嵐の朝3
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皇帝陛下の発言に、私はもちろん他のお偉いさんたちも驚いて、最初は誰も口を開くことができなかった。
あの世界最大の過激派組織、独立国まで作ってしまったペトロルチカの代表が、この『世界会議』で暴れるなんて一体どういうこと?
まさかとは思うけど、刃傷沙汰になってたりしないわよね?
そんな私たちには目もくれず、皇帝陛下はずんずんと扉の方へ歩いていかれる。
「お待ちくだされ陛下、いくら陛下でもお一人では危険すぎますぞ。このおいぼれめもお供致しましょう。
しかし、暴れておるとはどういうことですかな?」
一番早くわれに戻ったのはサブスカ国王だった。
サブスカ国王が白いあごひげを撫でながら立ち上がると、皇帝陛下は、
「うむ、その質問に具体的に答えるには、ここでは支障があるやもしれぬ……」
天下のローフェンディア皇帝が言いよどむ事柄なんてそうそうないはずなのに、どうしたんだろう。
皇帝陛下はサブスカ国王の同行を断ってはいない。
ということは、元首には聞かせることはできても、閣僚代表には聞かせられないような話ってことかしら。
サブスカ国王もそれを察したのだろう。他の元首たちに呼びかけた。
「勇気と分別を併せ持つ中央大陸の国家元首のご一同よ。
状況はかなり深刻なもののようじゃ。皇帝陛下だけでは対処しきれぬかもしれん。
どうじゃろう、われらも同行することにしては?
いくらペトロルチカでも、中央大陸すべての元首を前にすれば理性を失ってばかりもおられまいて」
二日目までの元首たちなら、誰も賛同しなかったかもしれない。
賛同したとしても、それはローフェンディア帝国が怖いからであって、心から皇帝陛下のことを心配したり、他の地域のことを憂いてのことではなかったかもしれない。
でも、昨日の会議から中央大陸の元首たちの結束は固くなっていた。
絆が深くなれば心に余裕が生まれる。損得勘定以外の感情も働かせられるし、他人や他国を思いやったりいたわる気持ちが、みんなの中にも芽生え始めたみたいだった。
「おっしゃる通りです、私も参りましょう」
「刃傷沙汰にはならぬと思いますが、万が一のことも考えられる。わしもお供致しますぞ」
「ペトロルチカめ、よりによって『世界会議』の場で騒ぎを起こすとは醜態な。
他の東方地域諸国もいい迷惑でしょう。懲らしめてやらねばなりますまいな」
サブスカ国王の提案に他の元首たちも我に帰ると、一斉に立ちあがって同行の意思を告げた。
私は……迷ったけど皆さんと一緒に行くことにした。
センチュリアは永世中立国だから、こういうどちらかにつく場面ではどちらにつかなくても許される。
でも、どうしてペトロルチカの代表が暴れているのか、まずそれがわからないし、もし暴れている理由が世界の平和を乱すものであったなら、一国家の元首として見過ごすわけにはいかない。
だから、ペトロルチカの代表が暴れている理由をまずは知る必要があると思った。
私はユートレクトに、
「とりあえず行ってきますわ。判断はその後でも遅くないと思うから」
と小声で知らせて席を立とうとすると、予期しない返事がかえってきた。
「ご自分の判断を信じることです」
『慎重に行動しろ』とか『迷ったときはやめておけ、冒険はするな』と言われると思っていたから驚いたのだけど、なんだか嬉しかった。
「ありがとう、行ってきます」
私は最強の臣下に自称華のような笑顔を向けると、既に扉を開けて部屋から出て行っている元首の皆さんの後を追った。
……ところ変わって、ここは東方大陸地域が『各地域首脳及び閣僚代表会議』を開いている部屋のとなりの一室。
今、私たち中央大陸地域の元首たちは、ここから東方大陸地域の会議の状況を伺って、突入するタイミングを計っている最中なのよ。
皇帝陛下と報告に来た衛兵さん、それから私たちが到着するまで、会議室の前で待機していた兵士さんたちの話を総合すると、大体こんな感じになる……と思う。
東方大陸地域では、東方最大勢力のミクラーシュ連邦共和国が政治・経済・軍事をリードしているのだけど、議事が軍事のことになったときのことだった。
話は軍事から少しそれてると思うのだけど、『ペトロルチカの代表が、国民に反ミクラーシュの抗議運動を行うよう指示している』という噂が東方各国には流れていたようで、その真偽を正す声がこのとき各国からあがったらしい。
その噂をペトロルチカの代表はもちろん否定したけど、その後でこうのたまったらしい。
『そのような動きが万が一にも起こるとしたら、それは人々が、ミクラーシュの長きにわたる国旗なき支配に心から反対しているからであろう。
力での支配に断固たる拒絶の意思を示し、不当なる占領者、国家と人類の敵、またそれによってもたらされる非人道的な虐殺に、否の声をあげるときが来たと人々は思っているのではないか』
『国旗なき占領』の意味がいま一つよくわからなかったけど、『自国の国旗を翻す権利のない国を、わが国のごとく支配している、というくらいの意味か』と、皇帝陛下がここに着いてから教えてくださった。
それはさておき、こんな暴言、ペトロルチカの代表の発言じゃなくても、ミクラーシュに喧嘩売ってるようにしか聞こえないわよね。
これを聞いたミクラーシュが黙っているわけもなく、反ミクラーシュの抗議運動があると噂されている日には、早朝から軍隊を配備して銃撃戦も辞さない構えだ、とペトロルチカに釘を刺したんですって。
ペトロルチカの代表はどうもこのへんから暴走を始めたらしい。最初は、
『武装をしていない人々に銃を向けるおつもりか』
と言っていたのが、
『わが人民を不当なる支配の生贄にするのか』
になって、更に、
『私の敬虔なる下僕たちにいわれなき制裁を加えれば、神の裁きがおまえたちに下るであろう』
となった時点で、もう国家間の話し合いではなくなった。
少なくともペトロルチカ以外の東方大陸の皆さんはそう思った。
そこで、会議を一時中断したところ、ペトロルチカ代表の勝手な独演会が始まっちゃったんですって。
これが、皇帝陛下がおっしゃるところの『暴れてる』ってこと。
誰が止めても聞きもせずに、同じようなことを何度も繰り返し言っているらしいの。
ペトロルチカ代表の目の焦点は一点に定まっておらず、精神的にも不安定な状態になっているみたい。
ここで、気をきかせた東方大陸地域の某閣僚代表さんが、ペトロルチカに気取られないように席を外して、外に控えている衛兵さんの代表……つまり先ほど私たちの会議室にきた衛兵さんに、『世界会議』開催国であるローフェンディアの助けを貸してほしい、なんとか皇帝陛下にお取次ぎを、とお願いしに来たっていうわけ。
衛兵さんが重大任務を仰せつかってから、私たち中央大陸の元首一同がここに来るまで約十分。
そしてこちらに着いてから今まで更に数分経っている。
その間、幸か不幸かわからないけど、会議というかペトロルチカ代表の演説は、いい方向にも悪い方向にも発展していないみたいだった。皇帝陛下の、
『会議室の外側の壁より、こちらからの方が中の声がよく聞こえるのだ。
それゆえ、会議が行われる両どなりの部屋は常に空室にしておる』
という裏情報によって、私たちはおとなりの部屋で元首にはあるまじき格好……一列に並んで壁に片耳を押しつけて、となりの会議の様子を盗み聞きしているってわけなのよ。
ユートレクトや国の重臣たちには、あんまり見られたくない姿だわ。
皇帝陛下は衛兵さんに指示して、信頼できる専門の医師を数名待機させた。
もしかしたら、ペトロルチカ代表は薬物を使用していて、その副作用が出ている可能性もあるんですって。
壁の向こうからは、ペトロルチカ代表の自分に酔いしれているうわずった声が、相変わらずの調子で聞こえてくる。
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「……東方大陸は今や、共和制という羊の皮を被った支配者の独裁下にある。
この支配者は、神の摂理によってできた国を自らの手中にし、神を冒涜する振る舞いがあまりある」
実はこのくだり、私たちがこの部屋に陣取ってから聞くのはもう三回目になる。
だからさっきから紹介しなかったのよ。おんなじこと聞かされても面白くもなんともないでしょ?
この台詞が面白いのか、と言われると困るんだけど。
皇帝陛下が閣僚代表の前で、細かい事情を説明できない理由もよくわかった。
過激派組織の代表とはいっても、今は一国家の元首としてこの『世界会議』に参加している人の醜態を、地位が下である閣僚代表に漏らすわけにはいかないのよ。
まあ、こんな冗談にも洒落にもならないようなことを、閣僚代表ともあろう人たちがぺらぺら話すわけないと思うんだけどね。
でも、昨日聞いたユートレクトの話だと、閣僚代表たちにも噂話のネットワークがあるみたいだから、皇帝陛下もそれを考慮されたのかもしれない。
それにしても、よ。
いくら普通の精神状態じゃない(みたいだ)からって、こんな演説をされて黙っていられる東方大陸地域のお偉いさん、特に不当な糾弾を受けているミクラーシュの元首の忍耐力は、並大抵じゃない思う。
私がこんなこと言われたら、申し訳ないけど相手の精神状態を心配する前に、反論せずにはいられないもの。
反論しても無駄だったから、これ以上悪化させないために黙っているんだと思うけど、それにしたって我慢にも限度ってものがあるわよ。
ここで、ペトロルチカ代表の演説がついに加速し始めた。
「そもそも共和制……つまり民主制は、人間が人間を支配する制度である。
これは神の摂理に反する、浄化すべき制度である」
これは始めて聞く台詞だった。
共和制の国家元首たちが、この発言に怒りを覚えたのが眼でも肌でも感じ取れた。
誰も声は出さなかった。でも、怒りの感情に周囲の空気が熱く揺れた。
ペトロルチカ代表は知識の泉が枯れ果ててるみたいね。共和制と民主制の違いを理解していないなんて。
共和制は、民主制と同じような意味に取られることも多いみたいだけど、実はそうじゃないんですって。
共和制っていうのは、私やサブスカ国王、ローフェンディア皇帝みたいな、君主という存在を国に置かない政治体制のこと。
国の元首は、私たち国王みたいに血縁とかで勝手に決まるのではなくて、基本的には国民によって選ばれる。
一方の民主制は、抽象的な言い方になるけれど、国民みんなの人権を重んじてそれぞれの意見を尊重しながら、お互いに話し合うことによって分かり合い、譲り合って、結論を一つに導いていくような政治体制、なのよ。
もっとも、話し合いだけじゃ解決できないことも多いし、時間がかかって仕方ないから、最終的な結論を出すときは多数決がよく使われるけどね。
だから、君主制の国でも議会なんかがあって、そこでみんなで話し合ったことが政治に反映されるなら、民主制を取っていると言えるし、共和制でも、みんなが選んだはずの元首が独裁政治を強いてたりしたら、民主制とは呼べない。
……長々と難しいこと語ってごめんね。
私が言いたいのはね、『共和制……つまり民主制』とか言っちゃうごく基本的なこともわかってない人に、『ペトロルチカ独立国』なんて一国家の元首としての資格はない、ってことよ。
過激派組織の代表としては問題ないかもしれないけどね。
私がこういうこと覚えるのに、どれだけ重臣やユートレクトにしごかれたと思ってるのよ。
一つの国家を……たくさんの人たちの命を背負うのには、みんなを守るための膨大な量と質の知識と、間違いを許されない的確な判断力、ささいなことにも気を配る注意力、様々なことに対する忍耐力と、そして……私生活を犠牲にする覚悟がいるのよ。
どれもこれも、私にはまだまだ足りないものばかりだし、最後の『私生活の犠牲』っていうのは私の個人的な事情だけど。
私のことは今はいいのよ。
なにより一番大変なのは、無理やり、勝手に、強引に、そして武力でペトロルチカ独立国の国民にさせられた人たちだ。
浄化だかなんだか知らないけど、そんな個人的な主義主張に国家をからませて、関係ない人たちを巻き込まないでよね!
私が怒りの焚き火を燃やしているところへ、ペトロルチカ代表は更に追い討ちをかけることをのたまった。
「まして、ただの人間が神のごとく国を治める君主制などは、神を超えようと欲する背徳者の行為である。
ペトロルチカは、これらを浄化し全てを神に還すものである。
神の御許に還った世界は、われらペトロルチカによって、清浄なる秩序を取り戻すであろう……!」
今度は私も含めて、君主制の国家元首たちも怒りのオーラをあげる番だった。
誰が『神のごとく』国を治めてる、ですって?
はっきり言えば、世界にはそんな王さまが治めてて悪政強いてる国もある。
だからって、同じようなことをしているあんたに浄化される筋合いはないし、よく聞けばなに寝言言ってるのよ。
『神の御許に還った世界』なんて言ってるけど、結局はあんたたちが世界を治めるって言ってるようにしか聞こえないわ。
ペトロルチカ代表の胸ぐらを掴んで問いただしてやりたい。
あんたたちの神さまって誰なの?
まさかあんたが神さまそのもので、今の姿は人間界での仮の姿だなんて言わないでしょうね?
この発言でペトロルチカ代表は、中央大陸地域全ての国家元首を決定的に敵に回すことになった。
今までの発言だけでは、東方大陸地域に関することにしか触れられていなかったから、いくら私たちが国家元首でも他の地域の会議に無断で入ることはできなかった。
私たちは、とても腹の立つことだったけれど、中央大陸地域の国家の名誉までも損ねる発言を待っていたのよ。
会議室に飛び込むタイミングは、そんな発言が出たときと決まっていた。
たまたま会議が早く終わって昼食を摂りに行く途中、ペトロルチカ代表の暴言を廊下で耳にしたというシチュエーションで。
明らかに見えすぎなシチュエーションだけど、こうでもしなきゃ、東方大陸地域の皆さんもいつまでもまともな会議ができないし、お昼ご飯も食べられないでしょ。
部屋の入り口付近で壁耳していらした皇帝陛下が、壁から耳を離すと無言で私たちに手招きをした。
突入の合図だった。
私も、もちろんついていくことにした。
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皇帝陛下の合図の後、私たちは静かに部屋を出ると、となりの会議室の扉に形式だけのノックをして、室内からの返答を待たずに扉を開けた。
部屋の中からの視線がすべてこちらに注がれた。
それはどれも、安堵の色に満ちていて、早くなんとかしてくださいと明らかに物語っていた。
ただ二つの瞳以外は。
皇帝陛下が見え透きすぎな芝居をうつために、用意していた第一声をあげようとしたときだった。
鳥肌が立つような奇声が私たちの耳を突いた。
それは、明らかに理性のレールから外れた人の声だった。
ぞっとして、反射的に声の方へ身体を向けると、そこにはペトロルチカ代表と思われる人物が立っていた。
独演会に飽きたから奇声を発したとは思えなかった。
私たち中央大陸地域の元首たちが乗り込んできたことで、言葉を発することができなくなるほどに感情が高揚してしまったんだろうと思う。
ペトロルチカ代表は両手を奇妙な形にくねらせながら、天井に向けて何度となく突き上げて、更に何かを叫び始めた。ペトロルチカの『特別な教え』の祈りなのかもしれない。
けれど、どの地域の言葉とも思えない異様な『音』に、彼が理性を失っているとはわかっていても、気味が悪いと思う気持ちを拭い去ることができなかった。
私と同じ風に感じている人も多いみたいで、あからさまに嫌悪感を表情に出している人もいれば、この祈りとも踊りともつかない行為で魂でも取って食われるのではないか、と思っているような顔の人もいた。
誰もが日頃眼にしない狂乱者の振る舞いに身動きが取れない中、これを好機と思う理性だけが目覚めたのか、ペトロルチカ代表はまた意味のわからない声を発しながら、私の方を向いたかと思うと、獰猛な獣のように襲いかかってきた。
な……どうして私なわけ!?
逃げなきゃ、と思って後ろを見たら、ミクラーシュの元首が恐怖に震えた青い顔をしてヘたれ込んでいた。
そうか、私じゃなくてミクラーシュの元首を狙ってるのね。
どおりで変だと思ったわよ。私、あんたと全然面識ないもの、怨みを買われる覚えもないし。
あんたはね、きっと一回気絶した方がいいわ。そういうことにしましょ!
そしたらきっと、目覚めたときには正気に戻ってるわ。
それで万事、めでたしめでたしよ。
ていうかね、自分が襲われかかってるときにね、襲ってくる人の心配なんて、申し訳ないけど私にはできないの。私はそんなに優しくない自己中心的な人間だから。
というわけだから、当分の間気絶して……
「……ちょうだい、それが神の祝福ってもんよ!」
私は周りの皆さんの制止も聞かずに駆け出すと、目についた棍棒らしきもので、ペトロルチカ代表の頭頂部を思いっきしぶん殴った。
これは間違いなく入った、と思うほど痛々しく鈍い音がして、ペトロルチカ代表の動きが止まったかと思うと、哀れな一国の代表は白目を剥いて床に伸びてしまった。
さすがにちょっとだけ申し訳なく思ったけど、そうして気絶している間に、侍医さんたちに診てもらった方がお互いのためだと思う。
ペトロルチカ代表は、他の元首や許しを得て入ってきた衛兵さんたちの手で、運び込まれた担架にロープでくくりつけられ始めた。
一撃で気絶させられなかったら本当に危なかったけど、平民時代から酔っ払いと荒くれ者の相手をしていた賜物ね。
背後でミクラーシュの元首と閣僚代表がしきりにお礼を言ってくれているのだけど、心の中では強気なことを言えていても、やっぱり動揺していてまともな応対ができない。
いえどういたしまして、とんでもありませんわ、どうかそれほどまでにお気になさらないで……とかなんとか言うだけが精一杯で、表情までは取り繕えなかった。
「……陛下、緊急事態です、恐れ入りますが早急に覚書に署名を」
遠くの方で、まだどたばたと物音がしていた。
なぜかペトロルチカの閣僚代表が、この場から逃げ出そうとして取り押さえられていた。
どうして、代表の非常事態に付き添おうともせず逃げようとしたのかしら。
一体どうなってるのかしらね、ペトロルチカって。
「おい、何をぼーっとしている。早く署名をしろと言っているのが聞こえんのか」
担架にくくりつけられたペトロルチカ代表とさるぐつわをかまされた閣僚代表が、衛兵たちと皇帝陛下に連行されていった。
それをほっとした気持ちで見送っていると、眼の前が突然白くなった。
「おぼえ、がき?」
私はその白いもの……紙の一番上に書いてある言葉を棒読みした。
「早くしろ、こちらへ来い」
「な……ちょっ、と、あなた、一体どちらさま?」
さっきから耳の端で聞こえていた声と、その声の持ち主が着ているのを見慣れない格好に、あまりにもギャップがあったものだから、私は腕を引っ張られながらも確認せずにはいられなかった。
「たわけが、俺だ」
そっけなく言い放たれた一言は、間違いなくあの聞き慣れた冷静すぎる低い声だった。
けれど、今のユートレクトはローフェンディアの皇族服を着ていた。
ローフェンディアの皇族服は濃い灰色が基調になっている。
襟や袖口、上着の裾には銀色の線が入っていて、上品でありながら機能的な作りで、実はとても大好きだった。
これを着ていれば誰でも二割増くらいはかっこよく見えるほど、計算されたデザインだと思う。
クラウス皇太子が着ているのはいつも見ていたけれど、普通の皇子さまのものを見るのは始めてだった。皇太子の皇族服のボタンは金色だけど、ユートレクトが今着ている上着のボタンは銀色だった。
他の装飾や左胸の勲章の数も、もちろんクラウス皇太子より少ないけど、それだけに黄金のブローチが燦然と輝いて見えた。
それは『双頭の鷲』と呼ばれる、ローフェンディア皇家の紋章をかたどったブローチだった。
『双頭の鷲』はローフェンディアの国旗や公文書にも使われている、帝国のシンボルともいえる紋章。
月桂樹と交差した剣と槍を背景に、頭を二つ持つ鷲が羽を広げ、左右に向けて炎と吹雪を吐いている。力と栄光を世界に示す象徴だった。
そのブローチ付きのローフェンディアの皇族服を着たユートレクトが、私の腕を引っ張ってどこぞへ連れて行こうとしている。
どこぞって言っても、多分私たちが突入のために待機していたとなりの部屋だと思うけど。急いでいるのなら、手近な空室はあそこしかないだろうから。
私はまだ騒然としている東方大陸地域の会議室を、『皇子さま』に連れられて抜け出した。