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指先の距離1



「それがどうした」


 どうしたもこうしたもないわよ!


 あああああんた、うら若き未婚の女性を、こともあろうにおのれの寝室に連れ込むってどういう料簡よ。


 わかってる、そんな色っぽいこと微塵も考えてないことくらいは。


 どうせ私を自分の寝室に連れてきたのだって、安全面で私を保護するという理由も、もちろんあるだろうけど。

 でもなによりね、今日の会議のことと賊の皆さんに捕まったときのことを、疲れているから『あとは寝るだけ』の状態で落ち着いて聞きたいだけなのよ。そういう卑怯な奴よこいつは。

 ベッドだってこれだけ大きかったら、お互い端っこに寝ていれば一人で寝ているのと大して変わらないだろうし。


 え、そこは女王たる私にベッドを譲って、ユートレクトは床とかソファで寝るんじゃないかって?


 うーん、それはないと思うわ。奴が自分の部屋のベッドを他人に、まして私に譲るなんて。

 どんなに忙しいときでも、寝るときは仮眠室のベッドで横になっていたから、ソファとかでは眠れないんじゃないかと思うのよね。前にもちらっとそんなこと言ってたし。あれでよく軍人稼業が勤められたもんだわ。


 それに、奴くらいの年にもなれば、その……いろいろな欲だってある程度落ち着いていらっしゃるでしょうし、大体、私でそういう気がかきたてられるとも思えない。


 冗談じゃないわよね、こっちはさっぱり落ち着かないわ。私の気持ちなんてこれっぽっちも考えてないんだから。

 まあ、考えられても、それはそれで困るんだけど。


 ……これだけのことを考えてようやくわれを取り戻した私は、聞こえないように息を吐き出すとできるだけ落ち着いた声で言った。


「あのね、一応常識を言っておくけど、未婚の女性を自分の寝室に入れるのはどうかと思うわよ」


 このくらいの言葉が脅しにならないことは予想してたけど、ユートレクトの反応はやっぱり冷静なものだった。


「一応、と言っているところからすると、俺の考えていることはわかっているということだな。それならば何も言うことはない」


 そう言うと、浴場の脱衣場に置いてあったらしいバスタオルを手に取って私に投げつけてきた。


「鍵をかけて出る。誰かがノックをしても絶対に出るな」

「わかった」

「早く湯を浴びてこい。少しでも睡眠時間を摂らなくては、明日の会議、身がもたないぞ」

「うん……ありがとう」


 このシチュエーションでさえなかったら完全に正論なことを言い残して、困った宰相閣下は部屋を出て行った。


 これは……まごまごして、奴が着替えを持ってきてくれるまでに浴場に入っていなかったら、『あれだけさっさと入れと言ったのに、なぜ入っていないのだ。余計なことを考えて時間を無駄にするな』って、雷が落ちるに違いないわ。


 『余計なこと』っていうのは、『この浴場は私が使った後、奴が入るのかしら。だとしたら使うの恥ずかしいわ』とか、『もし私が入っているときに覗かれたりしたらどうしよう』とか……そういうことよ。


 私は脱衣場に駆け込むと、色気の欠片もなく服を脱いだ。




 浴場から出ると、『ここ』と言っていた小さなテーブルに着替えが置いてあった。

 その中には綺麗なポーチに入った下着もあって、湯浴みあがりの私の顔を一層赤くさせた。


 もちろん奴が厳選したものじゃない……はず。

 (当たり前よ、もしそうだったら、いくら私でも許さないわ)

 王宮にはたくさんの侍従・侍女がいる。そういう人に頼めば、これくらいちゃっちゃと用意してくれるのよ。いつ何があるかわからないからね。


 そう、こんな風に、いつ何時『皇子さま』が女性を連れ込んでもいいように……


 あああああああ……もう!


 私、知らないからね、あんた担当の侍女さんたちに、どんな風に思われたって知らないんだから。


 ユートレクトを呼んでみたけど、返事はなかった。

 もう市街地に戻ったのね、風邪ひかないといいけど。


 手早く着替えを済ませて(下着や寝巻きのサイズがぴったりだったことには、この際気づかなかったことにする)バスタオルで髪を拭きながら脱衣場を出ると、私は広い部屋の中でどこに落ち着いたらいいかわからず、しばらくあたりをうろうろしようとして……やめた。


 あんまりうろうろすると、あちこちに目がいってしまいそうだったから。

 目がいくと、記憶に残りそうなくらいあれこれ見てしまいそうで、それが怖かった。


 気晴らしに外の景色でも見ていようかとも思ったけど、窓際に行くまでには、奴になじみの深いものがたくさん置いてある『机障害』がある。

 それに引っかからず窓際にたどり着くには、この空間はあまりに優しすぎて障害を無視できそうになかった。


 普通の乙女だったら、プライバシーの侵害にならない範囲でいろいろ拝見して心をときめかせることもできるのに。

 でも、私が『普通』だったらこうして出会うこともなかった……


 出会ってしまったことと出会わないで済んだかもしれないこと、どちらが幸せなんだろうと考えると、出会ったことが幸せなんだろうと思う。

 たとえその結果が幸せではないとしても、今に感謝したい。


 白と灰色を基調にしたこの寝室は、照明も暖かい落ち着いた色で、外の豪雨が嘘のように静かだった。

 だけど、今日もまた厄日のようにいろいろあった私の心は、落ち着くどころか余計にたかぶっている。


 この状況で、仮眠を摂れという方が間違ってると思う。


 寝るにしても、本当に私はこのベッドで寝るのかしら。

 横にあるソファで眠っちゃだめなのかしら。だめなんだろうなあ。


『おまえは俺の言うことを聞いていなかったのか。俺はここで寝ろといったはずだ。

 そんなところで寝て、かえって疲れを溜めてどうするのだ。

 何のためにここに連れてきたと思っているのだ、たわけが』


 こんな声が聞こえてきそうだもの。


 『俺の考えていることはわかっているということだな』と言われたとき、また心が躍るのを感じた。


 多分わかってると思う。

 特に『世界会議』に入ってからは、距離が縮まったような気がしている。一方的な思い込みだけど。


 私は湯浴みともろもろのことでぼーっとしている頭を振った。

 考えてもきりがないことを考えるよりは、とりあえず明日のことを考えた方がいい。


 自分から男性のベッドに潜り込むなんて、はしたないことだとわかっているけど、それも相手によりけりよ。

 ソファで寝てるところを怒られながら叩き起こされるよりも、寝覚めのいい方を選んでいいわよね。


 私は禁断の領域に挑む決意をして巨大なベッドに近づくと、デュベをめくって……何十回か深呼吸をしてから中に潜りこんだ。



**



 ユートレクトのベッドに入ってからしばらくの間、私は息を止めていた。

 ベッドの中で呼吸をした瞬間、感情を揺さぶる匂いがしたら困ると思ったから。


 例えば女性なら、石鹸や湯船に浮かべた花弁や果実の移り香、寝る前にふった香水の匂いなんかが寝具に移ったりするわよね。

 男の人はどうなんだろうと思って。


 男の人とこんな事態になったことがない私には、それがわからなかったから、心臓がものすごい音をたてて動くのを自力で止めることができなかった。


 けど、さすがに長い間息を止めているのは苦しくて、私は少しずつ息を吐いて……吸って、安心した。

 ここが一般庶民じゃなくて『皇子さま』の寝室ということを忘れてたわ。

 毎日清潔な寝具に変えられているはずだもの、そこで眠っていた人の匂いがするわけないじゃない。


 肌に触れる寝巻きも寝具も、とても心地よかった。

 それを感じるにつれて、疲れきった身体と心がほぐれていくようだった。

 今日一日のことが頭の中を回り出したけど、それもなんだか遠くで起こったことみたいに思えてきた。


 いつもだったら、あれだけのことが起きたら頭が痛くなって眠れなくなっていてもおかしくないのに、今は不思議と心が凪いでいた。


 理由はもうはっきりしているような気がした。

 この部屋にいること。

 そのことで感情が妙な方に向いていて、今日の自分の行動をいい意味で前向きに見ることができているのかな、と思う。


 ペトロルチカ代表の影武者のことも、もしかしたら私に原因があるのかもしれないけど、私がここで悔やんでも残念だけど亡くなった人は帰ってはこない。

 もしこのことで私の命が狙われたり、中傷めいたことを言われたりしても、それは私の責任だから潔く受け入れなくちゃいけない。

 だけど死ぬわけにはいかないし、国の存亡に関わることになったら、黙って受け容れるわけにはいかない。


 賊の皆さんにひどい目に遭わされたことも、思い出すと怖かったけど、最後には宴会(アルコール抜きだけど)までする仲になれたからよかったと思う。

 ユートレクトにはこてんぱんに怒られたけどね。

 でも、その怒り方だって、私のしたことを本当に悪いことだと思ってる怒り方じゃなかった。

 だから私も怖気づいたりしなかった。


 本当にあのみんなを助けられてよかった……


 そんなことを考えているうちに疲れが出てきたのか、天井の豪華な装飾が視界の中でゆらゆらと揺らぎ始めた。

 絶対に寝顔は見られたくないから、帰ってきたときの物音で起きられますように……そう心でつぶやきながら、私はデュベを無理やり顔まで引き上げると眼を閉じた。




 どのくらいそうやって眠っていたんだろう。


 扉が開いたり閉まったりする音や衣擦れの音がして、私は眼を開けた。

 眼の前が白っぽくて驚いたけど、デュベをかぶって寝ていたことを思い出して、私はのそのそと顔を出した。


 寝顔見られなくて、本当によかった!


「少しは休めたか」

「うん、ありがとう。お疲れさま、市街地はもう大丈夫なの?」

「ああ、避難はとうに終わっているし、雨も小降りになってきたからな。後はラルフに任せて大丈夫だ。

 やはり若い奴は体力があるな、この年になると徹夜はできん。明日もあることだしな」


 ユートレクトは上に着ているものを脱ぎながら、ずっと避難の指揮を執っていたせいなのか、少し枯れた声で笑った。

 自分の年を笑ってはいるけど、その身体は普段執務ばかりしている姿からは想像できないほど鍛え上げられたもので、私は動揺せずにはいられなかった。


 だけど、その乙女的な動揺もユートレクトが私に背を向けたとき、一瞬で驚きに変わった。


「な……どうしたの、その背中!?」


 見れば背中じゅうに青色やどす黒い色のあざがあって、左腕には何をしたのか包帯まで巻いていた。私は慌ててベッドから飛び出ると駆け寄った。


「ああこれか、大したことはない」

「大したことあるわよ、そんなあざだらけで……おまけになに、腕まで怪我してたの?」

「避難の指揮のときにいろいろやったからな、それでだ」


 ユートレクトはそっけなく言うと、これ以上傷のことに触れるつもりはないとでもいうように、私の横を通って足早に浴場へ去っていった。


 そういえば、私も背中やら足にあざを持ってるけど、私のあざより痛々しいじゃないのよ。

 本当に大丈夫かしら、骨とか折れてないでしょうね。

 そう思って、私は姿を消したユートレクトに声をかけた。


「本当に大丈夫、痛くないの?」

「しつこいぞ、どうということはない。

 それより、あがったら今日のことを全て聞かせてもらうからな、頭の中を整理しておけよ」


 脱衣場から鬼宰相のご宣託がおりた。


 まったく、人の心配をあだで返すようなことをおっしゃるんだから。

 それじゃあお言葉に甘えて、今日の盛りだくさんなことを頭の中で整理しておきますわ。途中で眠らずに最後まで聞きなさいよね!


 ソファの前のテーブルに置いてある折詰の中身を気にしつつも、私は今日の会議の内容を頭の中で反芻しはじめ……


 疲れる、この状況はとっても疲れる。


 男の人は生身の上半身見せるのなんて、なんとも思ってないんだろうけど、こっちは学生の時以来そんなもの見てないんだから勘弁してほしかった。


 早く明日になってくれないかしら、と願う自分に、男性免疫がないことを今日ほど呪ったことはなかった。




 ユートレクトが浴場から出てくると、早速今日お互いが得た情報の交換会になった。


 まずは私から今日の出来事をつまびらかに話し始めたのだけど、五分くらい経ったところで『兄上の昼飯の類は省いて話せ』という苦情をいただき、私は頭の中の原稿を大幅に整理することを余儀なくされた。


 私が全部話し終えると、今度はユートレクトが私が連れ去られた前後のことを話してくれた。


 奴との会話を書くと長くなるから、私の言葉で説明するわね。


 市街地でムチ皇子に因縁をつけられたユートレクトは、私のことが心配になったらしくて(私の解釈)、時間に空きができると、王宮の厨房に私の様子を見に来てくれたらしいの。


 でも、厨房の前でなんと、ホク王子に会ったんですって。


 リースルさまの襲撃に手を貸しているんじゃないかと思って事情を聞いたら、言葉を濁して逃げようとしたので、ユートレクトはここぞとばかりに『ホク王子の秘密ベスト5』入りしていることを言ったらしい。


 そうしたらホク王子はたちまち協力的になって、事情を話してくれたところ……私を待ち伏せしていたらしいの。


 私が厨房から出てきたところを偶然出会って、その後は……(自粛)という展開を狙ってたみたいなのよ。

 しかも、私を厨房から追い出す(!)役を、ララメル女王が快諾してくれたというからびっくり仰天!


 っていうとこまで話を聞いたとき、厨房からいろいろな物音がしたので、ユートレクトはホク王子と二人厨房に乗りこんだ。


 賊は逃げていったけど、まずは全員の無事を確認するのが先、ということで、リースルさまとララメル女王、料理人たちの無事を確認して……


 私だけがいなかった。


 実はさる筋から、リースルさまの襲撃が今日あるかも、と聞いていたユートレクトは、『このたわけ』こと私のことはとりあえず置いておいて、リースルさまたちを厨房から強制退去させた。

 それから『おまえのせいで』落ち込んでいるリースルさまを励ましたり、ララメル女王をホク王子に託したりしてひと段落着いたところで、この事態をクラウス皇太子に報告しに行った。

 そうしたら、クラウス皇太子に他のことも相談されたりして、私を『引き取りに行く』のが遅れたらしい。




 ……話し終えると、ユートレクトは折詰(炊き出しで余った料理が入っていた)に入っていた俵型握り飯を、待ってましたというように口にした。


「うまいな」

「あ、それきっとリースルさまが作られた握り飯よ」

「どおりでうまいわけだ」

「この三角のは私が作ったやつね」

「それだけ食っていい、他はやらん」


 なによ、私の作った握り飯は意地でも口にしないつもりね。

 さっき持ってきてくれた握り飯だって、私が作ったものだって言ったら放り投げるし。

 こうなったら。


「おい、その怪しい握り飯以外に手を出すな。これが俺の昼飯兼夕飯なんだぞ」


 私は片手に自分の作った握り飯を確保しながら、折詰の中で輝く巨大な卵焼きを奪い取ると、また新たな称号を奴に与えることにした。


「うるさいわね、私の作った握り飯食べないくせに。このもったいない宰相」

「またわけのわからんことを……くだらんことを言っていないで早く休め。明日はたたき起こすぞ。俺はこれを食ってから寝る」


 勝ち誇った気分もつかの間、最大の危機が迫っていることを思い出した。


 私は魂が抜けそうな思いで洗面所に行くと、自分でも気味悪いくらいおとなしく歯を磨いて(歯ブラシは着替えの中に紛れこんでた)、再びおずおずと巨大ベッドに潜り込んだ。

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