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履物と私*



 世界の最高位に就く紳士たちとのランチが済んで歓談に入ったとき、私は少し暇をもらって席を外すことにした。


 思い出したのよ。

 昨日わが宰相閣下が授けてくださった『便所用』スリッパが、まだ私の部屋にあるのを!


 あれだけは何としても処理しておかなきゃならない。

 本当なら、今日の夕食のときにでも返しに行こうと思っていたのだけど。


 私は足の靴ずれと戦いながら、自分にあてがわれている部屋に急いだ。




 話は今朝にさかのぼる。


 クラウス皇太子から、今日から『世界会議』の期間だけで構わないから、リースル皇太子妃の部屋で寝泊りしてもらえないか、とお願いされたときのこと。

 快諾したまではよかったんだけど、その後荷物の移動の話になったときに、


「荷物はリースルの侍女に整理させて衛兵に運ばせるから、会議が終われば、アレクは身一つでリースルの部屋に来てくれればいい。

 ん、部屋の鍵? マスターキーがこちらにあるから心配はいらないよ。今持っている鍵も、今晩リースルの侍女に渡してもらえばいい」


 と言われて素直に、


「ありがとうございます、お心遣い感謝致します」


 『便所用』スリッパの存在をすっかり忘れて答えてしまったのに気がついたのは、先刻、皇帝陛下仕様の豪華絢爛なランチが目の前に置かれてからだった。


 だってね。

 リースル皇太子妃の侍女たちが私の部屋に入るまでに、あのやたら巨大な『便所用』スリッパを部屋から排除しておかないと、何を言われるかわからないじゃない。

 今のままだと、私の荷物を取りに来たリースル皇太子妃の侍女たちが、


『この女王さま、酔っ払って紳士用のお手洗いに入って、そのままスリッパを履いて部屋に戻ってきたのかしら。

 そんな無知なお方とリースルさまがお部屋をご一緒にするなんて、なんて野蛮なことでしょう』

『いやですわ侍女長さまったら、くすくすくす……』

『田舎の王族さまとはやはりこの程度なのですね、オホホホホ……』


 私の散らかった部屋を見ながら、きっとこんな会話をするに違いないのよ。


 卑屈な想像でいやだけど、ローフェンディア帝国の人たちから見れば、センチュリアは『山奥の田舎の小国』にすぎないのよ。たとえオーリカルクの産出国だろうと、世界で一番最初に神々が降り立った土地(伝説だけど)だろうとね。




 というわけで、私は結構急いでるの。午後の会議が始まるまで時間も限られているし。

 なのにさっきから、両足のかかとの靴ずれたちが容赦なく私を襲ってくる。

 靴とかかとの間に挟んでおいた脱脂綿は、私の足の動きが早くなるたびにそのクッション性を失ってくる。


 痛いのよ、本当にもう!


 と、そこへ幸運なことに、この諸悪の根源ともいうべき人物が、奥の廊下の角から一人で現われた。


「ゆ……!」


 私が呼び止めるまでにその人物はこちらに気がつくと、相変わらずの冷静すぎる顔でこちらに近づいてきた。


「陛下、こんなところで何をなさっておいでです?

 そちらの元首会議は、皇帝陛下ご同席の昼食会と聞きましたが」


 何もなければ、今日はランチのときにユートレクトと落ち合う予定だったけど、急遽こちらの予定が変更になっても、わざわざ私からユートレクトに知らせなくても大丈夫なのよ。

 お互い流動的な会議の中で動いているので、その手の連絡が取れないことはわかっているし、言伝なんて頼まなくても、今みたいに会議の様子は確実に噂で流れるから心配ないんですって。


 それはさておき。


「ユートレクト、実はお願いがあるの……」


 私は精一杯可憐を装って、両手を胸の前で組んでみせた。


「何事ですか、そんなに目を血走らせて」


 だめよ。

 今は怒っちゃいけない。

 なんとかして、あの『便所用』スリッパを処理してもらわないと。


「これでわたくしの部屋へ入って、昨夜の……あの履物を取ってきてくださらないかしら。

 そして、元の場所へ返しておいてもらいたいの」


 私は自分の部屋の鍵をユートレクトの目の前に差し出した。

 ユートレクトは様子からして、今しがた会議が終わったところみたいだから、この程度のことをする時間はあるだろう。本人にその意思があれば、だけど。


「あの履物、とは?」


 その意思、まるで皆無っぽいこの口調。

 私の可憐モードは、人目をはばかりながらも早々に崩れてきた。


「とぼけないでちょうだい! 昨日私に貸してくれた、紳士用の」

「ああ、あれですか」

「そうよ、お願いだから、あれをどうにかしてちょうだい。

 私はもうそろそろ会議に戻らないといけないし、足が痛くて、とてもあそこまで歩けそうにないのです」

「しかし、なぜ今戻さなくてはならないのです。会議が終わった後でもよろしいでしょう」


 そういえば、まだ事情を話してなかったっけ。

 ユートレクトも、私の栄誉を知れば、きっとあのスリッパをなんとかしてくれるだろう。


 私はクラウス皇太子からのご依頼を包み隠さず話した。


「……ほう、陛下が」

「そうよ」

「皇太子妃殿下のご寝所で、寝泊りを」

「そうなのよ」


 話を聞いたユートレクトは、心ここにあらずという感じで、単語をおうむ返しにするばかりだった。


「陛下が……」

「ええ」

「皇太子妃殿下と……」

「そう、リースル皇太子妃殿下よ」

「寝室を共に……」

「そうよ、名誉なことだと思うでしょう?」


 私は相槌を打ちながら根気よく待った。

 でも、それは完全に無駄な努力に終わった。


 目の前の人の顔がみるみるうちに赤くなるのを、私は彼に出会ってこのかた始めて目の当たりにした。


 この臣下さまは今回の『世界会議』で、私が今までに見たことない表情をたくさん見せてくれているような気がする。

 ただね、見てるだけなら楽しいんだけど、その被害がいちいち私に飛んできている気がしてならない。


 ユートレクトはもう二度とお目にかかれないと思うほど赤い顔で私に詰め寄ると、これだけはまだ理性が残っているのか小声で私をなじり始めた。


「おまえが! おまえなどが! リースルと同じ部屋で寝るだと!?

 兄上は何を考えておられるのだ!

 こんな無礼非礼、断崖絶壁と寝室を共にすれば、リースルが毒に侵されるのを知らないのか!」


 ……


 あんた今、どさくさに紛れてまた禁句を言ったわね。一日目だけでなく、今日までも。


 いくらあんたが不憫な一方通行恋愛者だからってね、それとこれとは話が別よ。


 ふっ、動揺のあまり気を抜いているわね、宰相閣下。

 そんな脅しくらいで私が屈するように、あなたは私を教育したのかしら?


「……きゃあああああ! 何をするのです! 仮にも公衆の面前ですよ!!」


 私は声を限りにして、可憐モードを再発動させた。


「なんだ! 何事だ!?」

「いかがされましたご婦人!」


 周囲の人々が私の可憐な悲鳴に振り向いて、どやどやとこちらに近づいてきた。


 いくら『平民女王』と陰口を叩かれていても、私の顔を知らない人たちもいるし、うら若き乙女の危機にはみんな反応してくれる。


 私が叫んだ瞬間、宰相閣下はわれを取り戻したらしく、カメレオンも舌を巻く素早さで顔色を戻すと、臣下にはおよそあるまじき言葉を駆使してひとしきり私をののしった。そして最後に、


「そこで待っていろ、いつか必ずこの借りは返すぞ!」


 と、いつもの低気圧な声で耳元に毒づいて、私の手から部屋の鍵を奪い取ると一目散に走り去っていった。


 ありがとう、ユートレクト。

 ここの騒動の処理は、私に任せてちょうだいね!



**



「申し訳ありません、突然、虫がわたくしの目の中に入ったのですけど、彼が……ああ、どうか彼を追わないでください。わたくしの部屋に目薬を取りにやらせましたの。大丈夫です、目はもう大丈夫ですわ」


 私は走り去っていったユートレクトを追おうする兵士の皆さんを、片手で目を押さえながら、内心冷や汗もので制した。


「それで彼が心配して、いきなりわたくしに、こんなに顔を近づけてきたので、わたくし、目の痛みも忘れて驚いてしまって、思わずはしたない声をあげてしまったのです。

 皆さまには、本当にお騒がせして申し訳ありませんでした」


 『こんなに』と言ったとき、自分のもう片手を鼻に触れそうなくらいに近づけて、いかに『彼』が淑女が悲鳴をあげるほど無粋に接近したかをアピールした。

 もちろん実際には、そんなに近づいてないんだけどね。


 というわけで、私の可憐な叫びに駆けつけてくれた紳士兵士の皆さんは、


「大事なくてよかった、気をつけられよ」

「なるほど、そういうことなら安心です。さすがはフリッツ皇……いえ失礼しました、センチュリアの宰相閣下であらせられます」


 などと、お見舞いの言葉を残して無事去っていってくれた。


 警備の兵士さんたちもユートレクトのことを尊敬しているみたいで、去り際には、ローフェンディア時代の彼の話に花を咲かせていた。

 内容までは聞こえなかったけど、一体奴はどんなに素敵な皇子さまぶりだったんだろう。


 センチュリアでもユートレクトは不思議と嫌われてはいない。

 好かれているというわけではないけど、みんな少し怖がりながらも尊敬の念をもって接している。

 もちろん、彼が敏腕施政家なことと、重臣や部下たちにとってはいつも的確な指示仰げる『頼れる上司』だからだと思うけど、それ以外に理由があるとしたら、外面そとづらのよさかな。

 少なくとも、私以外の人を『おまえ』呼ばわりしているのは聞いた覚えがない。


 考えたらひどい話よね。

 いいわよ、どうせ私なんて『おまえ女王』よ。この際なんとでも呼ぶといいわ!




 拝啓 フリッツ・ユートレクトさま。


 ギャラリーの皆さんを軽くあしらって、お言葉通り、気兼ねなくお待ちしていますけど。

 七分経っても八分経っても、どうして戻ってこられないのかしら?


 冗談はさておき、いくらなんでも遅すぎる。


 私の部屋は、突き当たりの角を曲がったところにある。歩いて行って戻ってきても、普通の足なら五分もかからない。今の私の足ならもう少しかかると思うけど。


 そんなところに走って行ったのだから、もうそろそろ『便所用』スリッパを持った奴の姿が現われてもいいはずだった。

 なのに、待てど暮らせど奴は帰ってこない。


 え、七分の後が八分ってどれだけせっかちなんだ、って?

 そうよ、私はせっかちなのよ!


 そろそろ『清き泉の間』に戻らないと、午後からの会議に間に合わなくなる。

 これ以上会議で目立つのと、あの皇帝陛下に睨まれるのは勘弁してほしいのよ。


 このままユートレクトを放って会議に戻るか、痛い足を引きずって部屋まで行くか……


 あああ、やっぱり行かなくちゃだめよね。

 君主たるもの、臣下の行動にも責任を持たなくちゃ。

 神さまは私にひとひらの楽も許してくださらないんだわ。


 そう思って、諦めて自分の部屋に足を向けたときだった。


 突き当たりの角から、数個のトランクと数人の人たちが現われた。


 ……あれ?


 ちょっと。

 あれ、全部私のトランクじゃない!


 よく見れば、トランクを運んでいるのは、ローフェンディアの兵士さん三人。

 その後には侍女スタイルの女性が二人。

 そして一番後ろに、いつもの冷静すぎる顔をした愚かな臣下が一人。


 肝心の『便所用』スリッパは、ローフェンディアの兵士さんの一人が私のトランクを運びながら手に持っている。


 ……なにやってるのよあいつはーーー!


 私が心の中で火を吐く竜を暴れさせているあいだに、一団は私の方に近づいてきたものの、途中でユートレクトと侍女たちは角を曲がってしまい、私の元に来たのは、兵士さんたちと私の荷物と……『便所用』スリッパだった。


「センチュリア女王陛下、こちらのお荷物はクラウス皇太子のお言いつけの通り、わたくしどもがリースル皇太子妃の私室に責任を持ってお運び致します。

 お部屋の鍵は、侍女長が既に宰相閣下より預かっておりますのでご安心ください。

 何か至急にご入用のものがあれば、この場でもよろしければお取りいただけますが、いかがいたしましょう?」


 兵士さんの一人がご丁寧に申し出てくださったので、私はトランクの一つから脱脂綿を大量に取り出すことにした。


 念のためにお願いしておこう。

 このまま『便所用』スリッパまでリースル皇太子妃の部屋に持って行かれたら、それこそお笑い草だもの。


「それから、その……そちらの履物は、申し訳ないですけど、しかるべき場所に返しておいていただきたいの。

 昨晩の晩餐会のとき、足が痛むと申しましたら、さる殿方が持ってきてくれたのですけど、わたくしには入りづらい場所にあったものらしくて。場所は……」


 私はうろ覚えで申し訳なかったけど、『便所用』スリッパを借りたあたりの場所を説明した。

 兵士さんたちは、快く請け負ってくれた。


 あいつ、やっぱり何も言ってなかったわね。

 私が何も言わなかったら、『便所用』スリッパもリースル皇太子妃の部屋に送られるとこだった、っていうことじゃないのよ。いつか必ず仕返ししてやるんだから。


 それにしても気になるのは『便所用』スリッパの大きさ。

 ローフェンディア人は足が大きいのかと思ったけど、そんなこともなさそうだし、婦人用のお手洗いにはあんなスリッパなかったから余計に気になる。


 兵士の皆さんが誰かさんと違ってとても純朴そうなので、思い切って聞いてみることにした。


「その履物は、とても大きいですけど、婦人用のお手洗いには見かけないものね。どうやって使われるものなの?」

「ああ、これですか。

 私たちはあまり使わないのですが、ご身分の高い方はこうして使われます」


 『便所用』スリッパを持っていた兵士さんは、廊下にスリッパを落とすと、土足のままスリッパの中に足を入れたのだった。


「こうすると、高貴な身分の方の靴にも飛沫がかからずに、用を足せるというわけなのです。

 自分たちは全く気にしていないのですがね。

 高価な靴が万が一にも汚れてはいけない、という配慮らしいです」


 飛沫……?


 私は次の瞬間、すべてを悟った。


 ええ、私はこれでも平民出身です。

 食堂時代には男子用便所の掃除もしましたわ。

 男子便所の構造も理解しているつもりです。

 それは飛ぶこともあるでしょうね、飛沫が、しぶきが。


 なるほどね。

 そんな高貴な飛沫よけスリッパがあるとは、さすがローフェンディア帝国。

 そして、そんなスリッパを私に履かせた無礼千万な臣下は、ローフェンディア帝国の皇子さま……


 土足の部分は、昨日ストッキング越しに間違いなく踏みました。

 外側も、もちろんドレスにすれて当たりまくっていますわ。


「おい、そんなに詳しく説明するな!

 それは女王陛下が、昨日履かれたとおっしゃっていたではないか!」

「え……あ、わ……! 陛下、大変申し訳ありません!

 決して女王陛下のお心を乱すつもりではなく……!」

「そうでございます陛下!

 この館内は、掃除も行き届いておりますし、高貴な皆さんのことですから用を足すのもお上品かと……

 ですから、このスリッパの中も外もさほど……いえ、決して汚れてはおりません、ご安心ください!」


 小声で叱咤する同僚の声に、説明してくれた兵士さんをはじめみんなが慌てて私に頭を下げたけど、もちろんあなたたちは悪くないわ、全然悪くない。


「いいえ、構いませんわ。教えてくださってどうもありがとう。とても勉強になりました。

 わたくしの荷物、お手数かけますけど、宜しくお願いしますわね」

「はっ!!」


 とっても脅えた表情の兵士さんたちを後にして、私はふらふらと『清き泉の間』に戻っていった。

 そんなに怖い顔してるのかしらね、今の私ったら。


 してるとしたら、それはあんたのせいよ。


 覚えてらっしゃい、ローフェンディア帝国第二皇子。

 これから当分の間、あんたの呼び名を『便所用スリッパ』にしてやるわ!

2019.12.13.長さの単位で「センチ」を使用していたのを訂正しました。

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