじゃなかった。
私はたくさんの人たちの生活を預かっているんだから。
「わかった……」
違うからね、と自分に言い聞かせた。
口にするのはごめんなさいじゃないからね、と。
「ありがとう、ユートレクト」
ようやく、ユートレクトが、私から身体を上げた。
そのときの笑顔は、今までに見たことがない澄んだ穏やかなものだった。
「それでいい」
ほんの一瞬でも、かっこいいなと思ってしまったくらい。
「そうだ、今度城下を案内しろ。まだまともに街を見ていなかった。
他の奴に頼むより、おまえに頼んだ方が何かと知っていそうだしな」
「え、私が街をうろうろしてもいいの?」
「わざとらしく聞くな。どうせおまえのことだ、たびたびお忍びでどこかに出かけていたのではないか?」
予測は見事に当たっていた。
「い、いいわ、頼まれてあげる。
安くてとびきり美味しい、センチュリア名物料理のお店に連れて行ってあげるからね!」
昼下がりの日ざしが窓から柔らかく入ってきて、部屋を優しく照らしていた。
あのとき彼と過ごした時間が、彼からもらった言葉たちが、私の女王の椅子を護る剣と盾になっている。
……あたりを見渡せば、いつの間にか『世界会議』の開会式は終わっていた。
世界の首脳たちは、それぞれが担当している議題の会議に出席するため、散り散りになりつつあった。
開会式、回想に浸ってて全然話を聞いてなかったなんて、口が裂けても言えない。内緒にしていてね。
私とユートレクトも開会式が終わった会場を後にした。
これからが、長い長い『世界会議』の本番だった。
2019.12.12.センチュリアの人口をふわっとさせてもらいました。(ふわっと、ってどんな表現)
この世界設定でどのくらいの人口が適当なのか、判断に迷ったためです。申し訳ありませんが、皆さまのご想像にお任せしたいと思います。
2020.6.16.一部表現を改訂(削除)しました。