光なる影2
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食事がデザートまで全て出そろい、席を離れることが許されると、私は最高位の淑女に許される最大級の速さで会場を後にした。
リースル皇太子妃、私のこと変だと思わなかったかな。
笑顔で話を聞いてくれていたから、大丈夫だと思うんだけど。
周りの人たちも、最初はリースル皇太子妃と話す私を焼きもち妬いてるっぽく見てたけど、そのうち別々に話し始めてたから、特に変なとこはなかったと思うんだけどな。
理由はさっぱりわからないけど、とにかく疲れた。
こういう日はとっとと寝るに限る……んだけど、明日の会議の資料をもう一度見ておかなくちゃ。
最高位の淑女に許される力の限りを尽くして歩いていたら、なんだか息切れがしてきて、おまけに足も痛くなってきた。
ドレスの生地がサテン地なので、結構重たいのもあるのかもしれない。
でもそれだけじゃなくて、とにかく疲れているせいだと思った。
私は立ち止まって、鈍く痛む頭を右手でこづいた。
そんなことしても、痛みは治まらないのは百も承知してるけど。
「……アレクセーリナ女王!」
後ろの方から、私を呼び止める聞きなれない声がした。
誰だろう。
会場に忘れ物でもしたのかと思ったけど、ハンドバッグはちゃんと持っている。
私は声の方に向き直った。
見たことがない男性がこちらに向かって走ってくる。
褐色の肌ときらきらした金髪の、背の高い男性だ。
その服装から察するに、どこかの王国の国王か皇太子もしくは……
あ。
私ったら、思いっ切り忘れてた。
この方がひょっとして、昼間ララメル女王が話してくれたホク王子じゃないの!?
長身の男性は、私の前で立ち止まると一礼した。
うわ……本当に背が高いんだ。
私がハイヒールを履いても頭一つ以上背が高い男の人には、なかなか出会わないので、それだけでも感動した。
褐色の肌からこぼれた白い歯とはにかんだ笑顔が、私の心を少しだけ和ませてくれた。
「初めてお目にかかります。私はワイファナ王国の王子で、ホクと申します。
遠くからお声かけしたご無礼を、どうかお許しください。
どうしてもあなたにお会いしたかったものですから」
そして、これがララメル女王が悩殺された声。
薄絹に通したかのようにほんのりとかすれた声は、大人の男性の魅力をさりげなく感じさせるもので、行き過ぎてない……つまりセクシー過ぎないところが嫌味でなく好感が持てた。
自分の声を出すのが恥ずかしくなるくらい、素敵な声だった。
「はじめまして、ホク王子。わざわざ、わたくしなどを追って来てくださったのですか?」
「ええ、今日あなたのお話をララメル女王から伺って、ぜひお会いしてお話したいと思っておりました」
「光栄ですわ。ですが殿下が耳にされたお話は……」
私は『中央大陸縦貫道』の建設凍結を直訴なんて、絶対にしていないことをホク王子に説明した。
この類の誤解が他のお偉いさんたちにもあるのかと思うと、少し気持ちがめげてきたけど、思いたい人たちには思わせておけばいいわ。
でも、誤解されたままだと困る人には、こうして説明しなくちゃね。
「そうでしたか。噂とは本当に怖いものですね。全く事実と違うときがありますからね。
ですが、陛下は勇気ある進言をされたと思いますよ。
誰に対しても言うべきことをきちんと伝えることは、とても大切なことです」
ホク王子の話し方はとても優しくて声も柔らだったので、余計になぐさめられた。
「もしよければ、少し外に出てみませんか? 今日は月がとても綺麗に出ているんですよ」
え?
そ、外に出るってことは、まだ私といる……ていうか、いたいってこと?
それはとってもありがたいお申し出なんだけど、私としては、足が痛いからあんまり歩き回りたくはないんだけどな……おまけに、どうにもこうにも疲れてるし。
私は正直に言うことにした。
「申し訳ありませんホク王子、今日は少し足を痛めていて、あまり長く歩けそうにないのです」
するとホク王子は、いたずらっぽく笑ってみせた。
「では、あちらに腰かけませんか?
あんなに早足で歩かれていては、足が痛むのも無理ありませんよ。
きっと立っているのもお辛いでしょう。少し休みましょう」
早足で歩いていたのがばれてたことに、恥ずかしくなったけど、ホク王子の笑顔は含みのないものだったので、私はありがたくお誘いを受けて、外に見えているベンチに腰かけることにした。
*****
「綺麗な月ですね……」
「ええ、本当に」
私とホク王子は、並んで外のベンチに座った。
『世界会議』とか地位とか関係ない目で見たら、恋人同士に見えたりするのかな。
いやいや見えないわよ絶対。
こんなかっこいい人と私が並んで座ってるなんて、本当ならまずありえないもの。
ホク王子は私より四つ年上って昼間誰かさんが言ってたけど、健康的なせいか若々しく見えて、あまり年の差を感じない。
「この国の夜空は明るいね……人が多いからかな」
「そうですね。私の国なんて、街の灯りより星の明かりの方が多いくらい」
「それは僕の国もだよ、夜になると、月と星とサナ貝の光しか見えない」
「サナがい……って?」
「砂浜に棲む貝でね、夜になると殻が光って見えるんだよ。
真っ暗な浜辺に出ると、空を歩いているんじゃないかと思うくらい、星のように光っているんだ」
いつの間にか、ホク王子と私の口調も少し打ち解けたものになっていた。
「初めて聞きました、そんな貝があるなんて」
「南方の海にしか生息していないから。
数十年前までは、乱獲されて絶滅寸前だったけど、ようやく昔の数に戻りつつある」
「色々とご苦労も多かったでしょう?」
「ああ、だけど自然は大切な財産だからね」
ホク王子はまた月を見上げた。
私も見上げて……少し寒くなってきたせいか、身体が震えてしまった。
「寒いかい? これを……」
ホク王子が上着を脱ぎかけたので、私は慌てて遠慮した。
けど、ホク王子は強引な優しさで私の肩に上着をかけてくれた。
「風邪などひかれては大変だ。あなたの宰相閣下に叱られてしまう」
いえ、ホク王子は大丈夫です、むしろ私が叱られます。
『何をやっているのだ、おまえは。
せっかくホク王子が上着を貸してくださったのに、風邪などひいてどうするのだ。
おまえに医師などいらん、気合と根性で治せ』
とか言われます、ええ間違いなく。
ひどい話です、私、これでも一応女王なのに、いつもこんな扱い受けてます……
「……どうかしましたか、アレク?」
突然、ホク王子が私を愛称で呼んだのでびっくりした。
「いえ、申し訳ありません。ありがとうございます、お言葉に甘えてお借りします」
「いやでなければ」
びっくりすることが、立て続けに起こった。
私の肩に手が回されたかと思うと、身体がホク王子の方に引き寄せられた。
……こっ。
って、固まってる場合じゃないわ!
こここここれはわわわ私、一体どどどどうしたらいいの!?
ううん、どうするもこうするも、とにかくこれは手を離してもらわなくちゃ困る。
周りに人がいないからいいけど、こんなとこ誰かに見られたら、私は悪口言われるだけだからいいけど、ホク王子のためによくないわ。
それに、どうして会って間もないのにいきなりこんなことできるのか、ホク王子の気持ちが全くわからない。
この短期間で私を好きになったなんて、絶対ありえないし。
もしかしたら、南方風のスキンシップなのかもしれないけど、私には少し……じゃなくて、かなり刺激が強すぎる。
まばたきするくらいの短い時間の中で、奇跡的にもそれだけのことを考えると、私は身体に力をこめてホク王子から身を離そうとした。
そのときだった。
さっき、私とホク王子が立ち話をしていた廊下に『今一番会いたくない人ナンバー1』な人物が立っていて、ガラス越しにこちらを見ていた。
遠目にもその水色の瞳が、激烈な感情をはらんでいるのがわかった。
怒っているのか、尻軽な女とあきれているのか。
どちらなのか、それとも両方なのか。
それとも、全く別のことを思っているのかは全然わからない。
わからないのがとても怖くて、身動きできなくなりかけた。
でも、こんなところを見られているのはいやだったし、あの超極悪低気圧の視線を受けるのにも耐えられなかった。
私は必死に縮こまる心と戦って、ホク王子から身体を離すと立ち上がって上着を返した。
「殿下、夜風に当たりすぎたのではありませんか?
わたくし、今日はこれで失礼しますわ、ごきげんよう」
できる限り冷静な声を装ってそれだけを言うと、私は芝生の上を、どこへ行ったらいいかもわからないまま走り出した。
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どのくらい走っただろう。
あまりに足が痛くなったものだから、ドレスに気をつけながらも、私は芝生の上に座り込んでしまった。
振り返ると、ホク王子も一緒に座っていたベンチも見えなくなっていた。
顔に冷たいものがあたった。
いつの間にか、月は雲に隠れてしまっていた。
空は惨めな私に、雨までお見舞いしてくれるらしい。
「いた……っ」
立ち上がろうとして、両足のかかとがすりむけているのに、今更ながら気がついた。
普段ハイヒールなんてほとんど履かないから、靴ずれしたんだ。
そうでなくても、昨日の黒装束捕物帳とか、貴族令嬢Yさん(ララメル女王命名)にピンヒールで踏まれたりして、足にはたくさん傷をこさえてるのに。
一国の女王がこんなに傷だらけでいい……わけないわよね。
なんだか今日は、色々なことがありすぎて本当に疲れちゃった……
とにかく屋内に戻ろうと思って、建物に近づいたときだった。
ガラス戸の向こうに『今一番会いたくない人物ナンバーワン』がいるのに気づいてしまった。
どうしてこう、いやなタイミングで現われるのかなあ。
昨日みたいにリースル皇太子妃と仲良くお話してればいいのに……実際に話してるとこは見てないけど。
それはそれは、楽しいひとときだったと思うわよ。私なんかの相手をするより、よっぽど心が癒されたと思う。
あんなかわいい女性なら、私が男でも一目惚れしちゃうもの。
そこまで考えて、私はふと思い出した。
今日の昼休みにユートレクトが、父上たるローフェンディア皇帝と二人で話していた会話を。
『戻る気は……本当にないのだな?』
『はい、恐れながら』
『あるいは、リースルのことか?』
『それはありません』
『本心か』
『はい』
ユートレクトがローフェンディアを出たのは、陰謀とかに巻き込まれたくないのはもちろんだと思うけど、もしかして、リースル皇太子妃のことが好きだからだったの?
好きな人が、自分ではなく兄を選んだ……しかも結婚してしまったから?
ローフェンディアに戻らないのも、そのせいなの?
雨足がだんだん強まってきた。
これ以上外にいたら、またドレスを一着だめにしていまう。
私はガラス戸の向こう側の人物に怯えながらも、痛い足を引きずりながら建物に近づいた。
自分の好きな人が目の前で幸せそうにしているところを見るのは、とても辛い。
ともすれば、気が狂い出しそうになるくらいに。
好きな人が他の異性と楽しそうに笑っている。
相手もとても幸せそうに、自分の好きな人を見ている。
自分はもう入る隙間はない、二人の幸せを祈ってあげなきゃいけないんだ。
そう頭で懸命に思っても、心が好きな人を見つめたまま、立ち止まってついてきてくれない。
そして、嫉妬心や自己嫌悪で自分自身を汚してしまう。
この悪循環から抜け出すのは本当に難しい。
一番手っ取り早いのは、新しい恋をすることなんだろうけど。
恋を探しに行くにも、まだ好きな人が心にいるから、身動きがとれずにがんじがらめになってしまう。
私も過去に、手痛い失恋をしたことがあった。
食堂の看板娘時代に、同じお店でお付き合いしていた人が私と別れて、あろうことか、同じお店の私の友達とお付き合いを始めちゃったのよ。
おまけに、結婚までしたもんだから、私は二人の結婚式でも披露宴でも化石のようになっていた。
仲がよかったから、何も知らない友達から当然のようにご招待されちゃったのよ。
そうなると、欠席するわけにはいかなかった。
あのときは、笑顔一つ作れなかったから、本当に悪かったなと今でも思ってる。
結婚と同時にその人は独立してお店を出すことになって、夫婦してお店を辞めたから、それきり顔を合わせずに済んだけど、あのまま夫婦共々お店にいられたら私が辞めていたかもしれない。
もし、私の誤解でなかったら、ユートレクトも私と同じ……それよりも辛い思いをしていることになる。
両足の痛みに耐えながら、ようやく建物の屋根の下に入ることができた。
他にも扉を探してみたけど、どうやらユートレクトが立っているところ以外に、出入口はないらしかった。
私は観念して、大氷雪突風低気圧と化してるであろう人が立っている、ガラス戸にうつむきながら近づいていった。
突然、足元に『便所用』と書かれたスリッパが、無造作にぽんと現われた。
「足が痛いのだろう、これを履いておけ。
おまえの背の高さなら、これでもドレスにつまづくことはないだろう」
大氷雪突風低気圧なはずのユートレクトが、いつもの冷静すぎる顔で私の前に立っていた。
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「……ありがとう」
スリッパに『便所用』と書いてあるのが気になったけど、これ以上ハイヒールでは歩けそうになかったから、ありがたく『便所用』スリッパを履かせてもらうことにした。
「どこから持ってきたの、このスリッパ?」
「そこの便所だ」
ユートレクトが指さしたのは、『紳士用』とドアに書かれた男性用のお手洗いだった。
「……誰がこれをあそこに返すのよ?」
「おまえに決まっているだろうが。明日には返しておけよ」
「私が男性用のトイレに入れるわけないでしょ!」
「おまえ、もし女性用の便所が混んでいて、やむにやまれぬ状態で周りに誰もいなかったら、男性用の個室に入るくちだろう?」
「そっ……! そこまで私は厚かましくないわっ!」
なんていうことを言ってくれるのよ、仮にも自分の主君に対して。
失礼にも程があるってもんだわ。
スリッパのことを突っ込んで聞いてみたのは、ホク王子との……あのことに触れられたくなかったからだったけど、私の選択は間違ってなかったみたいだった。
あんなに怖い形相だったのに、今の今まで低気圧ガトリングが全く炸裂しないのは、どう考えてもおかしい。
ホク王子との『あれ』に怒っているんなら、私が何か言う前にお小言の嵐になるはずだから。
あのとき、ユートレクトは何を考えていたんだろう。
「今日は自力で部屋に戻れよ」
「もちろんよ」
ハンドバッグで隠しながらハイヒールを持つのは手が少し辛いけど、足の痛みと引き換えにすることを思ったら、どうってことなかった。
スリッパは男性用にしてもやたら大きくて、特別大柄な人用なのかな、と思うほどの大きさだった。
履いて歩いていると足から飛んでいきそうになるけど、ドレスの裾が床まであるおかげで、なんとか飛ばさずに歩けそうだった。
私はユートレクトが開けてくれたガラス戸から、ようやく屋内に入ることができた。
ユートレクトがさっさと身を翻して帰っていこうとしたので、私は慌てて上着の袖をつかんだ。
ホク王子に触れられたのは、もちろん本意じゃなかったけど、やっぱり、もし何か誤解されてたらいやだから。
「あ、あの、さっきのは……多分ホク王子の気まぐれで」
「気まぐれですら奇跡だ。猫を何十枚もかぶってつかまえておけ。俺からもよく言っておいたからな」
は?
何を言ってるの、この男は。
「陛下はああ見えてまだ純情でいらっしゃいます、ゆっくりと歩み寄っていただきたい、と言ったら、ホク王子もまんざらでもないように笑っていた。あれは、信じられんが本気だな」
「……」
「世の中には奇特な奴もいるものだ。結婚は縁だからな、この良縁を逃すなよ。
もしこれを逃したら、次の機会はないと思え」
あのねえ。
『ああ見えてまだ純情』ってどういう意味よ。
じゃなくて、それ以外にも言ってやりたいことは特盛りなんだけど、どれもこれも……私には言えないことだった。
私は軽く手を挙げて去っていく後姿に結局何も言えないまま、一人自分の部屋に戻っていった。『便所用』のスリッパで。
ようやく自分の部屋に戻ると、私は早速『便所用』スリッパを脱ぎ捨て、ドレスも淑女に許される範囲内で脱ぎ散らかしたまま、シャワーを浴びることにした。
何度も言ってるけど、今日は本当にいろんなことがありすぎて、小さな私の脳はパンク寸前だった。
こんなときはお風呂に限る。
軽く身体を流してから、たんこぶに気をつけながら頭を洗い、身体を洗おうとしたときだった。
「いっ……たーい、なんなの?」
思わず独り言を言ってしまうくらい、タオルを背中に回したとき痛みを感じたので見てみると、背中の左側に青黒い大きなあざができていた。
昨日は気がつかなかったけど、脚にもお尻にも、脇腹にまで大きなあざがあった。
左側にしかあざができてないってことは、左側から地面に落ちたのね。
黒装束を後ろから捕まえて落ちたんだから、衝撃は全部、奴が受けてくれてたらよかったのに。
そうしたら、私の代わりに黒装束が気絶して、クラウス皇太子に捕まえてもらえたかもしれないのに。うまいこと私を緩衝材に使ってくれたわよね。
背中のあざは結構大きかったけど、下の方だったから、今日のドレスでは隠れてるとこでよかった。
あーあ、せっかくの白皙の肌が台なしじゃない……誰も言ってくれないから、自分で言ってあげるわよ。
ところで、あの黒装束の手がかりは何か見つかってるのかしら。
あんの黒装束、今度会ったら絶対に逃がさないんだから!
この白肌を傷つけた報い、受けてもらうわよ。
って、そうのんびりもしれいられなかった。
ドレスを片付けたら、真面目に明日の会議の予習をしなくちゃいけない。
明日で『世界会議』も三日目かあ……
明日はユートレクトがいないんだから、どうか、もうこれ以上何事も起こりませんように!
そう願わずにはいられなかった。