指先の距離2
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まだ食欲旺盛な宰相閣下は置いといて……
自称子羊のようにおとなしくベッドに入ったものの、全身が暖炉になったみたいに熱を持っていた。
心臓もここぞとばかりに余分な脂肪を燃やすかのように、ばくばく音をたてて猛稼動している。
そうして身体のあちこちから自分の音がやかましいくらい聞こえているのに、私の耳はこの部屋の主が出す音を逃すことなく捉えていた。
……ただ今宰相閣下は、ようやく折詰を完全制覇してその蓋を閉じました。
昼ご飯抜きだったとはいえ、三、四人分はあったのに大した食欲です。
そして、洗面所に向かいました。
私の歯ブラシは洗面所の端っこに置いておいたのですが、それでよかったのでしょうか、ささやかにですが謎です。
規則正しい音が聞こえてきます。かなり丁寧に歯を磨いているようです。歯を磨きながら……またこちらに戻ってきました。
「おい、そんなかいこの繭みたいになって、息ができるのか」
カイコノマユ?
「それで眠れるなら構わんが……」
歯ブラシをくわえながら話しているらしく、くぐもった声で言うとまた洗面所に戻っていきました。
かいこの繭とはどうやら私のことだったようです。白いデュベを頭からひっかぶって丸くなっているのを見て、そう形容したのでしょう。『太った白羊』じゃなくてよかったです。
ここは『大丈夫、これでぐっすり安眠よ!』と言っておくべきでしょうか。
ですが、洗面所にいる人にわざわざ大声をあげて主張することでもないと思うので、とりあえず沈黙しておくことにしましょう。
歯を磨き終わったら、後は横になるだけよね。
夢じゃないわよね、これは残念ながら現実よね。
いっそのこと、どこかで騒ぎが起きて、奴が駆り出されるような事態になってくれないかしら……って何考えてるのよ私ったら。
不謹慎なことを考えてしまう自分に、正義の拳を心の中で食らわせていると。
灯りが落ちた。
ベッドの反対側からデュベが引かれて、スプリングが軋むと同時に、私の心は現実を突き立てられて悲鳴をあげた。
そう、こんなことで動揺しちゃいけない、自分の立場を忘れちゃいけないんだ。
私はこの人の主君、それ以外の何者でもない。
それ以外のものになりたいなんて思えない。
思っちゃいけないんだから。
後で辛くなるのは、こんなこと経験したことない私でもわかるから、感情のままに心を動かすのはやめなくちゃ。
だけど、わかってるつもりでも、平静でいられるのにも限界があるよ、こんな……
こんなこと、今までの人生で初めてなんだもの。
夢見るだけでも、一人で幸せなだけでもいけませんか……?
祈りが雫になって頬を伝い、寝具を濡らした。
声が漏れないように懸命に堪えた。
泣いていると知れたら、疲れて横になっている人に迷惑をかけてしまうかもしれない。
どうして泣いているのかと聞かれたら、もっと困ってしまう。
納得してもらえる嘘をつかなくちゃ……
声をかけられたのは、泣き出してからすぐだった。
「どうした」
暗がりの中でも響く低い声はいつもよりかすれていたけど、媚薬のように心に溶けて身体中に浸透していった。
どうしてこの人は、こんなに何でも気がついてしまうんだろう。もっと鈍感だったらよかったのに。
心のたかぶりと泣き声になるのを抑えることができそうになくて、私は言葉を返すことができなかった。
「……怖かったのか」
その問いかけの意味がわからなくて、ぐちゃぐちゃな頭の中で効率悪く考えると、賊の皆さんに乱暴されたことかと思い当たった。
私はユートレクトに背を向けてデュベから頭を出すと、首を横にふった。
この人にはどうしても嘘がつけなかった。つきたくなかった。
「何が悲しい」
「……悲しくないよ」
私はようやく普通に近い声を出すことができた。
「なんでもないよ、ごめんね起こしちゃって。おやすみなさい」
できるだけ明るくそう言って、また顔をうずめようとしたとき、寝具から出ている右肩をつかまれて引き倒された。
視界の中に薄暗い天井と……上半身を起こしたユートレクトの姿があった。
「今日、本当は何があった。俺に隠していることがあるのではないか?」
眼が暗闇に慣れてきたのか、暗い中でもその表情が見てとれた。
怒っているようにも見えるけど、真剣なまなざしにはいつもとは違う温度があって、その温かさに包まれたい気持ちを抑えることができなかった。
ごめんなさい、思うことだけは許して……
涙があふれてきて止まらなくなった。また首を横に振ることしかできなくなった。
「話したくないならそれでもいい、だが覚えておけ。俺はおまえに隠しているものは何もない」
それを聞いて、うそつきと思ったとき、ひそやかな甘い感情にたゆたっていた私の心に、僅かな亀裂が入った。
でも……もしかしたら知っているの? リースルさまのこと、私が気がついているの。
そうかもしれない、と思った。
今夜は感情が痛いくらいに研ぎ澄まされていて、この直感は当たっているような気がした。
「互いのことを知らなくては、長い道程共には歩けない。俺はその覚悟でおまえと共にある。
おまえには俺と同じ覚悟はあるのか」
覚悟、と聞いて私はまた心が弱く震えるのを感じた。
その覚悟はもちろんできている。
後は私の気持ちの整理だけ。これだけは、手伝ってもらうわけにはいかないから。
私は両手で目をこすると、涙を瞳の裏側に閉じ込めた。
まだ泣き声だったけど返事をせずにはいられなかった。
「あるよ。ずっと……一緒に、いて、もらわないと困る、んだから」
「それならいい」
そうつぶやくと、ユートレクトはまた身体をベッドに横たえた。
スプリングの振動が全身に伝わって、私はまた鼓動が早くなるのを感じた。
「無理にとは言わん、だが俺の扉は既に開いている。覚えておけ」
主君と臣下の関係で構わない。
『扉』を……心を開けてくれているのなら、飛び込めるところだけでも飛び込んで、受け止めてもらおう思った。
今はまだ言えないけど、私もこんな風に言えるほど強くなりたい……ううん、絶対に胸を張って言えるようになってみせる。約束したもの、あのとき。
「ありがとう」
この言葉にどれだけの思いをこめたかも、届かなくていい。
「休めなくても眼は閉じておけ、それだけでもずいぶん疲労の回復は違うからな」
「うん……疲れてるのに本当にごめんね、起こして。おやすみなさい、また明日」
「ああ」
その声に迷わされて、助けられて私はここにいる。
しばらくすると、右側からかすかな寝息が聞こえてきて、私はようやく落ち着いた気持ちで一人になったような気がした。
さっき引き倒された仰向けのままだったから、最初にベッドに入ったときよりも二人の距離は近くなっていた。
落ち着いたと言いながらも、どうしても好奇心が抑えられなくて、首だけを倒して右側を見た。
意地を張ってずっと認めなかったけど、ローフェンディア皇族服なんて着なくても十分端正な顔がこちらを向いて眠っているのに、私は今日何度目か数えられない頬のほてりを感じた。
睫毛が思っていたより長いこと、寝顔の方が少し若く見えることに気がついて、恥ずかしくなってまた天井を見上げた。暗がりに慣れた眼を呪うより、自分の気持ちを呪った方がいいのかもしれなかった。
両手をずっと顔のあたりに置いていたせいで曲げていた腕が痛くなってきて、両腕を軽く開いてベッドに横たえると、右手の指先が何かに触れた。
ユートレクトの左手だった。
私の指が触れても何も反応せずにそのまま眠っている。
気がつかないなら、このままでもいいよね……?
指先から感じる温もりがまた心がたかぶらせるのに困りながらも、私はその手から離れることができなかった。
心のたかぶりが時間の魔法でおさまってきて、さすがに私もうとうとしかけたときだった。
右手の指先が何かに包まれたような気がして、眠気がいっぺんに吹き飛んでしまった。
耳を澄まさなくても、となりから寝息が聞こえないのがわかった。
ユートレクトが私の指先を優しく握っていた。