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廻りゆくものたち

またまたエッセイです。最近の回転寿司はすごい。ですが……。

 先日、一人で回転寿司に行ってみた。

 原発事故による海洋汚染や産地偽装の横行のニュースが流れてから、お手軽なお店で魚を食べるのを控えていたが、あれから五年も経ち、なんだかんだ大丈夫そうだと分かってきた。だいいち、僕のほうも放射性物質への感受性が強い若者ではなくなり、魚を食べないことによる栄養素の偏りのほうが心配な歳になってきた。

「魚、食べたいなぁ」

 というなんとない気持ちが、僕の足を近所の回転寿司へと向かわせた。

「おー」

 入店し、思わず呟く。しばらく見ない間に、回転寿司はかなり変化していた。

 お客さんは結構いるが、寿司があまり流れていないのだ。そもそも寿司を長時間外に出しておけば、ネタが乾いたり傷んだりするというのが回転寿司の課題ではあったが、ここまで顕著に「回らない化」しているとは思わなかった。ときどき流れてくる寿司にもいかついプラスチックのカバーが被せられており、いかにも衛生的だ。

 おずおずと着席し、インスタントのお茶を飲みながらあたりを観察する。とりあえず流れてきたカバーを開けて一皿目を手に取った。僕は玉手箱を開ける浦島太郎のような気持ちになりながら、まぐろと対峙する。まぐろ。ほっとする、回転寿司のまぐろだ。

 いただきます、と小さくと呟き、咀嚼する。もぐもぐ、と。

 さて、テーブルにはきれいな液晶のタッチパネル端末があり、これを操作して注文するようだ。ケーキ、カレー、ラーメンに牛丼……。寿司以外のものがたくさんある。

 後々ネットで回転寿司業界について調べてみると、これがまた面白い。

 もともと大手数社の独壇場だった回転寿司業界であったが、新興勢力が次々登場。かつて「回転寿司といえば〇〇」という会社が一位の座から転落し、聞いたこともなかった回転寿司チェーンが巷を賑わわせている。メニューもサービスも多様化し、老若男女、食べ盛りの高校生から、お洒落な女性客、家族ずれやお年寄り、外国人、そして僕のような孤独な者まで、あまねく人々に回転寿司は対応する。ある意味、ファミリーレストランよりも入りやすいかもしれない。外食産業そのものを飲み込んでしまおうという勢い。世はまさに大回転寿司時代だ。

 わくわくした気持ちになりながら、僕はタッチパネルで二皿目、三皿目を注文した。この日、僕が入った店は、直接注文した品は、別のレーンで届けられるようになっており、別の人に横取りされる心配はない。驚いたのは、注文からお届けまでの時間まで表示されていることだ。僕はディジタル表示を見ながら、ひらめとサーモンマヨネーズの到着を待つ。

 シャッ、という音(まあ実際には音はしないのだが、そんな雰囲気)を伴って、ふたつの皿が到着した。直線レーンで特急だ。僕はそれを受け取り、食べる。次はひらめ。もぐもぐ。うん、まあこんなもんか……。

 回転寿司に限ったことではないが、複数のメニューを注文するときは、そのバランスや順番をあれこれ考えながら食べるのが楽しい。とことん真剣にやる。これはライブのセットリストや、アルバムに貼る写真の並べ方を考えるのと似て文化的な行為だと思っている。

 ここで他の人は何を食べているのかとちょっと観察すると、僕から空席をふたつ隔てた席に隣にサラリーマン風の一人客が居て、黙々とハマチを食べながら、タッチパネルを操作していた。

 このとき、ある衝撃が僕を襲った。

 僕は感じたことは「あ、ハマチもいいな」ではなかった。

 なんだ、この圧倒的な孤独感は!

 そして僕は自分の姿や、テーブルの上に視線を戻し、戦慄く。僕もあんな感じなのか?

 別に家族や気の置けない友人たちとの食事を礼賛するのではない。僕は一人で食事に行くことは多いし、そうした食事にはたいてい満足している。観光名所はもとより、ディズニーシーも一人で回れるくらいの「おひとり様」好きだ。

 しかし、その日回転寿司で感じた孤独感はあまりにも強すぎた。

 誰とも一言も話すことなく、誰も視界に入らず、ボタンを押すと注文の品がすぐに出てくる。少しずつスペースを開けながら僕とサラリーマンは横に並び、それぞれ食事をする。

 餌。不謹慎だが、そんな言葉が頭に浮かんだ。

 小屋に横一列に並んだ牛や鶏が、皿に盛られていく餌を食む。そんな映像が、頭に浮かび、かき消そうとしても離れない。僕は、社会とか都会とかいう巨大な存在に飼われている家畜になってしまった気分だった。

 僕は目の前の寿司を消費し、誰かが僕を消費する。冷たく光るタッチパネル。きりりと停止した直通レーンを動かす指にためらいが生じる。

 結局、その日はあまりお皿を重ねることができなかった。というよりも、食べ終えたお皿はカウンターにあるシュートに入れるような仕組みになっていたので、文字通りお皿が積み上がるということもないのだが……。

 帰宅後、手回しミルで珈琲を淹れて、人類の向かう先について考えていた。

 その日僕が見た回転寿司は、まるでSFの食事風景だと思ったからだ。

 ピッタリと規格化された寸法の容器や、チューブに入った栄養満点の食事。手軽で効率的で、しかし味気ない。そんな描写は、例を挙げるまでもなく数々の映画やゲームに登場する。そんなSFの未来世界がどうなるかというと、これもまた、たいていは破滅へと向かっていくのだ。

 企業努力。社員一人一人の努力。それは素晴らしいことであるはずなのに、何故、努力を重ねた果てに、こうも寂しい結末が見え隠れするのだろうか。

 色とりどりの寿司がレーンに並ぶ回転寿司は、確かに不衛生ではあるかもしれないが、夢があった。そんなことを考えてしまうのは、時の亡霊に憑りつかれた懐古主義者だからなのか……。

 くるくると踊るように立ち上る珈琲の湯気が、僕を夜の彼方へと導いていく。

 否、違う。

 僕は寂しさを感じたのは、単に僕が古い人間だからではない。

 そもそもこの世界は、回転というものと密接な関係がある。惑星は公転し、地球は自転し、電子はスピンしている。

 人間が創り出してきたモノに限っても、車、レコード、時計、観覧車、輪廻転生という考え方に至るまで、長続きしているものには、回転を伴うものが多い。そう考えられるのは単なる偶然だろうか。

 時代や季節が移りゆくことを表す「めぐる」という言葉も、「廻る」と書くことがある。きっと漢字が伝わった昔から、人は回転の自然な感じ、心地よさを知っていたのかもしれない。

 某回転寿司チェーンの行く末をどうこう云いたいわけではないが、ゆったりと回っていく寿司を眺める日々を、いつかまた迎えたいものだ。いや、季節が廻れば、きっとまたそんな日もやってくる。そう信じている。


 END


お読みいただきありがとうございました。

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