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幼なじみ1



 なんとか午後からの会議に間に合った私は、表向きは何食わぬ顔で会議に臨んだけど、かかとが痛くて痛くてたまらなかった。

 今度は出血するよりもたちが悪い、水ぶくれができてきたのよ。


 あの、べ……じゃない履物男!


 さすがに『便所用スリッパ』は、最高位の淑女がそう頻繁に使うべき用語じゃないから、自粛しておいてあげるわ。

 明日会ったら、覚えてらっしゃい!


 今の私は、リースル皇太子妃に夕食の席にご招待されて、ローフェンディア王宮のとある一室に向かっているところ。


 予定より三時間も延びた会議が終わって、へろへろになって『清き泉の間』を出たら、皇太子妃が私との夕食をご所望なので『なんとかの間』にお越しください、っていう言伝を受けたのよ。


 それで、迷いながらどうにか皇太子妃の居住区までたどり着いて、衛兵らしき人に名前を告げたら、ご丁寧にもその『なんとかの間』まで案内してくれるというので、衛兵さんの後ろにひっついて歩いてるところ。

 おかげで『なんとかの間』の名前は忘れちゃった。


 もちろん、今はかかとをしっかり脱脂綿で補強してる。ここに向かう前に、お手洗いで作業したのよ。

 脱脂綿をかかとに詰めすぎて、今度はつま先が痛いけど。


 今日から五日目の夜までは、一堂に会しての晩餐会とかは催されない。

 六日目……つまり最終日前夜に盛大な大舞踏会が開かれるまでは、会議の後はどう過ごそうと自由になっている。

 意気投合したお偉いさんたち同士、お酒を飲みながら交渉ごとをしてもいいし、私みたいにとっとと退散しても構わなかった。


 それにしても、このハイヒールという靴はどうにかならないものかしら。

 ヒールのない靴も持ってきたのだけど、トランクと一緒にリースル皇太子妃の私室に運ばれちゃってるのよね。


 そうこう考えてるうちに『なんとかの間』に着いたらしく、衛兵さんが明るい色の扉を三回ノックして私を連れてきた旨を告げると、


「どうぞ、お入りになってください」


 柔らかくて心が洗われる声がした。リースル皇太子妃の声だった。


 扉が開かれたので私は衛兵さんにお礼を言うと、いよいよ再びリースル皇太子妃とご対面することになった。


「リースル皇太子妃殿下、遅くなり申し訳ありません。アレクセーリナ・タウリーズ、ただ今参りました。

 今日はお招きくださり、誠にありがとうございます」


 私のいでたちは、会議が終わって直接こちらに来たので、色気もへったくれもないものだった。


 いつも通り一つにまとめた髪は、今日は青色の髪どめで留めている。

 ライトグレーのスーツの下に薄い水色のブラウス、足には何の飾りもない黒いハイヒール(かかとに多少の加工あり)を履き、会議の資料が入った重い金属製のかばんを持っている。

 唯一アクセサリーと言えるのは、センチュリア王家に伝わるオーリカルクの原石がはめ込まれたペンダントくらい。


 一方のリースル皇太子妃は、淡い黄色のドレスがとてもよくお似合いで輝くばかりの……

 あれ?

 よく見ると、アクセサリーや髪飾りはつけていなかった。

 そうね、美人は何もつけなくても存在だけで美しいのよ。


 私が挨拶をすると、リースル皇太子妃はわざわざ私の方まで歩み寄って出迎えてくれた。


「お疲れさまでした、アレクさま。よくいらしてくださいました。ありがとうございます。

 さあ、どうぞこちらにおかけになって。お気を遣われずに、楽になさってくださいましね」


 アレクさま、と呼ばれて私は思い切り恐縮した。


 リースル皇太子妃からふんわりと上品な花の香りがした。

 その香りは、おじさまに囲まれていたおかげで、おっさん化しつつあった私の心を和ませてくれた。


 誰よ、『心だけで済むの、おっさん化?』とか言ったの。


 今日はリースル皇太子妃に免じて許してあげるけど、今度そんなこと言ったら、誰かさんと同列に履物呼ばわりするからね。


 うーん、女の子はやっぱりこうでなくちゃね。

 リースル皇太子妃にお目にかかって、改めて思う。

 私から加齢臭の移り香がただよっていないか、気になってしまうじゃないの。

 (お偉いさんたち、ごめんなさい!)


「お荷物は……預かって差し上げてね。

 この度は、わたくしのためにご面倒をおかけして、本当に申し訳ありません。

 お詫びのしるしにもなりませんけれど、せめてものお礼に、今夜はアレクさまの大好きなものを揃えましたの。お好きなだけお召し上がりくださいましね」


 リースル皇太子妃は、お付きの人に私の荷物を預かるようにやんわりと指示しながら、私を優しく席につかせた。そして私の対面に座ると、天使の微笑みで私をねぎらってくれた。


「お飲み物は何になさいますか? 野いちごジュース、ぶどうのジュース、オレンジのジュース……ああ、そうだわ、珍しいサンメルカが手に入ったので、そのジュースも用意できますわ。

 よろしければお飲みになりませんか? わたくしもサンメルカは始めていただくのです」


 リースル皇太子妃は私がお酒を飲めないことを知っているらしかった。

 しかも、用意してくれている飲み物は、全て私が大好きな果物のジュースばかりだった。


 私は遠慮なくサンメルカのジュースをお願いして、


「サンメルカはこの季節が旬でしたか」

「ええ、今年は豊作だったので、農家から献上された量も多かったのですって。

 それでわたくしにも皇帝陛下からおすそわけがあったのです」


 リースル皇太子妃にかかったら、あの皇帝陛下もかたなしなんだろうな。

 そんな風に思わせる笑顔を、絶やすことなく私に向けてくれる。


 でも、きっとリースル皇太子妃は、誰に対しても自分から何かをおねだりしたりすることは、ほとんどないだろうという気がした。慎ましさ……私には全くない美点。


「ごめんなさい、先程フリッツに、アレクさまのお好きな食べ物を聞いたのです。

 失礼があってはいけないと思ったのですけど、お気を悪くされたら申し訳ありません……」


 いや、あの……どうして謝るんですか?


 私に内緒で私の嗜好を探ったことを、悪いことだと思っていらっしゃるみたいなんだけど。


 ありえない。

 なんて慎ましい、細やかな心の持ち主なんだろう。


「とんでもありません、お心遣い感謝します、皇太子妃殿下」

「ありがとうございます。そうですわアレクさま、わたくしのことはどうぞリースルとお呼びになってくださいましね」


 このやり取り『世界会議』に来てから何回かしてるけど、みんな自分のことを名前で呼んでと言いながら、どうして当のご本人は私を敬称付きで呼ぶのかしらね。


 私はもちろんありがたく了承し、私のことも『さま』抜きで呼んでくださるようにお願いした。

 すると、リースル皇太子妃はとても嬉しそうに、


「ありがとうございます、アレク。

 わたくしもフリッツも、本当にあなたと会えてよかったと思いますわ。

 これからも、どうぞ仲良くしてくださいましね」


 ええ、もちろんリースル皇太……面倒だからここからはリースルさまって呼ぶわね。

 もちろん、リースルさまと仲良くするのは問題ないんだけど、なんであの履物男が出てくるんだろう。


「わたくしとクラウスとフリッツは、幼なじみなのです。

 わたくしの兄が、クラウスの学友として小さい頃から仕えていたので、それで二人と知り合って。

 フリッツはあの通りの性格なものだから、他の皇子たちとは全くなじまなくて、クラウスがいつも無理やりあちこちに連れ回していたのです」


 ふーん。昔から取扱注意の性格だったのね。

 それをあちこち引き回すことができたなんて、クラウス皇太子は一見優しそうに見えるけど、ただ者じゃないと思う。


「クラウスと兄が二人で家庭教師に与えられた課題を始めてしまうと、わたくしとフリッツが取り残されてしまって。

 わたくしは人見知りをしてしまうし、男の方には構えてしまうので、フリッツにも自分から声をかけることはできませんでした。もちろん彼も……

 あら、サンメルカのジュースがきましたわ、なんて綺麗な色なんでしょう!」


 運ばれてきたサンメルカのジュースは、淡い夕焼けのような色だった。

 小さい頃の記憶の中に残る、夕焼け空と同じ色をしていた。



**



 リースルさまは一度話を止めると、サンメルカのジュースを口にした。私も続いて一口いただいた。

 舌の上ではとても甘く感じたのだけど、不思議なくらい爽やかに喉を通っていった。

 学校の帰り道に公園の花を摘んですすった蜜の味を思い出した。そんなもの飲んだことないと思われるリースルさまには、説明できないけど。


「アレク、フリッツとわたくしは、似たもの同士なのです」


 はい?


 今、なんとおっしゃいましたか。

 あの履物男とリースルさまが、似たもの同士!?


 ありえない。

 絶対に、間違っても、この世界がどうひっくり返っても。


「そ、そんな、とんでもないです!

 リースルがあんな、べん……じゃなくて、えと、いえ、その……」


 驚きのあまり、考えるより声が先に出てしまった。

 しかも、とんでもない単語が口から出るのを止めるのに必死で、その後がしどろもどろになってしまった。


 だけど、リースルさまはそんな最高位の淑女とはとても思えない振る舞いの私を、暖かくて澄んだ目で見て首を振った。


「いいえ。フリッツも、今でこそあんなに人当たりがよくなりましたけど、昔は本当に人見知りする子だったのです。今でも心の中では、あまり人と関わりたくないと思っているでしょう」


 『あまり人と関わりたくないと思っている』というのはわかるような気がする。センチュリアにいるときでも、重臣たちの飲み会には絶対出ないし。


 でも、あれで『あんなに人当たりがよく』なったんだったら、その昔……二十数年前は、どれだけかわいくない子供だったんだろう。

 そんな子供、クラウス皇太子はよく仲良くしてやってたわね。私だったら、石ぶつけて、体当たりして上から乗っかって……想像が膨らみすぎるからこのへんでやめとこう。


 とりあえず、


「そうだったんですか」


 とだけ言っておく。


「でもねアレク、わたくし、あなたには何か親しみを感じたのです。

 こんなことを申しあげると、失礼かもしれないですけれど。

 わたくし、クラウス以外の人とこんなにお話したのは、本当に久しぶりなんです」


 親しみやすいのは平民出身の血のせいかもしれないけど、そんな風に思ってもらえると純粋にとても嬉しい。


「ありがとうございますリースル。そうおっしゃっていただけると、私も本当に嬉しいです」

「ですから、フリッツもきっと、わたくしと同じように感じていると思うのです、あなたのことを」


 あの、リースルさま。

 リースルさまの方が、奴とはつきあいが長いとは思うんですけど。


 あの履物男が私に親しみを感じるなんて。


 それはたとえ、牛が空を飛んだとしても、ムカデが直立二足歩行になったとしても、ないと思います。


 これを、失礼のないようにしたつもりでお返事するとこうなる。


「リースル、お言葉はとても嬉しいのですけど、ユートレクトが私に親しみを持っていることはないと思います。

 私的な話をしたこともほとんどありませんし、なにぶん私はできの悪い君主ですから」


 だけど、リースルさまのあらぬ思い込みは、彼女なりの裏づけがあってのことらしかった。


「いいえ、そんなことありませんわ。

 だって、アレクの好き嫌いを聞いたときのフリッツったら、とても面白かったのですよ。

 『あいつになど、何も食わせてやることはない。そうだな、昨日の晩餐会の残飯でも与えておけ』

 こんな顔をして言うものだから、おかしくておかしくて……」


 リースルさまはユートレクトをまねているとおぼしき声色と顔つきを作った。

 奴など足元にも及ばない、暖かい声と無垢な表情だった。


 わかるのは、ユートレクトが言ったことは間違いなく本心だということ。


「そうなんです、彼は私を、よくて不出来な弟子か、せいぜい物覚えの悪い飼い犬ぐらいにしかに思っていないんです」

「それは違いますわアレク。その後フリッツはきちんと、あなたのことを教えてくれたのですもの」


 リースルさまのあらぬ思い込みの裏づけは執拗だった。


「お酒は絶対にだめ、お薬を飲んでいらっしゃるからだと聞きました。

 出されたものはなんでも召し上がるけれど、人参だけは少し苦手なのでしょう?

 鶏肉と青魚、お豆の入ったサラダ、かぼちゃやとうもろこしの濃厚なスープが特にお好き。

 デザート類には目がないと聞きましたから、今日のデザートは二人分の量にしましたのよ」


 なんで薬のことまでリースルさまに言うのよ。

 ていうか、そもそもどうして私が薬飲んでること知ってるのよ。


 薬というのは、私のまだ治っていない病気の治療薬のこと。

 毎朝食後に欠かさず飲まないといけなくて、この治療薬を飲んでいるあいだはアルコール類を口にすることができないの。まあ、私はもともとお酒弱いからほとんど飲まないんだけどね。


 以前、病状が深刻だったときは今の三倍の量の薬を飲んでいたけど、そのときも当然お酒はだめだった。

 ローフェンディアに着くまでも、着いてからも、いつも絶対にユートレクトのいないところで飲んでいたはずだった。


 主治医は今回、絶対口を割ってないと思うから(ばらしたら即刻解雇、医師免許没収するって脅してる)、今回のローフェンディア行きかそれより前に、何かの拍子で見られたんだわ。


 そんな私の動揺を知ってか知らずか、リースルさまは、


「これからもフリッツのことを、どうぞ宜しくお願い致します」


 と私に頭を下げたのだった。私は慌てて、


「いえ、とんでもありません、どうぞお顔をお上げください、リースル。

 私の方こそ、いつも彼に迷惑をかけてばかりで……これからも主君として、できる限り力になりたいと思います」


 と応えたけど、その後から妙な感覚が胸を埋め始めた。

 それが言葉になるほどに育ってしまったとき、


 『どうして私が、あなたにユートレクトをお願いされないといけないの?』


 という小さなうめき声になって、私の心を暗くした。


 ユートレクトの気持ち知ってるの?

 どんな気持ちでいつもあなたに接しているか。

 心の奥にずっと隠して、これからも過ごしていくんだよ?

 あいつのことだから、絶対誰にも言わないもの。

 あんな目をして見てしまうほど、あなたのことが好きなのに……


 そんな風に考えた自分がとてもいやだった。


 リースルさまに目を向けて、自己嫌悪が余計にひどくなる。


 心でいやなことを考えても、リースルさまのことはなぜか嫌いになれなかった。

 私より年上のはずなのに、あどけなさの残る顔をしたこの女性は、人間の負の感情を知らないんじゃないかと思うくらい、無垢な微笑みで私を見つめている。


 リースルさまに悪意がないことは確かだった。

 行き場をなくした悪意は、私自身に牙を向き、私を闇に落としていく。


 そう……もし、あいつの気持ちを知っていたとしても、知らなくても、どうにもならないことなのに。

 リースルさまは何も悪くない。

 あとはあいつが、自分でなんとかするしかないこと。


 でも、私は見てしまった。知ってしまったから。


 どうすれば思いを昇華させてあげられるんだろう、と考えてしまう。

 私がどうこうできる問題じゃないのに。

 それが私には、何より悔しいのかもしれなかった。


 前菜のオードブルの匂いがしてきた。

 どこにも持っていけない気持ちとひどくなってきた頭の痛みが、食欲に紛れてくれることを願った。



***



 リースルさまがせっかく用意してくださったありがたいはずのディナーの味は、結局よくわからないまま食事は終わり、私はリースルさまの寝室に通された。


「クラウスからお聞きしたとおり、ベッドは別に用意させました。

 実はわたくしも、寝相があまりよくないものですから、アレクを蹴らないで済むと思うと安心します」


 リースルさまは、相変わらず笑顔を絶やさず話しかけてくれる。


「意外です。失礼ですが、お休みになられたら、朝まで少しも動かれない雰囲気がおありですのに」


 表情と口調だけは平静を保っていたけれど、いやな思いは重たいまま心の中に残っていた。頭痛もまだ治まってくれない。


 リースルさまの寝室は、世界最強最大の国の皇太子妃のものにしてはこぢんまりしていて、華美なところもなく、慎ましいリースルさまの性格がそのまま表れているようだった。


 ピンクと白を基調とした調度類はどれも清楚でかわいらしいものばかりで、普通の女の子だったら、一度はこんな部屋で暮らしてみたい! と思うこと間違いない『夢のお部屋』だった。


 それでも、栄華をほしいままにしている帝国の皇太子妃のお部屋にしてはずいぶん質素だと思う。姉上の部屋は、もっと色々なものがごてごてと置いてあって、まるでお金が部屋に飾られているみたいだったから。


 確かに姉上とリースルさまは小柄で美人、出るところは出ているところは似てるけど、それ以外の共通点はほとんどないと思った。

 リースルさまが高原の小鳥なら、姉上は孔雀みたいに華やかというか派手というか……


 ユートレクトは、姉上の何がストライクだったのかしら。

 きっと絵姿だけの判断だったのね。

 今では姉上の名前をこれっぽっちも口にしないから、恐らくいつかの『世界会議』で姉上と遭遇して、リースルさまとは似ても似つかないことを察知したに違いないわ。


 部屋の右側には天蓋がついた華奢なベッドがあり、その手前に私が寝ると思われるベッドが置かれていた。

 リースルさまのベッドにも私のものと思われるベッドにも、レースとフリルがたくさんついた枕が乗っていて、私の久しく眠っていた乙女心を揺さぶった。


 センチュリアでは、こちらに来るまで本当に忙しくて、執務室のとなりの仮眠室的な部屋で寝泊りしてたから、色気もへったくれもない寝心地の悪いベッドでしか眠っていなかった。

 こちらに来てから泊まらせてもらってた部屋も、少しベッドが大きく高級になっただけで、決して女の子仕様ではなかったし。


 久しぶりに乙女気分で眠りにつけそう!


 これはきっと、おじさまたちと履物男に囲まれてひいこら言っている私に、神さまとリースルさまが与えてくださったご褒美なんだわ。


 わ、私に似合わなくてもいいのよ。寝てるときなんて誰も見てないんだし。

 眠りにつくまでの自己満足というか、なんというか……


 私だって寝るときくらい、女の子したっていいじゃないのよ。


「アレクには、こちらのベッドで寝ていただこうと思うのですけれど、お布団の軽さですとか、枕の具合はこちらでよろしいですか?」

「はい、もう十分過ぎるくらいです! お気遣いありがとうございます、リースル。今夜はいい夢が見られそうです」


 私は小市民根性丸出しで、布団をさすったり枕を抱きかかえたりしながら応えた。

 それを見ていたお付きの侍女たちが、くすくす笑っている。


 侍女の一人が私の方にやってきた。

 昼間、私の部屋で荷物を整理した侍女かどうかは……あのとき遠目にしか見なかったのでわからないけど、恐らくはそうだと思う。

 他の侍女たちより年かさに見えるから、この人が侍女長かもしれない。


「女王陛下、お荷物はこちらに……す、すべてお持ちしております。

 お着替えやお化粧直しは、こちらの別室をお使いください」

「どうもありがとう、感謝します」


 ねえ侍女長(仮)さん。

 どうして途中、言葉が途切れたわけ?

 思いっきり笑いを我慢してたでしょ。


 あの履物男、何を言いふらしたのかしら。

 明日会ったら、きっちりみっちり聞いてやるんだから。


 『便所用』スリッパの姿はどこにも見当たらず、私は昼間会った純朴な兵士の皆さんに心から感謝した。


 でも……よかった。

 リースルさまが用意してくださったベッドと『便所用』スリッパのおかげで、心が軽くなったわ。


 リースルさまは私の喜びが落ち着くと、待ってましたと言うように再び愛らしい唇を開いた。


「ではアレク、先にお湯を浴びていらしてください。今日もお疲れになったでしょう?

 今日はアレクがいらっしゃるので、湯船も張りましたのよ。

 わたくし専用の浴場ですから、気兼ねなく長湯してくださいましね」


 え、リースルさま専用のお風呂? おまけに湯船まであるの!?


 さすがローフェンディア帝国の王宮は違うわね。うちの王宮なんて、宿直の文官武官が使う共同浴場にしか、湯船なんてないのに。


 先代国王までは専用の浴場があったんだけど、閉鎖したのよ私が。だって、維持費がすごくかかるんだもの。

 今は湯船に浸かりたくなったら、夜中にこっそり女性用の共同浴場に行っている。

 最近、湯船にゆっくり浮かぶ暇もなかったから、これもとてもありがたかった。


「湯船などいつ以来入っていないでしょう……ありがとうございますリースル。ではお先に頂戴します」


 先に入ってもいいのかな、と少し思ったのだけど、私は一応ここでは客人扱いだと思うので、ありがたくお先に入らせてもらうことにした。


 早速自分のトランクを開けていそいそとお風呂セットを取り出し、替えの下着や寝巻きはどのトランクだったかな……と探し始めたときだった。


 部屋の扉がノックされた。

 侍女長(仮)さんが応対に出ると、私を呼んだ。


「女王陛下、宰相閣下がお話があるそうで、別室までご足労願いたいとおっしゃっているのですが、いかがいたしましょう?」


 なんだってあの男は、いつもいつもタイミング悪く現われるんだろう。


「わかりました、すぐに参ります。

 ……リースル、少し話を聞いてきてもよろしいでしょうか?

 今日の会議の報告だと思うので、今日中に聞いておいた方がよいかと思うのです」


 せっかく湯船まで用意していただいているのに申し訳ありません、どうぞお先にお入りください、とつけ加えると、リースルさまは純粋無垢な笑顔で、


「はい、わかりました。わたくしのことはご心配なく、ゆっくりお話なさってくださいましね。

 アレク……お帰りをお待ちしています」


 ああ、この天使の笑顔に見送られるクラウス皇太子は本当に幸せ者だわ。

 なんだか、リースルさまの恋人になったような気分だもの。


 なるべく早く戻ります、と男らしく言うと、今日の会議の資料を片手にリースルさまの寝室を出た。


 窓から外の様子を眺めていたユートレクトは、私の姿を認めると挨拶もなしにすたすた歩き始めた。

 雨はまだ降り続いていた。


「何のご用かしら、履物閣下?」


 かかとの水ぶくれに心の中でうめきながら歩きつつ、衛兵さんたちがいなくなったところで、私はとっておきの称号をユートレクトに授けた。


「何だそれは」

「なんだったらスリッパ閣下でもよくてよ。最終兵器的な呼び名は、女王として自粛するけど」


 けど、私のささやかな攻撃はこの男には全く通用しなかった。


「さっさと来い、今日の会議の進捗状況を聞かせてもらうぞ」


 そう言うと、憎たらしいほど長いコンパスでさっさと歩き始めた。

 慌ててついて行こうとして、私は自分の足の悲壮さに気がついた。

 かかとの水ぶくれたちが、今にも破れそうだった。


 うわ……もうだめ、限界寸前だわきっと。

 お願いだから、そのへんの適当な部屋で勘弁して!


「ちょっと、どこまで行くつもり?

 私にはリースルさまをお守りするという、重要任務があるんだから」

「俺の私室だ」


 誰の……あんたの私室ですって?


 ここで私の思考回路は止まってしまった。


 私はすたすた歩くスリッパ閣下の後を、まるで機械のようについて行くことしかできなくなった。

 かかとの水ぶくれたちは、目的地に着くまでに無残に破裂した。

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