陰謀の糧1
*
私の心は、また落ちていた。
あのとき聞こえた声は、間違いなくユートレクトのものだった。
だからリースルさまは大丈夫。ララメル女王もきっと。
そう自分に言い聞かせなくては精神がもちそうになかった。
リースルさまを自分の手で奴に渡せなかったこと、きちんと守りきれなかったことが、心底悔やまれた。
そしてなにより、自分がこんな賊に捕まってしまったこと。
また奴の手を煩わせてしまう、迷惑をかけると思うと、喉の奥が干あがるように苦しかった。
これでこの賊がリースルさまを暗殺しようとしていた奴らだったら、私が捕まった価値もあったのに。
私もリースルさまと間違ってると思ったから、大声あげずについてきてやったのに。
こいつらときたら、どうも最初から私をさらってくるように頼まれたらしいのよ!
服装とかから考えると、南方地域の住人でもペトロルチカの人間でもなさそうなんだけど、だとしたら、他に誰が何のために私をさらったのか、ちっともさっぱり見当がつかない。
どうしてそんな物好きなこと企んだのか……依頼主とやらの首ねっこを締めながら、すっきり事情を吐いてもらわなくちゃ気がおさまらないわ。
……こうして強気なこと考えてないと、本当に心が折れてしまいそうだった。
今日はときめくことがあると、それを諌めるかのようによくないことが起こっている。
さっきのリースルさまとララメル女王の会話だってそう。
リースルさまの発言を言葉では否定しながらも、内心嬉しくて、本当にそんなことがあったら……と浮かれてしまっていた。奴の気持ちを知っていながら、なんてひどい女なんだろう私は。
きっとこれは、そんな浮かれた心に対する、神さまからの罰なんだろうという気さえしている。
でも、今は心を沈めてばかりもいられない。
いくら私が浅はかで女王の位に値しないからって、こんな奴らの手にかかって殺されたくはない。
おとなしくしながらこいつらの手がかりをつかんで、機会をうかがって逃げなくちゃ。
「ほう、これがセンチュリアの……思っていたより若いな」
賊のボスらしき男は私を見ると、ひげもじゃな顎を撫で回しながら私に顔を近づけてきた。
手足が自由なら普通の成人男性くらい殴り倒せるんだけど、相手は修練を積んだその道のプロたち、しかも一人じゃなく十人もいる。
一方の私は、手足を縛られ猿ぐつわまで噛まされた人質スタイル。
腰に短剣はあるけど、それも手を縛られていては取り出せないし、いつ賊に気づかれるかもわからない。
下手なことをしたら何をされるか……それくらいの分別は私にもつく。
私が黙ったまま、ボスらしき男を睨みつけていると、
「威勢だけはいいようだな。だがそれもいつまでもつか……」
意味ありげに言うと、ボスらしき男はどこから出してきたのかナイフの刃をこちらに向けて、私の服に手を伸ばした。
その浅ましい行為の果てに起こることが頭の中によぎると、身体中の血が一気に頭に集まってきて、私の女王の仮面を吹き飛ばした。
「……!」
『なにすんのよ!』という声は言葉にならなかったけど、私はボスらしき男に思い切り体当たりすると、手足が不自由な身体で床を這いつくばって、ボスらしき男から少しでも遠ざかろうとした。
「ほほう、なかなか度胸があるな」
「おいおいねえちゃん、そんなことで俺らから逃げられると思ってんの?」
でも前方からボス男がすぐ私の足をつかみ、別の男が背後から私を押さえつけた。
こんなところで、こんな奴らに負けてたまるか!
私は力の限り暴れた。
私の身体は、こんな奴らのためのものじゃない。大切な……なにより大切な私の民のものだ。
もし私がここで死んだら……
私が死んだら、誰か悲しんでくれるだろうか。
一市民時代の友達ともこの頃会っていないし、私のことなんて忘れて、楽しく過ごしていると思う。
王宮のみんなだって、私じゃなくても仕える人……国王なら他の人でもいいんだし。たまたま私が一番王家の血が濃かっただけで、血の濃さ薄さなんて関係ないもの。
それに、私に価値があるとしてもそれは『女王』としてだけ。
女王の称号がなければ私なんて、何の価値も魅力もない貧相な女でしかない。こうやって慰みものとしてしか触れられないような……
そう頭で考えているうちに、自分が何もかもに見放された存在のような気がしてきて、知らないうちに涙が私の顔を無様に濡らしていた。けど、見た目なんてもうどうでもよかった。
暴れる度にボス男や他の男たちに殴られたり蹴られたりしたけど、もう自分がどうして暴れているのかよくわからなくなっていた。
そして、遠のきそうになる意識を捕まえておくのにも疲れてきた、そのときだった。
「何をしている、大事な人質に傷をつけるな!」
甲高い声が聞こえると、賊たちの手足が嘘のようにぴたっと止まった。
「で、殿下!」
ボス男が声の主の敬称を呼んだその先に、ローフェンディアの皇族服に身を包んだ見たことがない男が立っていた。
**
「その人質は、私の命により捕えたものだろう。私よりおまえたちが先に手を出すとは、どういう料簡だ?」
耳障りな声だった。
ローフェンディアの皇族服を着ているということは皇子なんだろうけど、それにしては気品に欠ける声だった。
容姿も端麗というには、どこかだらしなく崩れているような感じがした。
こんな人を食堂の看板娘時代に何人も見たことがある。典型的な酒と女に溺れている人の図だ。
でも、皇子ならどうして今ここにいるんだろう。
成人した皇子たちは、全員市街地で避難作業の指揮を執っているはずなのに。
そういえば、どうしてユートレクトは王宮にいたんだろう。あるいは皇子たちが一時的に全員王宮に招集されているのか……
どっちにしても、この人がこの顔で十代とはとても思えない。
ということは、こいつはこの非常事態に女をいたぶって、義務をおろそかにしているあほな皇子、と考えてもよさそうだ。
私に乱暴をしていたボス男以下賊たちが口々に言い訳を並べながら、私から離れていったのはよかったけど、代わりに今度はドラ皇子がこちらに近づいてきた。
さっきの騒ぎで倒れた身体を起こしたいのだけど、体力をひどく消耗していることと縛られているせいもあってか、うまく起き上がることができない。
もがく私の頭上で、いつの間にかドラ皇子が私を見下ろしていた。
「女王陛下、このようなあばら家までご足労くださり、まことに恐悦至極にございます。
私はローフェンディア第三皇子にして、皇位継承権第三位、ライムント・ガラキルワンと申します。
以後……があるかどうかは陛下次第ですが、お見知りおきを」
皇位継承権第三位、ね。
なんてご立派な皇位継承者なんだろう。
こんなところで、責務をまっとうせずに油を売ってるばかりか、一国の君主を誘拐するなんて。
それでも皇位継承権第三位にいられるのだから、よっぽど外面よく過ごしているのか、母親の出身国が大国なのか……
そこまで考えて、あることに思い当たった。
もしかしてこれが、とんでもない理由で自分の担当地域を手放して、クラウス皇太子を悩ませた奴かもしれない。
私はドラ皇子を嫌悪の気持ちをこめて、思い切り睨みつけた。
たとえ朝の会話に出てきた『困った皇子』ではないにしても、こんなことをする輩を慈愛の目で見つめてやるほど私は聖人にはなれない。
「ふむ……人を見る態度まであの男に躾けられたようですな。陛下と話がしたい。この忌まわしいものを外すのだ」
ドラ皇子がそう命令すると、賊の一人が私の猿ぐつわを外した。
だからって、この男と世間話をする気にはなれない。
「貴女を握っていればそのうちあの男が現れる。あの男は、ローフェンディア皇族の誇りを踏みにじったのですよ」
誇り?
「貴女の国の宰相でありながらわが国政に手出しするなど、不遜極まりない行為だと思いませんか?
おかげで指揮系統が混乱して、われらは大いに困っている」
ドラ皇子は女みたいに爪の伸びた指先で私の顎に手をかけた。その手からは酒の匂いが、袖からは香水の匂いがして、私はできる限り顔をそむけた。
避難の指揮をしている人からしていい匂いじゃない。
「臣下なら臣下らしくしていればよいものを、今頃になってわれらと肩を並べるなど……汚らわしいにも程がある。
おまけにあの地域の避難を最優先させるとは、一体何を考えているのかわからぬ。
あんな場所、放っておけば自然と悪が沈没してよいものを」
恐らく間違いない。
こいつが朝の会話の諸悪の根源、クラウス皇太子を悩ませ、ユートレクトが愛想を尽かした『ローフェンディア帝国の恥』かと思うと、私のもともと強くない堪忍袋の緒が音をたてて切れ始めた。
「私が認めました」
私の発言にドラ皇子は少なからず驚いたのか、まだ何か言おうとしていた口を止めて濁った瞳でこちらを見据えた。
「ユートレクトは確かに私の臣下ですが、貴国の皇子でもあります。この度の予期せぬ大雨で貴国の民が危機にさらされていると聞き、私が民を助けるよう申しつけました。それが殿下の混乱を招いていると?」
できる限り感情を抑えた口調で一息に言ってしまってから、後悔の念がこみ上げてきたけど、もう後にはひけない。
ドラ皇子(名前言ってたけどドラ皇子で十分よ)の顔色が、みるみるうちに黒みを帯びた赤色になった。
不健康な生活を送っていることがわかる色だった。
「……私だけではない。われらは混乱し、怒りに震えている。本来なら私が指揮を執るはずの地域に勝手に入ってきて、そればかりか他の地域の避難まで指揮している……なんと許しがたい振る舞い、皇太子にでもなったつもりか!」
金切り声でそうわめくと、ドラ皇子は周囲の椅子を蹴飛ばし、倒れた椅子を賊たちに向けて投げつけ始めたかと思ったら、腰につけていた鞭で賊たちをぶち始めた。
賊たちは『皇子』に逆らうことはできないのか、黙って鞭を受けている。
なんてことをするんだろう、仮にも自分が雇っている人間に対して。
お金を払って雇っているからって、暴力をふるっても何をしてもいいわけじゃないのに。
怒りに紛れて忘れかけそうだったけれど、自分がいつ何をされてもおかしくない状況だということを改めて意識すると、また心が震えてきた。
でも、それはさっきまでの、半ば自分を捨て去ってしまっていた気持ちとは違っていた。
やっぱり、あんたが帝国の面汚しだったってわけね。
私をさらった賊も賊だけど、権力をかさに着てこんなことする奴、絶対に許せない。
こんな奴にだけは負けたくないと思った。
それに……なにやってるのよ、あいつは。
確かに覚書には、『他の皇子の職務を侵害する行為をしてはいけない』とは書いてなかったけど。
これももう一つの『やっぱり』だわ。
きっと他の皇子さまたちのやり方があまりにもどかしくて、そのままじゃ市民たちの命が危ないと思って、黙っていられなかったのね。
もう……どこに行っても遠慮するって言葉を知らないんだから。
逆恨みされて自分の命を縮めかねないってこと、間違いなく知っててやってるのがあいつらしいんだけど。
でもね、逆恨みする方にも知恵というものがあったみたいよ。
それはそうよね、考えたら、剣技も達者な(らしい)男を相手にするよりは、女の私を狙った方が成功率は高い……って、あれ?
これって、恨みつらみの矛先が私に向けられたってことよね。
そうよ、こうなることを予測していらっしゃらなかったのかしら、偉大なる宰相閣下は。
予測していたとしたら、一刻も早く助けに来てほしいのだけど、厨房からこの『あばら家』……賊たちのアジトに着いて今まで、体内時計で大体一時間は経っている。
厨房の騒ぎやリースルさまたちも、そろそろ落ち着いていてもいい頃よね。
それなのにまだ奴は現れない。ということは……
まさか、こうなることを考えてなかった、とか。
そう思ったとき、私は蒼白になるよりむしろ、げんなりしながらも笑い出したいような気持ちになった。
なんなんだろう、この非常事態に笑いたいなんて。普通ならありえない、ありえないはずなのに。
きっとあんたのせいよ、履物皇子。
『その頭脳と論説は大陸をも切り裂く』だなんて、大事なときに限って全然役に立たないっていうの?
そんなことじゃ孫の代まで笑われるわよ……なんてね。
あいつが、私でも考えられることに頭が回ってないなんてことはありえないから、絶対になにか考えているはず。
そうでなかったら……どうしてくれよう。
仮にも、もしも、万が一、私の身の危険を予知していなかったら、死んでも許さないからね!
信じてるんだから、私は。
ドラ皇子の不条理な暴力の嵐が、少しでも早くおさまってくれるのを、恐らくは賊の皆さんと一緒に心の中で祈りながら、私は今の自分に何ができるのか、ない脳を酷使して考えることにした。
助けてもらおうと思ってるんじゃない。
ユートレクトがここを突きとめられるようにすること。
そしてここにに来たとき、ドラ皇子の悪行の証拠を根こそぎ持って帰れるようにしておくことが、私の役目だと思った。
***
そこへ、外から扉を叩く音がした。
ドラ皇子は鞭打つ手を止めると、賊のボス男に扉を開けるよう促した。
私は心臓の音が高く早くなるのを感じた。まさか、まさかとは思うけど……
賊の一人が扉を開けると、そこにいたのはユートレクトでもなければ、ローフェンディアの憲兵でもなく、貴族の従者らしき服装をした男だった。
違うとは思ってたんだけど、本当に違うと少なからずショックだわ。
それは、助けてもらおうなんて思ってないけど、来てくれたらやっぱり嬉しいもの。
これからはノックの音を聞いても、ほんの少しでもかけらでも期待するのやめなきゃ。心の健康によくないわ。
従者らしい男はドラ皇子と顔見知りらしく、ドラ皇子に呼ばれて部屋の中に入ると『ミカエラさまからの言伝』とやらを披露してくれた。
「ミカエラさまは、殿下のお戻りが遅いとご心配で、お早いお戻りをお待ちしています、とのことでした。
ご多忙のところ、まことに恐縮ですが……」
ミカエラさまの従者と思しき男は言い終えると、ドラ皇子の手にしている鞭に気づいて一瞬目を大きく見開いた。
けれど、顔に出さない方がいいと判断したのか、見て見ぬふりをすることにしたようだった。
この人もドラ皇子に鞭で叩かれたことがあるのかもしれない。
「そうか……ミカエラめ、愛い奴だ。すぐに行く」
ドラ皇子は機嫌を直したような口調で言うと、鞭を腰に直して私の方に向き直った。
「陛下、次にお会いするときには、あの忌まわしい男をひきずって参ります。
それまでこちらでごゆるりとお待ちください。私はこれより所用がありますので、失礼致します」
所用って、女のところに行くだけじゃないのよ。
そんなもの気取って言ったって何の重みも感じないわよ。
ていうかあんた、ここに来るまでどこにいたのよ。
やっぱり市民の避難の指揮をさぼって、女遊びをしていたの?
あんたのこと「ムチプレイ皇子」って呼んでもいいかしら。
私がそんなことを考えている間に、ムチプレイ皇子は軽い足取りで、ミカエラさまとやらの従者と一緒にこの『あばら家』を出ていった。
後には散乱した椅子たちと、沈黙したままの賊の皆さん、そして私が残された。
さて、ここから先は真剣にどうしようかな。
とりあえず、すごく気になるところから攻めていこうかしらね。
「早く部下の傷の手当てをしてあげなさいよ、このままじゃ化膿してしまうわ」
私は勇気を出して、鞭の被害を免れたボス男に直訴した。
ムチプレイ皇子(長いわね、もう少し短くならないかしら)が持っていた鞭には、私からは見えなかったけれど、どうやら棘か刃みたいなものがついているらしかったのよ。
鞭打たれた賊の皆さんの服が破れて、血に滲んだ背中が見えていた。
まさかこんな物騒な鞭だったとは思わなかったから、本当にびっくりした。
壁や床にも血が飛んでいるのを見て、声をあげそうになるのを必死でこらえた。
こんな状態なのに、ムチプレイ皇子がいなくなっても、誰も傷の手当てをしてあげようとしないんだもの。おかしいじゃない?
いくら私に乱暴を働いた人たちだからって、やつあたりみたいな暴力を黙って受けているのを見たら、なんだか憎めなくなってしまった。
「……できねえんだよ」
ボス男の返答は、私にはまるで理解できないものだった。
できないって。
仮にも賊ともあろう者が、傷の手当てくらいわけないはずなのに、どういうことよ。
「どうして。救急箱くらい持っているでしょう?
そんなものも持たずに賊稼業をしているなんて、よほど腕に自信があるってこと?」
私の当然な、そして少しばかり意地悪な質問に、ボス男はなぜかあきれたように頭を振って、
「あんた、本当に女王さまか?」
「当たり前よ。このオーリカルクのペンダントが目に入らないの?」
私は首元に輝くオーリカルクのペンダントを、胸を張って見せつけ……てるつもりのポーズをとった。
横になったままというのは、どうも調子が狂う。
それにこのスーツ、あちこち擦り切れてもう使い物にならないじゃないのよ。
この弁償代は誰に払ってもらったらいいんだろう。やっぱりムチプレイ皇子かしら。
「女王さまよ、あんたはいい王さまらしいな。けどな、世の中にはひどい王侯貴族がたくさんいるんだぜ」
ボス男のひげもじゃな顔が、苦笑しているように見えた。
「この傷を治したらまた殿下に怒られるのさ。『私のつけた傷を、私の許可なく勝手に治すとは何事だ!』ってな」
そのとんでもないムチプレイ論理に、私の堪忍袋の緒がまたぷちぷちと切れ始めた。
「なによそれ、信じられない! あの皇子、人をなんだと思ってるの!?」