光なる影1
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『中央大陸地域』の会議は、午後からも怖いくらい順調に進んで、無事定刻に終了した。
けど、他の地域は会議が長引いているらしくて、廊下を歩いている人の姿はまばらだった。
私とユートレクトは晩餐会の支度をしに自室に戻るため、人気のない廊下を歩いていた。
今日はどのドレスを着るんだったかしら。
「……出発前にも言ったがな」
ユートレクトが、会議が終わってから渡された晩餐会の席表を確認しながら言った。
「明日は、元首と閣僚代表に分かれての会議になる。
つまり、おまえに何があろうと周りに助けてくれる者はいない。今日みたいなことは間違ってもするなよ」
「わかってるわよ。今日みたいなことは、私一人だったら絶対にしなかったもの。
大丈夫、おとなしくしてるから」
「……」
「な、なによ、その完全に信用してないっていう顔は」
「明日の元首会議は、代理人では出席できない極秘の会議だ。
だから、俺も今まで会議の様子を見たことがない。下手なことを言うなよ」
極秘の会議かあ……そう言われると、なんだかドキドキする。
そんな大それた会議に出席するようになったなんて、私の人生も波乱万丈になったわね。
ちゃんと議事進行をメモしてこなくちゃ。
後でユートレクトに報告するとき、頭が混乱しないように。
「わかりました。打合せの通り、押すところは押す、押せそうなとこも押す、引かなきゃいけないとこも一度は押してみる、でも、引くときはあっさりと、よね?」
「そうだ、よく覚えていたな」
「失礼ね、このくらいは覚えてるわよ」
具体的な内容は極秘事項に触れるから廊下では話せないけど、晩餐会から帰ったら、寝る前にもう一度ノートを見直して頭に叩き込んでおかなくちゃ。
明日はユートレクトがとなりにいない。
いい年して恥ずかしいけど、本当はとても心細い。
やっぱり、お偉いさんたちの中に一人でいるのは辛い。
『中央大陸地域』の首脳陣には、女性も、私くらいの年頃の人も、私以外に一人もいないし。
でも、そんなこと考えてたって、明日の会議がなくなるわけでも、ユートレクトがとなりに現われるわけでもないもんね!
「さあ、今日の晩餐会のご馳走は何かしら! 今日は席が決まっているのよね、どんな席になってるの?」
私は気を取り直して、ユートレクトが見ている今日の晩餐会の席表を覗き込んだ。
……テーブルの数も席の数も多すぎて、自分の席がよくわからない。
「おまえはここ、俺はこちら側だ。今日こそはおとなしくしていろよ」
晩餐を囲むテーブルは、元首たちと閣僚代表たちで分けられていて、私とユートレクトのテーブルは会場の対角線くらいに離れていた。
私のテーブルには知らない名前の人たちばかり、と思ったら、つい昨日聞いたことがある名前が私の席の右どなりに書いてあった。
「ええええええ! リースル皇太子妃が私のとなりにお座りになるの!? なんで私のとなりなんかに?」
「昨日の件があるからだろう。だから、おとなしくしていろと言っている」
「きゃあああどうしよう! 恥ずかしいわあ!
あ、そうだ、昨日借りたドレスお返ししなくちゃね」
「おまえ、まさか晩餐会の席上で、『これ、昨日お借りしたドレスです。ありがとうございました』などと言って返すつもりではあるまいな」
「え、やっぱりだめ?」
「当たり前だ! おまえは、どれだけ俺の顔に泥を塗れば気が済むのだ!」
ユートレクトの雷が静かな廊下に響き渡った。
でも、周りに人が全然いないのがなぜかおかしくて、つい笑ってしまった。
「何がおかしい」
「だって……誰もいないんだもん」
「誰もいないからなんだ」
「なんだか、センチュリアにいるような気がして」
そう私が言うと、ユートレクトはどこか遠くを見るような目をしてつぶやいた。
「センチュリアか……」
「でしょ? ここまで普通に話したの、久しぶりじゃない?」
「そうか?」
「そうよ」
会議が予定通りに終わって、本当によかった。
早くセンチュリアに戻りたいな、私は。
ユートレクトもそう思ってくれたら、すごく嬉しいけど。
「不思議なものだな、センチュリアを発ってまだ五日目か。もう一か月ほど経ったような気がするな」
席表を大雑把にたたむと、ユートレクトは窓際に歩いていったので、私も後をついていく。
ちょうど北に窓がある廊下を歩いていたので、センチュリアがある方角の風景を見ることができた。
「住めば都、とはよく言ったものだ」
ユートレクトの声が私の耳に心地よく響いた。
低いけど、いつもは怖いけど、よく通っていやでも聞き取れる声。
「帰ったら、また街に名物料理食べに行こうね」
「ああ」
北の空は夕刻を迎えて、太陽の光は薄くなっていたけれど、雲はとても高いところにあって、穏やかな澄んだ色をしていた。
**
マーヤの『コーディネイト一覧表』を見ながら、私は一人悪戦苦闘していた。
今日のドレスは、かわいいというよりも大人の女性という感じがする、暗めの紫色だった。
胸元はホルターネックになっていて、首から胸元にかけて、ドレスと同じ色の布の花があしらわれているのが、大人な色なんだけどかわいらしい。
マーメードラインなところも大人っぽい。
このドレスに、この靴とこのイアリングを合わせて、髪はこの髪どめで留める、と……
一人でドレスを着るのは大変だけど、こればかりは、ユートレクトに手伝ってもらうわけにもいかない。
先刻からユートレクトが外で待っているので、気が気で仕方がない。
待ってもらうというのは、どうも性に合わなくて。
ようやく用意ができて、これもまたマーヤに指定されたハンドバッグを持つと、慌てて部屋を出た。
「ごめんなさい、お待たせして……」
「君主たるものが慌てふためくな。みっともない」
なによ、あんたを待たせてると思うから、頑張って急いで着替えたっていうのに。
こういうときだ。
心でかちん、という音がするのは。
「部屋に入って待ってもらえたらいいのだけど、一室しかないから、私が着替えをしたら丸見えになってしまうものね」
「女というものは、準備に時間がかかる生き物だ、気になどしていない。
それより、焦って忘れ物などしていないだろうな?」
ええそれは大丈夫、と、ハンドバッグを漁りながら言おうとして……いろいろと入っていないものがあることに気がついた。
「ごめんなさい、いろいろ忘れているみたいだから、もう少し待ってくださる?」
「だから慌てるなと言っただろうが。
急いでも、これで二度手間になったら、落ち着いて準備した方が時間はかからんだろうが。
これで俺は何度同じことを言ったと思っている? ここ半年で十回は言っているぞ」
ユートレクトの低気圧な言葉が、ぐさぐさっと突き刺さる。
『半年に十回』の記憶は全くないけど、絶対におっしゃる通りなので反論の余地がない。
「ごめんなさい……」
あああ……またやっちゃったよ。
なんでこうなっちゃうんだろう。
さっき外の景色を見ていたときは、すごく仲良かったのに。
ていうか私、他の人とはうまくコミュニケーション取れてるのに、なんでユートレクトとはうまくいかないのかな。やっぱり私が悪いのかなあ。
……ああ、もう!
私は部屋の鍵を最高位の淑女に許されるぎりぎりの範囲内で乱雑に開けると、また自分の荷物たちと格闘するはめになった。
二百人以上の人たちが集まる晩餐会の会場は、昨日とはまた違うとても大きな広間だった。
私とユートレクトは互いの席を確認すると、無言でそれぞれの席に向かった。
あれからずっと話をしないままこの会場まで来たので、すごく気まずいまま別れてしまった。
今日は食事が終わって席の移動が許されたら、お互い頃合を見てそのまま部屋に戻っちゃうし、明日は昼食のときに落ち合う予定だけど、会議の時間がずれこんだら一日会わずじまいかもしれない。
あのやりとりの後から、また頭が鈍く痛みだしていた。
早く自分の部屋に戻りたいな……
自分の座席を探しながら、会場の前へ進んでいった。
真ん中の方には、皇帝陛下やクラウス皇太子がすでに座っていて、同席する人たちは平身低頭して席についている。
私もリースル皇太子妃にお会いしたら、粗相のないように気をつけなきゃ。
お借りしたドレスはいつ返したらいいのかも聞いておこう。
やっとの思いで自分の席を見つけると、既に席に着いている人たちに軽く自己紹介してから席についた。
まだ席主のいない右どなりには『ローフェンディア皇太子妃リースル』と書かれた席札が、間違いなく置かれてある。
わー緊張するなー一体どんなご婦人なんだろう。
お借りしたドレスから想像しただけで、とってもかわいらしい人だってことがわかるだけに、余計緊張する。
「皆さま、この度はわが国までご足労くださり、誠にありがとうございます」
突然、私の斜め上から天使の声が聞こえた。
幻聴かと思うくらい綺麗な声だった。
ララメル女王の声が南国の鳥なら、この声は、高原の小鳥のように慎ましいけど、何者にも染まっていない純粋さを感じるものだった。
周りの人たちが慌てて立ち上がったので、私もいそいそと席を立って。
私のとなりに確かに天使がいた。
私より頭一つ分は小さい。
白皙の肌、白色にも見える薄い色の金髪が、小さい顔をふんわりと囲んでいる。
高地の湖の色をした大きな瞳は、長い睫毛に囲まれて恥ずかしがっているかのように見える。
愛らしい小さな桜色の唇が、また澄んだ声色を紡いだ。
「長きにわたる会議、本当にお疲れさまです。
ローフェンディア皇太子の妃、リースルでございます」
そうなんだ、この人がリースル皇太子妃なんだ……
私たちはリースル皇太子妃の礼に応えると、恐縮しながらまた席についた。
この人なら、知っていた。
昨日の晩、ユートレクトに手を振って近づいてきた、小柄でかわいらしい女性。
ユートレクトが異性として見ていた人と、同じ女性だった。
***
私の中に何かとても重いものが落ちてきて、頭が真っ白になった。
その真っ白な頭に、別の映像が浮かんできそうになるのを必死で止める。
……だめだめ、他のことを考えなきゃ!
あ、そういえば。
私が同じテーブルの人たちに挨拶したとき、皆さんから珍獣を見るような視線を頂戴した気がしたけど、あれは絶対今日の会議の一件のせいよね。
……あああ、だめだってば!
そんなことどうでもいいとか、とっとと食べるもの食べて早く部屋に戻りたいとか、マイナス思考にいっちゃだめ!
そうだ、いいこと思い出した!
『夜の帝王学』のことだけど、あれはね、早い話……赤ちゃんの作り方なのよ。
ミもフタもない言い方でごめんね。
門外不出の事柄だからあんまり具体的には説明できないけど、その……そのときに必要な知識やらなにやらを、王族ともなると結婚前に叩き込まれるのよ!
嫁ぎ先に行ったり、お嫁さん(私の場合お婿さんだけど)をもらってから失礼のないようにってね。
私も……もちろん即位前に教わったわよ。
このとき改めて、王族って大変だと思ったもの。
まあ、その知識やらを使う機会なんて、永遠に来ないかもしれないけどね!
「アレクセーリナ女王陛下?」
「はい!?」
かわいらしい声が聞こえてきたので慌てて声の方を向くと、そのかわいい声にふさわしい愛くるしい女性が、大きな瞳でこちらを見つめにっこり微笑んでいた。
昨日黒装束と大乱闘を演じた私に、綺麗なドレスを貸してくださったリースル皇太子妃、クラウス皇太子の奥さまだ。
リースル皇太子妃は言った。
「昨夜はお礼も申しあげずに、大変失礼致しました。
お身体の具合はいかがですか?
まだどこか痛むのではありませんか?」
「いえ、おかげさまで……身体が丈夫なのだけが取り柄ですから。
こちらこそ、ドレスまで貸してくださって、本当にありがとうございました」
「そんな、とんでもありませんわ。当然のことをさせていただいただけですのに……」
リースル皇太子妃は本当にかわいらしい。
『目の中に入れても痛くない』っていう例えは、この人のためにあるんじゃないかって思えてくる。
私のような平民あがりの小国の女王にも、とても丁重に話してくださる。
私は忘れないうちに、肝心のことを聞いておくことにした。
「また後日、ドレスをお返しに参りたいのですが、どなたにお返しすればよろしいでしょうか」
「まあ、そんなご丁寧に……もし失礼でなければ、この度のお礼として、お受け取りいただきたいと思っているのですけど……」
「もったいないお言葉、恐れいります。
ですが、せっかく妃殿下のために作られたドレスを私が頂戴するなど、恐れ多いことです」
私がそう言うと、リースル皇太子妃は大変なことに、泣きそうな顔をされてしまった。
そして、消え入りそうな声で申し訳なさそうに、
「女王陛下、もしわたくしの袖を通したものをお譲りすることを、ご不快に思われたのでしたら謝ります。
そういうつもりではなかったのです。浅はかなわたくしを、どうぞお許しください……」
私はとても困って焦った。
こんな天使のような女性は、たとえ殿方でなくても悲しませてはいけない。
「妃殿下、恐れながら私はそのようなこと、露たりとも思っておりません。
私はただただ、恐れ多く思うばかりでございます。誠に申し訳ございません。
それではありがたく頂戴致します。お心遣い、心より感謝致します」
同じテーブルの人たちの視線がとても痛いけど、それに構っている余裕はない。
リースル皇太子妃の表情が、とても明るいものになった。
それだけで私は嬉しくなった。
「ありがとうございます、アレクセーリナ女王陛下。
わたくしこそ、配慮が足りず申し訳ありませんでした。
これからも、これをご縁にどうぞ仲良くしてくださいましね」
「はい、私などでよろしければ……」
「嬉しいですわ。本当にありがとうございます。
陛下、センチュリアはどのようなところなのでしょうか。
もしよろしければ、お聞かせいただけないでしょうか? わたくし、この国から一歩も出たことがないものですから……」
私はリースル皇太子妃に、センチュリアの話をした。
……周囲を山に囲まれた、小さな小さな私の国。
国にある唯一の街が首都で、その首都の名前が国家の名前になっています。
神話の世界では、神々が地上に降り立った最初の場所とされています。
そして、神々がこの地に残した足跡が、オーリカルクの鉱脈になったと言われています。
長い冬の間にも、民は休むことはありません。
手足を凍らせながら、懸命にオーリカルクを掘り続けます。
それがセンチュリアの民が、神々から与えられた使命だと信じているのです。
その代わり、短い夏になると、一斉に休みを取って思い思いに過ごします。
南の島に行く者もいれば、西の砂漠を旅する者もいます。
働くのが好きな者たちやお金を蓄える者たちは、採掘場で働いているときに監督からもらったオーリカルクの原石のかけらを使って、民芸品などを作ります。
それを店に置いてもらったり、自分で露店を開いて商いをしたりします。
西の森でキャンプをする者もいます。
ここは天然の食材に恵まれているので、何も持ってこなくても食べるのに困ることがないのです……
昔はその西の森にも、家の定まらない人たちがたくさん住んでいた。
今は……重臣たちの努力のおかげで、やむにやまれず野宿をする人の姿を見ることは、もうほとんどない。
リースル皇太子妃にセンチュリアのことを話していたら、そういう人たちをなくしてくれた最大の功労者のことを、とうとう思い出してしまった。
リースル皇太子妃が大きな瞳をきらきらとさせるたび、『そうですか……』と、優しく相槌を打ちながら微笑むたびに、頭が勝手にその人の映像を出してきて、いやなのに脳裏に焼きつけてくる。
それがいやだったから、さっきから自分の思考回路と戦ってた。
でも勝てなかった。
私は例えようもなく打ちのめされていた。