贋作の無言症
ひょんなことから、文字を教わりにいくことになった杉三は、あまりのできなさに、無言症にかかってしまう。はて、声のでるようにするには。
コミュニティホール。コンサートが終わり、杉三と蘭が、ホールから出てくる。
杉三「ああ、楽しかった、いいコンサートだったなあ。」
蘭「珍しいね。杉ちゃんが、ベートーベンを聞きにいくなんて。」
杉三「いいじゃないか。よいものはそれでいいんだから。あれ、今日は隣も何かやってるの?」
蘭「隣も?なにも知らせはないけど。」
杉三「音楽が聞こえてくるよ、ベートーベンの音楽ではなく。なんか、歌を歌ってるみたい。」
蘭「合唱練習でもしてるんじゃないかな?他にも音楽する部屋はあるから。」
杉三「違うよ、個人稽古だよ。声の低い人と、高い人がいるみたい。」
蘭「よくわかるね。さて、駅へもどろうよ。」
声「あの、もしよろしければ、体験してみませんか?体や心を癒すトレーニングです。」
二人、その女性の方を見る。紐なしの上着に、ホットパンツ、体は真っ黒に焼けている。
蘭「あの、あなたは?」
女性「セラピストの、池谷ゆきと申します。」
蘭「悪いけど、そうはみえませんね。僕らは、洗脳されるような悪人ではありません。お引き取りを。」
杉三「蘭、見かけで判断はだめだよ。やってみようかな。」
ゆき「じゃあ、こちらにいらしてください。」
と、ホールの隣にある小さな部屋に彼をつれていく。
ゆき「まず、お名前は?」
杉三「影山杉三です。」
ゆき「その顔に合わない固い名前なのね。」
杉三「仕方ないですよ。僕が僕に名前をつけるのは、できないでしょ。」
ゆき「面白いこというのね。で、いつ頃から悩んでいるの?」
杉三「悩んではいませんよ。誰かの役にたちたくても立てないのは悲しいけど。」
ゆき「歩けないのは事故?」
杉三「生まれつきです。」
ゆき「仕事は?」
杉三「特になにも。古筝と大島と、それだけあればいいから。」
ゆき「まあ、、、。お兄さんは?」
杉三「お兄さんではないですよ。友達だから。」
ゆき「ご両親は?」
杉三「いません。僕が生まれてきてすぐ亡くなったから。母は、介護職です。」
ゆき「あなた、お年はおいくつなの?」
杉三「四十五。」
ゆき「まあ、ほんとうに。お綺麗なのに、心は怠け者の豚なのね、いい、それをなんとかしないと、あなたは、一生をダメにするわ。明日、私の家にきなさい。いい、よいところを認めるなんて、甘ったるい考えを改めるように、教えてあげるから。このことは、他言してはいけないわよ。」
杉三「どうやっていけばいいんですか?」
ゆき「富士駅から、富士本町通りをあるいてすぐのところに、癒しの水っていう看板があるから、それを目印にしなさい。」
杉三「僕は、あきめくらなので、よめないんです。」
ゆき「は!あなた、いくら不自由だからって、養護学校くらいは行ったでしょう?」
杉三「いってないです。」
ゆき「虚言癖があるのね。それもしっかり直してあげりるからね。」
杉三「本当の話なんだけどな。」
ゆき「わかったわ。とにかく明日来なさい。それが、第一歩よ。特別に明日だけ、駅まで迎えにきてあげるから。」
杉三「わかりました。」
ゆき「じゃあ、今日は終わるから、必ず来なさいね。」
杉三「はい。」
ゆき「他人に喋っては絶対にだめよ!」
杉三「はい。」
ゆき「よろしい。一人で帰りなさい。」
杉三は返事もせずに、蘭のもとへ戻る。
蘭「ずいぶん長かったなあ。悩みがないから無縁かと思ったが、結構あったんだね。」
杉三「喋ってはいけないの。」
蘭「何を?」
杉三「喋ってはいけないの。」
と、がっくりと肩をおとして、ホールから出ていってしまう。
翌日、蘭の家。蘭が、朝御飯を食べていると、アリスが蘭のスマートフォンをもってくる。
アリス「蘭、杉ちゃんのお母さんから。」
蘭「わかったよ。」
と、スマートフォンを受けとる。
蘭「はい、変わりましたが、」
美千恵「蘭さん、昨日何があったんですか?二人でオーケストラのコンサートにいったのですよね?」
蘭「それが、僕もわからないんですよ。帰りのバスのなかでも、涙ばっかり流していて、なんにも喋ってくれませんでした。聞けば喋ってはいけないのってしか言わないんですよ。」
美千恵「そうですか、、、。」
蘭「で、杉ちゃんはどうしてる?」
美千恵「どこにもいないんです。いかなきゃいけないところがあるからって、朝御飯をたべたらすぐ出掛けてしまいました。」
蘭「一人ではどこにもいけないはずでは?」
美千恵「迎えにきてくれるからいいって言うんですよ。それ以上はなにも言わないので、私も困っているのですが。」
蘭「僕も、心配ですよ。確かに昨日から、様子がおかしいなとは、思っていたのですが。」
美千恵「ちょっと、警察に頼んだ方がいいかもしれないわね。私、いってくるから、とりあえずここで切るわ。そうしたら、またかけるから。よろしくね。」
蘭「わかりました。」
と、電話を切る。
そのころ、杉三はゆきの事務所にいた。
ゆき「じゃあ、まず私が動かすから、鉛筆をしっかり持っていてね。」
と、杉三の腕を掴んで、無理矢理うごかす。
ゆき「ほら、いい?す、ぎ、ぞ、う。こうかくのよ。これがあなたの名前なの。わかる?」
杉三「わかりません。」
ゆき「つぎは、この手本のうえに紙をおくから、なぞって書きなさい。」
と、手本のうえに写し紙をおく。杉三は、その紙に鉛筆をおくが、動かすことができない。数分後に鉛筆をうごかすが、手本からはみ出して、大きな文字になってしまう。
ゆき「全然ちがうじゃない!なんでこんなにはみ出しているの!あなた、目が悪い訳じゃないでしょ!もういっかいやりなさい!」
と、また紙をおいてなぞらせるが、きやそにつく濁点の位置をかなり離れたところに書いてしまったり、また別の紙では、すの結ぶところが、極端に大きくなってしまったりして、どうしても手本通りに書くことができないのである。
ゆき「ねえ、あなた、将来のことってどう考えているの?確か、四十五って言ってたわよね。それだけ生きていれば、人が死ぬ場面って見たことない?」
杉三は、答えない。
ゆき「ないわけないでしょ?死ぬというのはね、もうここからいなくなるということよ。例えば、お母さんが死んだらどうなるか、考えてみなさい。きっといま、いろんなところで甘えて、例えばクレジットで買い物をする時も、署名してもらっているはずよね?それがなくなったら、物がかえない。お金がなかったら食べ物に困るはず。それがなかったら、生きていけない。そのためには、読み書きができなきゃいけないのよ。」
杉三の目に涙がでる。
ゆき「泣いたってだめよ!自分で覚えようとしなければ!自立することを考えなさい!」
ゆきはさらに続ける。
ゆき「どうして黙っているの?黙ればいいなんて甘えてはいけないわ!いい、私のいうことは真実なのよ、あなたの住んでいるところが間違っているの!あなたは1歩そとに出れば、間違いなく生きてはいけないのよ!いいわ、私がいっしょにいって、甘やかす人を目覚めさせてあげるから。じゃあ、一緒に帰りましょうか!問題はあなただけじゃないわ、ご家族にも十分問題があるから!」
杉三は、だまって、外に向かって車いすを動かし始める。
ゆき「そう、逃げるの?二度とあなたは幸せになんか、なれないわよ!さっさと死ぬのが一番ね!」
その言葉を聞かずに出ていってしまう。ゆきも呆れてしまっていたが、何か思い付いたらしく、レポート用紙を取り出して何か書きはじめる。
同じ頃。
蘭「すぎちゃーん!すぎちゃーん!」
と呼びながら、蘭が、車いすを動かしている。美千恵が反対方向からやってくる。
美千恵「蘭さん、いた?」
蘭「いません、こっちは。」
美千恵「駅にもいなかったわ。」
蘭「どうしよう、、、。」
美千恵「ねえ、蘭さん、あそこを見て。」
蘭「あれは、公園ですよね。なんか人がいるみたいだけど、」
美千恵「もしかして!」
と、急に公園に向かって走りだす。走れない蘭は、あとをついていく。
公園。一人の若い男性が、杉三を背負って池から出てくる。もう一人は老人で、公園のアヒルたちにやるための、パン耳のたくさんはいった袋をもっている。
男性「大丈夫だよ。いま脈をはかったけど、平脈だよ。」
と、杉三をレジャーシートに寝かせてやる。
老人「お前は勉強はダメだったが、水泳は得意だったからな。それがこうして生かされるなんて、やっぱり無駄はないぞ。」
声「すみませーん!」
と、美千恵が駆け込んできた。
老人「はい、何か?」
美千恵「その人、うちの息子ではないかと思いまして。」
男性「そこのレジャーシートで寝てますよ。」
美千恵はそこへかけより、
美千恵「しっかりして頂戴!」
と、杉三の肩に手をかける。
老人「ご家族の方ですか?大丈夫ですよ。彼が身投げしたとき、こいつが、急いで救助したので、大事に至らずにすみました。しかし、何かあったんですか?」
車いすの音がして蘭がやって来た。
蘭「杉ちゃんは?」
美千恵「こちらの方々が、助けてくれたみたいです。」
蘭「よかった。ありがとうございます。」
美千恵と蘭は、二人に深々と頭を下げる。
レジャーシートからごそごそ音が聞こえてきた。
美千恵「無事でほんとによかった。」
と、杉三を抱き締める。
美千恵「うちへ帰りましょ。それだけでいいから。」
蘭「僕、ジャンボタクシー頼んできます。車いすがどこにも見当たらないから、借りてきますよ。」
老人「思い詰めてしまっていたようだから、よくお話を聞いてあげてくださいね。それが一番大事なことだからね。」
美千恵「はい、わかりました、ありがとうございます。」
老人「まあ、うちのバカ孫が、人助けをしたのは初めてだ。勉強をそっちのけで水泳教室に入り浸っていたのが、やっと身を結びましたよ。」
男性「じいちゃん、そんなこというなよ。机のうえの勉強より、水泳の方が役にたつんだって、やっとわかったんだから。」
蘭「ジャンボタクシーがとれたよ。すぐ来るって。」
美千恵「本当に、ありがとうございました。必ずお礼はしますから。」
老人「いいってことよ。」
男性「またな。」
ジャンボタクシーがやってくる。美千恵は用意されたストレッチャーに杉三をのせる。蘭も、乗務員に手伝ってもらいながらのりこむ。最後に美千恵が、頭をもう一度下げてから乗り込むと、自動ドアが閉まり、タクシーは走り去っていく。
杉三の家。
美千恵「ほんとに、なんであの子が、公園の池に飛び込んだのかしら。何か、知らない?蘭さん。」
蘭「ごめんなさい、僕がコンサートにつれていったのが悪かったのです。そのとき杉ちゃんは、ある女性に呼び止められて、何か話をしていました。僕は、名前もなにも聞かなかったのですが、それが終わったあと、杉ちゃんは、喋ってはいけないと急に言い出して、それから全く口を利かなくなってしまったんです。そんなわけで、杉ちゃんがあったひとの名前とか聞き出せないんですよ。杉ちゃんが、文字を読んでくれたらと、思わずにはいられないです。」
美千恵「そう。私の方こそごめんなさい。これから、いかせないようにするわ。」
蘭「その方が賢明ですね。僕も気を付けます。」
美千恵「本当にそうね。」
一方。ゆきは、夜になってもレポートを書いている。
ゆき「これでやっと、私も合格だわ。きっと、これで。」
ゆきは、レポート用紙に杉三というあきめくらの男、とかく。そして何かを思い付いたかのように、さらさらと書きはじめる。その作業は、鶏が鳴き出すまで続く。
数日後。
郵便ポストに、なにか投函する音。目が覚めたゆきは、布団から跳ね起きて、ポストに直行する。予想していた通り、茶封筒が入っていた。部屋に持ち帰り、鋏をだして封をきり、中に入っていた書類を見てみると、
「不合格」
の三文字。
ゆきは、怒りに任せてスマートフォンをとり、ダイヤルを回す。
声「はい、受講サポートセンターです。」
ゆき「あの、池谷です。レポートのことで抗議したいのですが、」
声「しばらくお待ちください。」
保留音は、ラバーズコンチェルトだった。ゆきは音楽が嫌いだった。
なので、待っているのは堪らなく苦痛だった。音楽なんて聞いても仕方ない。とにかく必要最小限の費用は自分で稼ぎたった。家族のせいで、何度、良い子にしていろと言われただろうか。結婚しても同じことを繰り返すばかり。それなら、独身でもいいから、何とかして自立したい!そう願っていた。
声「池谷さん。」
教官の男性の声がしていた。
ゆき「は、はい!」
教官「今日は何についての問い合わせですか?」
ゆき「どうして私が、不合格なんですか?あの男の甘えているところを私はしっかりと指摘したつもりでした。話をきいて、クライエントの問題点を見つけさせるって、必要な技術だと仰っていたじゃないですか!」
教官「そうですけど、やり方が間違っていますから、合格にはできません。」
ゆき「は?」
教官「これでは、カウンセリングではなく、拷問です。ディスレクシアのひとに、無理矢理名前を書かせるのは、カウンセリングではありません。ディスレクシアは、学習障害のひとつで、公に認められている障害なんです。そんな人を傷つけるとは、心理学を扱う仕事としては、完全に失格ですね。」
ゆき「で、ディスレクシア?」
教官「ディスレクシアも知らないなんて、
カウンセリングを学ぶ資格はありませんね!やめたほうがいいですよ。あなたの様な人は、精神科か、刑務所で働いたらどうですか。
その方がますます楽になると思います。では。」
と、電話は切れてしまう。
ゆき「なんで私だけがいつになっても自立したいのに、できないのよ!」
おもいっきり机を拳でたたく。
ゆき「私も一人になりたいのに。」
心を癒す。それが夢だった。いつのまにか、変わってしまったのだろうか。
不意に、ゆきの目の前が暗くなった。次の瞬間、幼い頃住んでいたあたりにいた。
母親が息を殺して外を覗いている。ゆきは母と二人で押し入れに隠れているのだった。
母「ゆき、声をあげちゃダメよ!」
幼いゆきはよく理解していなかった。
父「いま買い物に出掛けてますが。」
男性「病院を脱走してから、患者がさいしょに逃げる場所としたら、まず第一には自宅なんですが」
父「いえ、見かけてはおりません。」
男性「なにしろ、万引きで捕まったのがこれまでに五回あります。それはおそらく覚醒剤を買うためでしょう。これではまた、刑務所に逆戻りになりますよ。」
父「退院したとき、覚醒剤はやめると、いっていましたけど。」
男性「彼女の場合、それはあてになりませんね。いずれにせよ、彼女がもしこちらにきたら、必ず連絡をください。」
と、苛立つように帰っていく。それを確認して、父は押し入れの戸を開ける。
ゆき「大成功だわ!」
母「ありがとね、お父さん。」
父「なあお前、覚醒剤を始めたとき、友達はいたのか?」
母「いなかったわ。園長も主任も、みんな悪い人だったから。みんなね、あたしより若くて美人な、ゆみっていう一年坊主の保育士ばかり可愛がってた。」
父「じゃあお前、誰にも相手にされなかったんだな。」
母「そうよ。あたしはたった一人で壁面画像をつくってたわ。あの女はいろんなひとに、手伝ってもらっていたのにね!あたしはなにもないから、薬に頼るしかないのよ!」
父「辛かったな。だからといって、覚醒剤には手をだすなよ。ゆきもいるし、お前は少し回りを見て、あの女ではなく、いまは違うってことを自覚しろよな。」
母「そうね。あんたに、話を聞いてもらうだけで、あたしは幸せよ。あんたみたいな職業は、増えてくれればいいのにな。」
ゆき「ゆきがお母さんの話を聞いてあげる!」
母「まだ無理よ。」
ゆき「将来の夢として持ちたいの。だから、お母さんも覚醒剤は
やめて。ゆきとの約束だからね。」
母「わかったわ。それにしてもませてるわね。ゆきは。」
ゆき「約束だよ!」
数年後。小学校から戻ってきたゆき。家の前に、ミニパトカーがとまっている。
ゆきは、近くに植えられていた、桜の木の後ろに隠れる。何人かの警察官と、一緒に出てきたのは、手錠をかけられた母だった。
ゆき「お母さん、やくそく、やぶった。」
がっくりと落ち込んだ。
その後、ゆきは親戚の家の養女になり、他の子と同様に、大学にも行かせてもらった。卒業後は、看護師として働いたが、数年しか続かなかった。老人施設でも働いたが続かない。なら、カウンセリングをして自営業をと思い、目下、通信講座でカウンセリングを学んでいるが、合格できないのだった。
ピンポーン、と、呼び鈴が鳴った。ゆきははっとして、玄関のドアを開けた。
ゆき「はい、どなたでしょうか?」
美千恵「先日こちらにお世話になりました、影山杉三の母でございます。」
ゆき「母親!」
美千恵「ええ、杉三のことについて相談しにきました。」
ゆき「とにかく、あがってください。」
美千恵「お邪魔します。」
二人、応接間に入る。美千恵は、ゆきが出した茶を飲み干す。
美千恵「あなた、先日うちの杉三に、なにかしたそうですね。」
ゆき「わるいのは、彼を放置した貴方がお悪いんですよ。だって、貴方がお母様なら、杉三さんが、文字が書けないまま一生を送ったらどうなるかくらいお分かりになりますでしょう?」
美千恵「ええ、わかりますよ、それでは、できないことがより多くなる、ということについては、どう思われますか?」
ゆき「そうしないように、鍛え直すしかないのでは?」
美千恵「単刀直入に言いますが、杉三、失声症になったんです。お医者様にきいてみましたら、暫く静養したほうがよいと言われました。
暫し、東京にいってゆっくりしようかと思いますが、その原因がわからなければ何もなりません。なにがおきたのか、説明していただけないでしょうか?」
ゆき「単に、自分の名前を練習させただけです。お母様こそ、なぜここを知りましたか?」
美千恵「わたしが、インターネットで知りました。あなたのカウンセリングはひどすぎると、たくさん書いてありましたから。」
ゆき「まあ、私は、そんな評判しかないんですか?」
美千恵「あなた、もう一度、ご自身が社会と繋がってることを知った方がいいですよ、」
ゆき「とっくに知っていますよ、自分のことですから。」
美千恵「はたして、どうなのかしら。よくわからないわ。」
と、あきれたかおで、ゆきをみる。
ゆき「あなたが、息子さんの成長を邪魔してますよ、この時代に、文字の読み書きができないと、どんなに苦労するか、わからないんじゃありませんか?あなた、本当にお母さんなんですか?お母さんであれば、自分の息子さんが、読み書きができないために、将来辛い思いをして、幸せな人生をおくるのが不可能になってくるのが、想像できるんじゃ、ありませんかね?」
美千恵「ええ、悩みましたとも!何度教えてもだめなんです!」
ゆき「だったら息子さんに、親として、厳しくなってください。息子さんが、お金を欲しがったら、自分の名前を書けるようになるまで与えない、などの条件を出すようにしてください。真の厳しさは真の愛情ですからね。」
美千恵「ええ、わかりました。」
ゆき「じゃあ、結果をお待ちしています。」
美千恵「わかりました。」
と、椅子から立ち上がる。
美千恵「タクシーで帰りますので、送りはなくても構わないです。」
と、振り向きもせずに、玄関を出ていく。ゆきはまた、レポートをかきはじめる。なんとしてでも、合格しなければ。貯金もそこをつき始めていた。
蘭の仕事場
蘭「そうですか、そんなにひどく苛められたんですね。お辛かったでしょう。」
客「先生だけですよ。こんなにお話を聞いてくれたの。誰かにいっても、みんなお前が悪いしかいいませんから。お前が、最終的にあの学校へいった、なんて理屈ばっかりで、辛いという気持ちを受け止めてくださったのは、先生だけです。」
蘭「大したことはないですよ。ただ、そうやって傷ついた事を忘れたいために、彫ってほしいという方は多いですからね。なんだか、かわいそうな人が増えたな、というきがしますね。」
客「僕の、この、たくさんある根性やき、刺青で消せるでしょうか?」
といって、彼は左腕を見せた。火傷のあとがたくさんついていた。
蘭「図にもよりますが、なんとかなると思います。ただ、刺青というのは、流行りのアメリカンタトゥーとは訳が違う。心の内にかくしておくのが日本の文化ですからね。彫ったぞ!と、見せびらかすものじゃないのですから、それをまちがえないように。」
客「先生、それでは、僕はどうやったら過去を忘れられるのでしょうか?この、根性やきがあるかぎり、僕はあたらしい世界には進めないですよ。」
蘭「僕は彫ることでお手伝いはできますが、あとは、ご自身の力でしょう。」
客「先生にもそういわれてしまうのなら、僕はもう、」
蘭「だめですよ、しっかりと生きなきゃ。僕は、格好いい台詞は持てないけれど、生きているのを放棄してしまうのは、神様を裏切るのと、同じだと思うんです。」
客「僕、、、。」
蘭「ここでは思いっきり泣いてもいいです。怒りをぶつけてもいいです。さけんでも、怒鳴ってもいいですよ。まあ、刺青というと、悪人のイメージもあるから、かえって他人から相手にされなくなりますし、そうなれば、好きにして良いので、楽になるときもない訳じゃないですから。ただ、自傷はしないでくださいね。ほんとに。」
客「ありがとうございます。本当に先生は、学校の先生より素晴らしいです。」
蘭「いいんです、いいんです。若い人が怒りをぶつける場所がないのは、よくわかりますからね。僕が彫った人も、そういう人たちばかりですよ。だから、彫り師の僕だけは、そういうお客さんの味方でやりたいと、考えているんです。ただやっぱり、神様を裏切るようなことをしてはいけないとは、思うので、それは厳しいかもしれないけど、伝えるようにしていますよ。」
客「先生、彫るまえに、僕のつらいはなしをきいてくれませんか?新しく生まれ変わりたいのですが、つらかったのを、受け止めてもらわないと、できないと思うんです。」
蘭「わかりました。一緒に余分なものを手放していきましょう。そして、新しいあなたになるために、彫る準備をしましょう。」
カフェ。買い物袋を膝にのせたまま美千恵と蘭が、話をしている。
蘭「暫く彼の話を聞いたけど、本当にひどい話でしたよ。彼は、間違いなく被害者なのに、退社をしろと言われたらしい。彼をやめさせたい上司が、他の社員に彼に根性やきをみつけさせ、退社に追い込んだらしいから。」
美千恵「じゃあ、会社の人たちに、根性やきをさせたわけじゃないのね。それは、過去についていたのね。ほんとに、いやな手ね。」
蘭「根性やきをされたほど、目立っていたのですかね。本人は、他人と交わるのが、本当に苦痛で仕方ないといっていましたよ。小学生から他の人と、会話するのにネタが切れて困るといっていましたから、知恵遅れと間違えられていじめにあったみたいですね。」
美千恵「もしかしたらだけど、うちの杉三に近いんじゃないかしら。」
蘭「なるほど!わかれば対策ができますよね。」
ま美千恵「ねえ、一つ提案があるの。その彼に協力して貰って。」
蘭「協力、ですか?」
美千恵「あのね、」
蘭「ああ、なるほど。」
美千恵は、スマートフォンをとり、ダイヤルを回す。
翌日。
ゆきは新しいクライエントの来訪に備え、掃除をしたり、カウンセリングのマニュアルを開いたりする。数分後、インターフォンがなる。
ゆき「どうぞ、おはいりください。」
声「はい、ありがとうございます。」
と、玄関のドアがあく。特に病んでいる様子もなさそうだ。昨日、蘭のところにやってきた、あの客だった。
ゆき「大石敬一郎さんね。今日はなんの事でお話にきたのかしら。」
敬一郎「はい、いじめにあって、それが忘れられないんです。高校生の時でしたが、殴る蹴るは日常茶飯事だったし、教科書をゴミ箱に捨てられたり、ひどいときは、靴を燃やされて裸足で家に帰ったりしたんです。」
ゆき「ちょっとまって、本当に変わるきがあるの?」
敬一郎「カウンセリングは、まず聞いてくれることからだと言われましたが、」
ゆき「違うわよ。答えを出すのはあなたなんだから。私をたよってはいけないわ。」
敬一郎「そういわれてもわかりませんね。僕は、いじめにあって、それを早く忘れるには、誰かに聞いてもらうのが一番といわれました。その手伝いをしてくれるのが、カウンセリングといわれてきたのですが。」
ゆき「まあ、話は聞くけど、私のカウンセリングは、そういうものじゃないわよ。たしかに、心はめに見えるものじゃないわ。たとえば体に腫瘍ができたなら、医者でしかわからないから医者に委ねなきゃならないところもあるけれど、心は、自分でしかわからないものよ。いじめがあったかもしれないけど、他人には見えるものじゃないし、どんなに言葉をかけたとしても、解決するのは自分なのよ。それを最近の若い人は誤解してるわね。」
敬一郎「じゃあ、いじめられたのが、はっきりとわかるとしたら?」
ゆき「どういうこと?」
敬一郎は、腕をめくる。おびただしい根性焼きのあと。
敬一郎「これでも、僕は、答えを出さなきゃいけないのですか?」
ゆき「あ、、、。」
敬一郎「助けてはくれないんですか?」
ゆき「だから私をたよっては、いけないと、」
敬一郎「僕、これがあるからいつまでも忘れられないんです。はやく忘れろとみんな言いますよ。でも、このあとのせいで、忘れることができないのです。だからこそ、聞いてくれる人がほしいんです。それを甘えというのですか?弱いというのですか?可能でしたら、これの消し方、教えていただきたい位ですよ!聞くのを商売とするのはできるかもしれないけど、それを越えたら、押し付けですか?」
ゆき「仕方ないのは、仕方ないのよ!」
敬一郎「わかりました。こういう方に聞けばよいと思われましたが、何も意味がないんですね。杉三さんがかわいそうですよ。いま、無言症になってます。彼も、読み書きできないのを結構気にしていたから、もっと深刻でしょうね。」
と、鞄から千円札を取り出す。
敬一郎「じゃあ、こちらで払っておきます。」
と、いいながら部屋を出ていってしまう。
ゆきは、大きなため息をつき、またレポートをかきはじめる。
一方、蘭の家では、全くしゃべれなくなってしまい、机に臥していつまでも泣いている杉三を、蘭とアリスが預かっている。一人にしておくと、危険なことをしてしまう可能性があるからだ。
アリス「杉ちゃんまだしゃべれないままなの?」
蘭「金魚みたいに口は動かせるけど、声がでない。」
アリス「よっぽど傷ついたんじゃない?」
蘭「そうなんだ、だから、敬一郎さんに、その女のところにいってもらって、カウンセリングができる人か、証明してもらおうと思ってね。杉ちゃん、他にも被害者がいれば、安心すると、君のお母さんがいっていたから、二人で作戦をたてたんだよ。」
アリス「なるほどね。まあ、こっちで預かるのは構わないけど、ちょっとばかりか、やたらかわいそうに感じるわね。」
蘭「杉ちゃん、本当に言葉を忘れてしまったのかなあ。」
アリス「音楽でも無理かしら。杉ちゃん、歌を歌おうか。」
と、ピアノを弾きながらフニクリフニクラを歌う。
蘭「そんな陽気な歌を歌うなんて、本当にあかるいな、お前。」
杉三「フニクリフニクラ、フニクリフニクラ、」
蘭「杉ちゃん、いま歌ったぞ!」
アリス「さあ、もっと歌って!フニクリフニクラ、いくわよ!」
杉三「フニクリフニクラ、フニクリフニクラ、」
アリス「よかったよかった!やっぱりすごいわ、音楽の力よ!」
杉三「僕、しゃべってる?」
蘭「そうだよ杉ちゃん!1ヶ月ぶりにしゃべってくれてありがとう!」
杉三「ほんとに、しゃべってる!嬉しい!」
蘭「いや、ほんとによかった。」
と、肘で涙をふく。
アリス「泣かないでよ。」
蘭「ほんとだ。」
と、玄関のドアを開けて、敬一郎がもどってくる。
蘭「お帰りなさい、どうだった、あの女。」
敬一郎「まあ、能力はまるでゼロですね。カウンセリングどころか、ただの説教師です。それなら、先生が彫ってくれた方がらくになれますよ。ほんと、カウンセリングというか、心が曲がってますね。まあ、合格するようなことは、いくらレポートをだしたとしたって、まず、ないでしょうね。」
蘭「ほら、杉ちゃん、わかったでしょ?こういって証明してくれた人がいるんだから、さっさと忘れてしまえばいいんだよ。なんで、わざわざ病気になる必要があるんだ。馬鹿馬鹿しく思えばいいのさ。」
杉三「バカの一つ覚えだ!あははは。でも、こうして笑ってかたづけてくれる人がいてくれるのが一番の幸せだよ!」
敬一郎「杉ちゃん、しゃべれるようになったんですか!よかったですね!」
蘭「杉ちゃんらしい発想だね。お母さんにも報告しようね!」
杉三と、蘭は、互いの体を叩きあってわらった。
笑っている人間たちを祝福するかのように、庭の花たちが風にゆれていた。
敬一郎「わあ、いい匂いですね。こういうお花の匂いをかいだり、風の音を聞いたり、それが一番なのかな。」
蘭「そうかも。」
杉三「いかさま商売するような人は、花のにおいなんて、感じないよ。」