嵐の朝1
*
リースルさまの致命的に無邪気な縁談話(?)につきあうこと、体内時計で約一時間半。
なんとかリースルさまをなだめすかして、解放してもらったのだけど。
おかげさまで今日は完全な寝不足だった。
頭痛は寝不足に紛れて治まってるみたいだけど、とにかく頭がぼーっとしている。
『世界会議』も今日で四日目。
折り返し地点とも言える今日は、また閣僚代表と合流しての『各地域首脳及び閣僚代表会議』になる。
……会議中眠らないように、頑張らなくちゃ。
「どうした、故郷寂しさにとうとう顔でペットを飼い始めたか」
第三朝食会場で落ち合った、わが臣下の第一声がこれ。
明日からもっと遅い時間に朝食を摂るようにしようかしら。
そうしたら、人気のないことをいいことに、こんな雑言を浴びせられることもなくなるわよね。
「おはよう……まあ、そんなところよ」
もうね、つっこむ気力も湧いてこない。くまでもセミでも、なんでも目の下で飼ってやるわ。
ああ、セミは止めておいた方がいいわね、鳴くと目の下がうるさそうだから。
そんなことは、どうでもいいのよ。
あんたのおかげで、昨日私がどれだけ責め苦を負ったことか。精神的にも、肉体的にも。
「昨日はリースルに、何もしなかったろうな」
「女同士で何するっていうのよ……あ、そういえば」
私はぼーっとした頭で、奇跡的にあることを思い出した。
「あんた、昨日はよくも私を、侍女の皆さんの笑いの種にしてくれたわね」
「何のことだ」
「あのスリッパのこと、どう説明したのよ。リースルさまの侍女にすっごい思い出し笑いされたわよ!」
「陛下がお使いになったものだ、と言っただけだ。事実だろうが」
今日もわが愚かな履物閣下は、ご健勝らしい。
ああ、だめだわ。反撃する気力が湧いてこない!
朝ご飯を食べたら、少しは攻撃できるようになるかしら。
朝食のおかずをお皿によそいながら窓の外を見ると、庭の木々が激しい風にさらされていた。
雨もまだしつこく降っている。これは……市街地、大丈夫かな。
「ねえ、雨強すぎるんじゃない? 市街地大丈夫かしら」
「大丈夫ではないな」
ユートレクトも険しい顔で窓の外の様子を見ていた。
「ここの市街地って、確か低地だったわよね。こんなに雨が降り続いて川が氾濫でもしたら……
ローフェンディアの堤防がそんなやわな造りだとは思わないけど、どうかしら。心配だわ」
「いや、ここまで雨が降ると保証できんな。堤防が切れる可能性は高い。
兄上や他の皇子たちが、とうに手は打っているだろうが」
と言うわりには、その表情は厳しかった。
「なによ、クラウス皇太子がしてくれるなら安心じゃない。何か気になることでもあるの?」
「ああ……後で兄上に確認する」
なんだろう。クラウス皇太子の目が届かないことがあるかも、ってことかしら。
それきりユートレクトは黙りこんでしまい、黙々と自分のお皿におかずを山盛りにしていった。
私も今日は気兼ねなく、焼きたてパンを十個お皿に取った。
私たちが黙ったまま、二日目と同じ席に陣どって旺盛な食欲を思うままに活動させていると、もしかしたら皇帝陛下より忙しいんじゃないかっていう、恐らく世界で一番多忙な皇太子殿下が私たちのテーブルにやってきた。
「おはようアレク、フリッツ。同席しても構わないかな」
私とユートレクトは即座に返礼して、私はユートレクトのとなりの席をクラウス皇太子に勧めた。(だってそちらの方が上座なんだもの)
「アレク、昨日からどうもありがとう。
今朝リースルのところに寄ってきたのだが、あんな嬉しそうな様子は久しぶりに見たよ。本当に感謝する」
「いえ、とんでもありません。皇太子妃殿下にはとてもよくしていただき、感謝しております。
昨日はわざわざ豪華な夕食の席を設けてくださって、珍しいサンメルカのジュースも頂戴しましたし、湯船までご用意くださって……こちらこそお礼の申し上げようがありません」
『湯船』と言ったとき、目の前の不憫な臣下が、ほんの少しだけ顔をひきつらせたような気がしたけど。
……ふふん。
どう、私ったらリースルさまと同じ湯船に浸かったのよ。羨ましいでしょ!
履物閣下は、いつもの冷静すぎる表情に戻ってクラウス皇太子に訊ねた。
「兄上、市街地の被害状況はいかがですか」
「ああ、弟たちが協力して早くから動いてくれたおかげで、緊急時の避難経路も避難場所もほぼ確保できたよ。後は堤防の補強と……」
クラウス皇太子の歯切れが悪くなったことで、ユートレクトは何か察知したらしい。
「あの地域の避難経路はどうなっています」
履物閣下が口にしたことはクラウス皇太子のアキレス腱だったらしく、世界一忙しい皇太子殿下は、苦笑というよりもっと重い感じのする顔をすると、
「おまえに隠し事はできないな。聞くだけ聞いてもらってもいいか?
アレク、内輪の話で申し訳ないが、構わないかな」
「ええ、もちろんです」
クラウス皇太子のこういう……気遣いというか心配りを、同じ血を引くはずの誰かさんにもぜひとも見習ってもらいたい。
「話を聞いていて、もし第三者として気がついたことがあったら、どんなことでも構わない、遠慮なく言ってほしい。新しい発見があるかもしれないからね」
「わかりました。私で手助けになることでしたら」
「兄上、こん……」
「どうしたフリッツ、何か言いかけなかったか?」
「いえ、なんでもありません」
もちろん私にはわかったわよ。ユートレクトが何を言おうとしたのか。
『兄上、こんな奴に助言を求めても無理です』って言おうとしたけど、さすがにおのれの立場に気がついて自粛したのよね。
そんなこちら側の事情を知るはずもないクラウス皇太子は、ため息を一つつくと、パンをちぎりかけていた手を止めた。
「そうか、では朝から重い話で申し訳ないが、私を助けると思って聞いてやってほしい……」
**
クラウス皇太子が食事の手を止めたので、私とユートレクトもナイフとフォークをお皿に置いて、話を聞く姿勢を取った。
「アレクにもわかるように、最初から話そう」
クラウス皇太子はユートレクトの不服そうな顔をよそに話し始めた。
え、履物閣下が何に不服なのかって?
それはもちろん、自分が既に知っていることを最初から聞かなきゃいけないのが面倒なのよ。しかも私のためにね。
ん? もしかして、それ以外に何か気に入らないことが……
あ。
ただ今私に、神さまが降りてまいりましたわ。
これはクラウス皇太子の陰謀かも、と囁いて去っていかれてしまいましたけど、どういうことかしら。
とりあえずクラウス皇太子のお話を聞こうかしらね。
「わが首都の施政は、いつもは私に一任されているのだが、『世界会議』が開かれているときは、私はそちらに集中しなくてはならないから、各執務を他の成人した皇子たちに任せているんだ」
確かにそうでもしないと身がもたないわよね。
お気楽に出席している私でさえ、頭が回りそうなんだもの。
昨日の『中央大陸縦貫道』の試案みたいに、突発でやらないといけないことも入ってくるし。
「だが、一昨日から雨が止まないのがずっと不安でね。
そこで昨晩弟たちを招集して、堤防の補強作業や、市民たちの避難経路と避難場所の確保をするように伝えたんだが」
「これだけの雨量を見て、緊急事態を自ら兄上に進言することもできなかったのか。他人の指示を待つだけの飼い犬が」
履物皇子に激辛の批評をされている他の皇子さまたちって、一体何人いらっしゃるのかしら。
ローフェンディアは皇子皇女さまがたくさんいるから、成人している方もそこそこいらっしゃると思うけど。
これは聞いてもいいわよね。
「あのクラウス、今ローフェンディアで政治に参加できる皇子皇女さまは何人いらっしゃるんですか?」
「ローフェンディア皇族は、成人男子しか政治に参加できんと以前言っただろうが。今は兄上と俺を除けば十人だ」
あのねえ履物皇子。
あんたに聞いてないのよ、私はクラウス皇太子に聞いたの!
それに、ローフェンディアの皇族の誰にどう政治の発言権があるかなんて、聞いたことあったかしら。
多分あったのね、私の記憶がないだけで。すみませんね不出来な主君で。
非礼な弟の姿を見て、心優しい兄上はきちんと諭してくれた。
「フリッツ、今の発言は主君たるアレクに対して失礼だろう。謝罪しなさい」
「兄上、今にわかります。奴が主君扱いするに足りぬものだと……話を続けてください」
おいこらちょっと待ちなさいよ!
さっきまで自粛してたのに、なんなのその態度?
仮にも私は陛下と呼ばれる身なのよ。それを『おまえ』だの『奴』呼ばわりして。
いつものことと言われればそれまでなんだけど、なんか釈然としないものが残るわよ。
あのね、もう一度確認させてもらってもいいかしら。
私って、一応女王だったわよね?
『女王』とか『陛下』って、他の人たちにも何回も呼ばれてたわよね!?
ありがとう、これで当分の間乗り切ることにするわ……
私のげんなりした顔を見て、クラウス皇太子は優しく聞いてくれた。
「アレク、いつもこんな調子なのか?」
「はい、もういいんです、お気遣いありがとうございます。どうぞお話を続けてください……」
私が力なく言うと、クラウス皇太子はなぜか笑って話を戻した。どうして笑うかな。
「ほとんどの地域の避難経路と避難場所が確保できたことは、先ほど言った通りなんだが、一か所だけまだ避難の目処が立っていない地域があるんだ」
それが、さっきユートレクトが言っていた『あの地域』のことかしら。
「そこの担当は誰です」
ユートレクトが気圧の低い声で訊ねた。
「彼だよ。最近特に協調性に欠けることが目についてね。正直なところ、私も陛下も打つ手がなくて困っているんだ」
「この非常時に、あいつがあの地域の担当とは。
兄上、この際成人でなくても構わないでしょう。誰か他の皇子に任せた方が、まだましだと思いますが」
「そう思って、昨夜ラルフに頼んでみた。社会勉強だと思ってやってみないかと言ったら、喜んで引き受けてくれたよ。
ラルフはまっすぐで正直な子だ。ただ、なにぶん経験がない。そこが気がかりでね」
ローフェンディアくらい大きな国になると、首都の大きさも半端じゃないから、市民を避難させるのもとても大変だと思う。十人がかりでも追いつかないなんて。
ていうか、指揮するのをごねてる皇子さまってどうなのよ。
私の目が不満色に染まりかけているのに気づいたのは、履物皇子だった。
「愚かな弟一人のおかげで、避難が遅れそうな場所があるのだ。だが、そんな奴には構っていられん。
ラルフというのはまだ十八歳だが、未成年の中では一番年上の皇子だ。あいつなら、兄上のおっしゃることを聞いて、帝国の皇族として恥じるところなく行動できるだろう」
「愚弟の名前は伏せさせてもらうよ、わが帝国の恥でもあるからね」
どうして困り者の皇子さまの名前は教えてくれないのか、その理由は大体わかる。
ローフェンディア宮廷は陰謀が多いから、クラウス皇太子の手助けをしないことで、足を引っ張ろうとしている皇子さまもいるってことよ。
その皇子さまの後ろには、母上である皇妃さまや側室の方がいて。
更に後ろには、皇子さまたちには祖父にあたる、ローフェンディアの大貴族や他国の王さまが控えている。
ローフェンディアくらいの大国になると、『側室でも構わないから繋がりを持ちたい』と考えて、娘を嫁がせる王さまもいるのよ。
皇帝陛下も、国内の貴族の娘の息子ならまだしも、一国の王の娘の息子となると、力関係にもよるけど下手に扱えない場合もあるのよね。
例えば、うちくらい小さい国のお姫さまの子供だったら、外交どうのこうの考えずに手荒くしつけても問題ないはず。
でも、大きな国のお姫さまの子供となると、例えばだけど、皇子修行だからって、戦火のまっただなかに放り込んだら、『うちの娘の息子になんてことをするんです! 戦死させて、後継者から外すおつもりか!』とか言って、文句をつけてくる王さまもいるらしいのよ。
その困った皇子さまもきっと、多少力のある国のお姫さまの息子なんだと思う。
だからクラウス皇太子も皇帝陛下も、厳しく言えないんだわ。
もし、私がその皇子さまの名前を聞いたら、その皇子さまと母君の国に対してマイナスの感情を持ってしまうかもしれないから、二人ともあえて名前を伏せてる、ってわけよ。
……ところで、その困った皇子さまが担当している地域って、ユートレクトもさっきから心配してたけど、どんなところなのかしら。
よっぽど低地で浸水の可能性が一番高いから、その皇子さまも行くのいやなのかしら。
そう思って、なにげなく聞いてみたつもりだったんだけど、クラウス皇太子の返答は私の予期しないものだった。
「その地域はね……疫病患者の病棟や、軽犯罪者の牢獄、貧民街のある区域で、訳ありの者たちの隠れみのともなっている場所なんだ。
この地域にだけは立ち入りたくない、と言ってね。
他の皇子と担当を交代させようともしたのだが、誰も首を縦には振らなかった。わが弟たちながら、情けないことだ」
「そういうことですか……」
クラウス皇太子の沈痛な声に、自分から聞いておきながらそうつぶやくことしかできなかった。
なんてことだろう。
貧しい人たちや、疫病にかかっている人たち、罪を犯した人たちや、日の光を浴びて歩けない事情がある人たち……そんな人たちがひっそり住んでいる場所。
そこに飛び込めば、支配者の側に立つ自分たちは責め立てられ殺されるんじゃないか、と後ろめたさに脅えたり、もっとひどければ、そんな人たちを見ただけで疫病が移ると思ったり、自分が汚れると思ったりしているかもしれないんだわ。
私はテーブルの下で、両手を握りしめた。
世界最強のローフェンディア帝国の皇族たちが、そんな情けない考えをしているなんて思わなかったから。
どうして、自分の民たちにそんな区別をするの? 命はみんな同じ重さなのよ、かけがえなく重いのよ。
「ラルフには誰が指示を出すのです」
「私が一通りの指示はしてきたが、予期せぬことが起こったときは、対応できないかもしれない。
そのときは、私にすぐ連絡するように言ってあるが」
「そうですか。多少情報は遅くなりますが、他の奴らに頼っている方が時間の無駄でしょうから仕方ありませんね」
ちょっと待ってよ。
『世界会議』で缶詰になっているクラウス皇太子に指示をもらうよりも、同じように市街地に出ている他の皇子さまに相談した方が早いはずなのに、それをラルフ皇子にさせられない状態なの?
ローフェンディアの皇子さまたちって、そんなに頼りないってこと?
もしクラウス皇太子と連絡がうまく取れなくて、指示が遅れたりしたら……市民に被害があったらどうするのよ。
今一番重要なことは、市民を確実に守ること。
そのためには体裁なんて関係ない、どんなことだってしなくちゃいけないはずなのに。
クラウス皇太子の顔色は、おせじにもいいとは言えなかった。
昨日もほとんど寝ていないのだと思う。リースルさまのことも心配なはずなのに。
……そっか、わかったわ!
神さまが私に囁いた言葉の意味が。
さすがクラウス皇太子、だてに履物皇子の兄上やっていらっしゃらないわ。
そのために私に話を洗いざらい聞かせてくれたわけね。
そういうことなら、もちろん協力は惜しまないわ。
「仕方ありませんね、じゃないわよ。なに他人事みたいに話してるのよ」
そうよ、なんかおかしいと思ってたのよ、ユートレクトの発言が。
奴もクラウス皇太子の陰謀を察知したんだわ。
だから私の注意をそらせるために、わざといつもの言葉遣いで話したりしたのね。
でも、気がついちゃった。うふふ。
私は自分の頭をなでくりまわして褒めたくなるような名案を、今から言おうとしている。
「は?」
よくお聞きなさいよ、履物皇子。
「あんた、自分では皇籍は返還したって言ってたけど、まだしっかりローフェンディア第二皇子よね。
あんたなら、ラルフ皇子のお手伝いをすることくらい朝飯前でしょ。
クラウス、どうでしょう。
貴国さえよろしければ、今日だけでもこの放蕩皇子を、貴国の皇子として酷使してやってくださいませんか?」