厨房にて
*
また笑われたよ……
いつまであの『便所用』スリッパは、私に呪いをかけるつもりかしら。
って言っても、昨日の今日の話なのよね。なんだか遠い昔の話のような気がするんだけど。
会議が終わってリースルさまの寝室に戻ったら、
『リースルさまはまだ……こちらには、おみえになっておりません。厨房で炊き出しの指示を、な、なさっています』
と侍女長(仮)さんがおっしゃったので、私は今ローフェンディア王宮の厨房に向かっているところ。
一人でリースルさまの寝室にいても、なんだか落ち着かないしね。
いたとしても、侍女長(仮)さんたちの微妙な視線を受けて笑い者にされるだけだし。
どうして私が遠慮しなくちゃいけないのよ、って話なんだけど。
今日はいろいろなことがあったけど、リースルさまが厨房で炊き出しをされていると聞いたら、こんな私でも誰かの役に立てるかもしれないと思って、それだけで救われたような気がして。
ただの自己満足なのかもしれない。でも、今の私には無理やりにでもまず立ち直ることが大切だと思った。
だから、ベッドに入って眠りに着くまでもう少し頑張ろう。
そうそう、こう見えても私、料理には自信があるんだから!
久しぶりだなあ、厨房に入るのなんて。
センチュリアにいても、年末の挨拶回りのときと、今のリースルさまみたいに災害がない限りはほとんど行かないし、まして包丁はどのくらい握ってないだろう。
あ、ちなみに今日は、足取りだけは軽いのよ。しっかりローヒールを履いてるから。
ちゃんとつま先も丸くて、足に優しい形のものよ。
やっぱりハイヒールは辛い履物だということが、骨身に沁みたわ。
もう六日目の大舞踏会まで、誰がなんと言おうとハイヒールは履かないからね。
早くかかとのすりむけも治ってくれるといいんだけど。
と、私にしては乙女ちっくなことを考えながら歩いていると、右手に『厨房』という文字が見えてきた。
私はその部屋の前で止まると、最高位の淑女的に遠慮なく引き戸をがらがらと開けてリースルさまを探した。
なんで遠慮ないかっていうとね、厨房は食堂の看板娘|(!)時代で入り慣れてるからよ。
むしろ『なんとかの間』っていう会議室の扉をノックする方が、私にとっては緊張してしまう。
今の会議も厨房でやってくれればいいのに。そうしたら難しい話し合いもきっと百倍楽しくなるわよ。
『陛下、この件はどのように刻みましょう?』
『うむ、それはみじん切りじゃ。目に染みるゆえ気をつけられよ』
『こちらの案件は、どのように調理すればよいでしょう。皆さんのお知恵を貸していただきたい』
『それは固い材料ですね。しばらくワインに漬けておかれた方がよろしいかと』
『塩で揉むという手もありますぞ』
『いっそ天日に干してみてはどうでしょう。味も凝縮されると思いますが』
『本日最初の議事、物価上昇対策から揚げ、ただ今揚がりましたー! どうぞお召しあがりくださーい!』(これ私ね)
『……うむ、これは上出来じゃ』
『外はかりっと、中はジューシーでとても美味ですな』
『最初の議事は無事に調理できたようですね。では、次の決定事項の調理をお願いします』
『はーい、次は犯罪防止ロールキャベツでしたね。煮込みますので少々お時間いただきまーす!』(私)
こんな感じで。
ああ、食べ物のこと考えたら、なんだかお腹空いてきちゃった。
ローフェンディア王宮の厨房は、センチュリア王宮のものとは比べものにならないほど広かった。
夕刻でもあるせいか、戦場のようにごったがえしていたけれど、いい意味の活気に満ちていた。
包丁がまな板の上を走る音やフライパンで食材たちが踊る音、料理人たちの大声の会話や過労な自分を励ますための鼻歌……いろいろな音が飛び交っていた。
そんな中、
「あら! アレクじゃなくて? まああ、こんなところでお会いするとは、夢にも思いませんでしたわ!」
ん?
聞き覚えのある声がしたような気がしたけど、気のせいかしら。
「アレク、こちらです。会議お疲れさまでした」
愛くるしい声がしたのでそちらを見ると、壁際に、
「リースル、お疲れさまです……ラ、ララメル! どうしてこちらに?」
真っ白なかわいいフリルつきのエプロンをつけたリースルさまと、ここで借りたらしいコックコートをドレスの上から着たララメル女王が、二人並んで握り飯を作っていた。
「どうしてもこうしてもありませんわ。昼間クラウスに聞いたら、市街地が大変なことになっているそうじゃありませんか。
リースルも忙しく働いていると聞いて、わたくし、会議が終わった足で駆けつけたのですわ」
ララメル女王の声が心なしか上ずっているように聞こえるのは、私の先入観のせいかもしれない。
だけど、昼間のララメル女王の様子が気になって、どうしても敏感になってしまう。
……ううん、こうしてリースルさまを心配して来てくれているのだし、今は考えるのやめとこ。
リースルさまはそのあいだにも、あれこれお伺いにくる料理人たちに指示を出しながら、ララメル女王にもお使いを頼んだ。
「本当にありがとうございます、ララメル。みなも目の保養になると喜んでいます……あ、梅の実がそろそろなくなりそう。ララメル、奥からもらってきてくださいませんか?」
「あら、本当ですわね。わかりましたわ。奥の方なら誰でも知っていますわね?」
「ええ、このお皿を持っていけば大丈夫です。宜しくお願い致します」
「了解しましたわ。少しお待ちになってね」
妖艶美女、下はドレス上はコックコートで、わずかに梅の実が残ったお皿を持って嬉しそうに厨房の中を歩くの図。
奇妙すぎる……ていうか、ドレスの裾がものすごく汚れると思うけど、そういうことを気にしないのが、ララメル女王らしいと言えばそうかもしれない。
「アレク、こちらへいらしてくださいまし」
私が呆然とララメル女王を見送っているとリースルさまが手招きしたので、私はララメル女王の指定席とは反対側に回り込んだ。
「はい、どの具を詰めればいいでしょう……あ、手を洗ってこなくてはいけませんね」
「まあ、お手伝いにいらしてくださったのですか? 会議でお疲れでいらっしゃるのに、ありがとうございます。
ですが、その前にお話しておきたいことがあるのです」
私の天然ボケを、リースルさまは今まで見たことがない真剣な顔で封じた。
「今日はこのような天候です。このような天候のときは、賊がいつ襲ってくるとも限りません。衛兵たちの動きも、昨日までより慌しくなっています。
もしわたくしに何かあったら、あなたはララメルと一緒に逃げてください」
その声は小さかったけど、厨房の喧騒が一瞬聞こえなくなるほどの力をもって私の中に入ってきた。
そんなことできるわけない。
約束したんだから。
リースルさまを守る最後の砦になるんだから。
私はきっぱりと言った。
「それはできません」
「わたくしは、あなたに無理なお願いをしました。これ以上ご迷惑をかけるわけにはいかないのです。
わたくしのために、あなたやララメル、みなの命が危うくなるなど……あなたがたの命を守るためなら、この命惜しくはありません」
リースルさまは、卓の一点を見つめたまま静かに言った。
世界最大の帝国の皇太子妃としての誇りを見たような気がした。
でも、命が惜しくないなんて。
リースルさまがいなくなったら、クラウス皇太子がどんなに悲しむか。お腹の中の赤ちゃんもいなくなってしまう。
それに、私が悲しませたくない。毒針付き鋼鉄鎧を心に装着したあの男を。
他人を思いやり過ぎるリースルさまの心を、少しでも軽くしてあげなくちゃ。
私はきっとそのためにここにいるんだ、と思った。
「リースルさま、みんなで奴らをこらしめましょう」
私は恐れながら、リースルさまの肩に手を置いた。
強く握れば壊れてしまいそうなくらい、その肩は細かった。
「賊なんかにやられてたまるもんですか。奴らを捕らえて、みんな無事でこの一件終わらせましょう。
大丈夫、私たちなら必ずできます。命が惜しくないなんて、おっしゃらないでください。ね?」
それは、私自身に言い聞かせる言葉でもあった。
私は、自分の心が病床の頃に戻りかけていたことに気づき、それでもどうにかまた前を向くことができた。
この力……単に図太いともいうけど、こんなものでもお役に立てるならいくらでも分けてあげたい。
「ありがとうアレク……感謝します。どうかあなたをお友達と呼ばせてくださいましね?」
リースルさまの声は、ほんの少しうるんでいた気がしたけれど、その声がまたとても愛くるしかったので、ララメル女王が戻ってこなかったら私は理性を失っていたかもしれなかった。
生まれ変わったら、男になった方がいいのかもしれない。
**
女三人寄ればかしましい、とは言ったものだけど。
炊き出しの握り飯を作りながらのララメル女王とリースルさまの会話は、まさにその言葉にぴったりのものになっていた。
ただ言っておくと、女『三人』じゃなくて『二人』だけで盛り上がってるんだからね。私はさっきから、黙々と握り飯を作ることに集中してるから。
私は梅の実を入れたご飯を握りながら、心の中で深い深いため息をついた。
あのね、こう見えても五分前は、『失恋の傷の癒し方』について話していたはずなのよ。
それが誰がどこをどう間違えたのか、いつの間にやら、
『アレクの婿候補はホク王子ですわ』
『いいえ、アレクにはユートレクトを娶ってもらわないと』
っていう、なんとも私には居心地の悪い話になって今に至ってるってわけ。
そして更にリースルさまの、
『ユートレクトだって女性とお付き合いしたことくらいあります』(要約)
という激白に、ララメル女王はおやというような顔をしたけど、すかさず反撃に出ることにしたらしかった。
「あらまあ……意外ですわ。あのお堅い方が、そんな浮き名を流せるほどおさかんだったなんて。
でもきっと、どれも長続きしなかったに違いありませんわ。だって、あの方がどうやって女性を口説き落とすのか、想像できまして、リースル?」
「それは……ですけど、フリッツは日頃冷たそうに見えるかもしれませんけれど、本当は優しい思いやりのある人なのです。アレクの食事の好みだってきちんと覚えていますし、体調にも気を配って……
なにより、アレクと話しているときのフリッツは、とてもいきいきしていて幸せそうなのです」
リースルさま、何気にとんでもないことおっしゃったわね。
私、何も聞こえません、ええ何も聞こえてませんから。
次は鮭の塩焼きの握り飯を作ろうっと。
「リースル、あ、あなたまさか、あの歩く大法典がアレクを好きだとでもおっしゃりたいの?」
「もしかしたら……そうかもしれません」
「オホホホホホ! そんな……ば、あら失礼、そんなおかしなことありえませんわ。あの方、女性の扱い方をちっとも知らないんですもの。
その点ホク王子は、何をしたら女性が……喜ぶかよくご存知でいらしてよ」
鮭の塩焼きの握り飯に海苔を巻きながら、私はリースルさまの爆弾発言に、修正液を塗ったくってやりたくてたまらない気持ちになった。
そうかもしれません、って。
あの歩く大法典……ユートレクトが私を好きかもなんて、寝覚めが悪すぎるおっしゃりようよ。
奴が聞いたら、きっと衝撃のあまり寝込むに違いないわ。報われない恋って本当に切ないものね。
でも、今ここで口を挟んだら、『ではアレク、あなたはどちらがお好きなの!? はっきりなさい!』とか言われそうな雰囲気なのよね。
だからひたすら無視することにしてるのよ、尋常じゃなく不本意だけど。
リースルさまの手は、さっきからララメル女王と可憐な舌戦を繰り広げながらも、止まることなく握り飯を製造し続けている。
俵型に握ったご飯に手早く海苔をかぶせると、『牛しぐれ』と書いた紙の貼ってあるトレイの上に置いて、また次の握り飯を作り始めた。
「女性が何をすれば喜ぶかは、その人によって違います」
「あらそうかしら、そんなことありませんわ。つまるところはどの女性も愛されたいのです。心も……そう、身体も。リースル、あなたもそうではなくて?」
ララメル女王の艶かしい発言に、リースルさまは顔だけでなく首まで赤くなった。かわいいなあ……
「まあ……! ララメル、なんてはしたないことをおっしゃるのです。未婚の女性の前で恥ずかしいとお思いになりませんか!」
「ああ、ひどい方だわリースル、わたくしも未婚ですのに……」
「あなたは既婚者と同じです! あなたこそいい加減に身を固めないと、隠居してから寂しい身の上になりますよ」
「な……なんてひどい……あんまりですわリースル。
わたくしだって好きで一人でいるのでは、ないんですのよ。それをまるで、わたくしが好きこのんで、殿方をとっかえひっかえしているみたいに……」
やった。ようやく話がそれてきた。
ララメル女王は、よよよと泣き崩れるポーズを取って自分の不遇な身の上を嘆いた。
そして突然だった。
目の前が暗くなって、料理人たちのわめき声が耳に入るまで、何が起きたのかわからなかった。
厨房の灯りが一斉に消えたんだ、とわかったのは、わずかにコンロの火が暗闇の中で光をくれたせいだった。
けどその火も、灯りが消えた中でつけておくのは危険だ、と誰かが叫んですぐに消された。
これは……もしかしたら、じゃないわね。
明らかに賊がやってきたに違いなかった。
確か、正面には窓があったわよね。その方向から湿った風が入ってきて、靴音が騒がしくなった。
厨房の灯りをどうやって消したのかはわからないけれど、この嵐の中、奇特にも窓から侵入してきたのは間違いないみたい。
「まあ突然どうしたのでしょう。まさかリー」
「静かにしてください、お二人とも身をかがめて卓の下へ」
リースルさまの名前を口にしかけたララメル女王を制して、私は二人に卓の下に潜り込むように言った。
調理器具が床に散らばるらしき音は聞こえるものの、料理人たちが危害を加えられている様子はない。それだけが救いだった。
その喧騒が次第にこちらに近づいてきた。私はリースルさまとララメル女王から少し離れたところで、卓の上から立ち膝で頭を出すと、音のする方向をうかがった。
真っ暗で何も見えないけど、駆け寄ってくる靴音から考えると、私たちとの距離は確実に縮まってきているのがわかる。
どうしよう……私たちをやり過ごしてくれるといいけど、と思って、私が頭を引っ込めようとしたときだった。
視界の隅から光が入ってきた。
出入り口の引き戸が勢いよく開く音がして、外の灯りと共にまた何者かが侵入してきた。
待ってよ、もしかしてこれも賊なの!?
「おい、まだ生きているか、返事をしろ!」
耳にたこができるくらい聞き覚えのある声がしたかと思うと、切迫した靴音がこちらに近づいてきて、私の腕を取り、そのままどこかへ連れて行こうとする。
思わず声をかけようとして、腕をつかんだその感触が最近知ったものと違うことに気がつくと、全身が凍るような思いがした。
これは……違う!
今置かれている自分の状況を必死で考えて……
どうやら私は、リースルさまと勘違いされて賊に捕まってしまったらしかった。