8 【テイム】(1)
『ダメ、か』
反射的に浮かんだ恐さが過ぎ去った時、頭の中を駆け巡ったのは終わってしまったという強い諦めだった。
支えを失った偽物の体が後ろに傾ぎ、肌へと刺さっていた剣状の牙は抜ける。存分に噛み千切られたフォルネウスの口内を見事に『素通り』し、投げ出された四肢はそのまま地面の上を仰向けに転がる。
床への接触と反動に跳ね、力なく垂れ下がった両手両足にどれだけ起き上がろうと思っても起き上がる事が出来ない……当然だ、【死んで】しまったのだから動きようがない。
『……くそ』
吐き出した吐息はキャラクターの口を介さずにどこか遠くから、ガラス越しの言葉のように耳に響く。
されるがままに仮初めの重力に任された身体は床へと寝転がり、上を向いた視界は見たくもないのにさんさんと輝く頭上の【DEAD】の文字を目に焼き付けてくる。
『ハァ』
【妖精女王オンライン】において死亡キャラが元気に這い回るような、そんな矛盾は許されない。例外を除いたあらゆる操作権利がキャラクターから剥奪され、見るともなしに高い天井を見渡すと自分を殺した張本人である青白い鮫が悠然とこちらを見下ろし続けていた。
『悔しいな。だから、ボスってやつはッ……あーぁ』
無力さと負け惜しみが原動力となった呟きは空気中のどこかから漏れ、吐露した言葉以上に冷静な達観が胸を包んだ。
『……』
完全に負けだ、大敗北。
どこをどうやれば良かったってものじゃない、どこをどうしてもどうにもなりはしなかったと……真面目に戦力分析を続ける頭の一部が囁きかけてくる。
被我の戦力差は圧倒的、どう捻って考えてみても『この相手は無理だろう』とアッサリ白旗を上げてくれるのだから救いがない。
『……ワンチャンか』
【テイム】が成功すれば勝てたなんて簡単で甘い話でもない。戦闘開始数十秒でほぼ全壊。操作主である自分も抵抗の意味もなく倒された……スキルを使おうにも何か幕のような物に覆われ相手には届かず、邪魔な覆いすらも触れているだけで死亡するような卑怯じみたダメージ判定を生む防護柵だ。
突破しようにも触れない、何もしなかったら普通に攻撃されてやられる。
一度だけ見た青い火柱はモンスターを一撃で殺し、宙を漂う巨体の突進に巻き込まれればバリア込みのダメージ計算で轢き殺される。
どうすればよかった……
『……』
遠くから硬質の、カリカリと床を掻くような音が聞こえた。操作は効かないので首は曲げられない。
辛うじて、視界の届くギリギリの距離に見えたのはあてもなく辺りを歩き続ける蜘蛛だった。
使役者が死に【テイム】の呪縛から解放された為、ただのモンスターへと戻った配下の蜘蛛はそぐわぬこの場に緊張するように忙しなく周囲を歩き続けるだけだった。
『残ったのはアイツだけか』
まだ……やろうと思えば反撃の『芽』はあった。最早一匹しか残ってないが。使用者が死亡した事により【テイム】の敵対心は一度リセットをされているはずだった。
恐ろしく心許ないがやろうとすればあの蜘蛛を再度使役する事は可能であり。
何もかもが終わってしまっている今の状況でももう一度だけ仕切り直せる切り札のような道具も用意はしてあった。
『……』
見上げる視界の中央に死亡前までは無かったはずの新しいウインドウが浮かんでいる。白枠にまばらな光という独特なエフェクトを纏った、見る機会の少ないウインドウだ。
……今の今までずっと俺が無視し続けていたものでもある。
『蘇生薬を使用しますか? YES/NO』
『……』
──【DEAD】状態に陥ったキャラクターはあらゆる行動が制限される。それは他キャラクターによる蘇生措置を受け入れるか、死亡満喫時間を完了するまで変化する事はないが……唯一といってもいい手段でその状態を解除出来るものがあった。
おそらくは途中で出会ったあのパーティーのメンバーは持っていなかったのだろう。死亡状態をなしに出来る特殊な回復アイテム『蘇生薬』というものがゲームには存在する。
これを使えば文字通り生き返る事が出来るのだが……
『生き返っても……な』
蘇生薬は貴重品だった。当然使わずに所持し続ければ消費しないままにどこかの町で生き返る事は可能だ……
これ見よがしに自己主張を繰り返す許諾ウインドウを見返し俺は溜息に近い息を吐く。
『一人で頑張って、それでどうなるもんでもないだろうコレは』
復活用のアイテムを用意したのはあくまで念の為。『蘇生薬』は決して安いアイテムではない。
元々持っていれば生き返れるというチート(不正)アイテムだ。最大所有数が【1】とはいえ気軽に使い捨てられる程簡単なものじゃない。
ハッキリ言ってしまえば犬死にの為にわざわざ使用はしたくないんだ。そして、今仮に起き上がったとしてやられてしまう以外の未来は見えてこない。
『…………ダメだな』
考えに考えた末、辿り着いた結論は『使わない』というものだった……思い至るまで多少の時間が掛かったのは【獣使い】プレイヤーの中でも自分は上位だからと、何の役にも立たない妙なプライドが邪魔をした結果だった。
冷静に考えれば分かるだろう。
予想していたよりもずっと強かったボスモンスター、勝てる見込みの少ない手駒。そもそもの目的が嘘か本当かも分からない噂の検証だ……頑張って立ち上がって『やっぱり【テイム】無効のボスでした』では非常に、面白くない。
『少し、悔しいが』
スキルが通じるか以前の問題で、本体の鮫まで近寄る事すら出来なかったのはかなり悔しいが……それも仕方ない。悪いと思うが掲示板の人間には何も出来なかったと伝えるしか──
『ん?』
……そこまで考え、ふと頭上の光景が少しおかしい事にようやく気付く。
配下モンスターはもう居ない。生き残った味方は無く操作者である自分も蹴散らされたはずなのに、フォルネウスはそのままその場で浮かび続けこちらを見下ろしている。
『……なんだ』
これは少しだけ変な事だ。
瞳の存在しない青白い顔。牙並ぶ口を閉じ、静かに見下ろし続けている姿……それがボス種特有の行動と言われれば経験の少ない俺に反論は出来ないが……普通は【DEAD】状態にされたキャラクターはあらゆるモンスターの『興味』から外れるので気にされる事はない。
そんな事されたらそもそも生き返りづらいだろう。
身体はあってもそこにない、まるで空気のような存在として扱われるのが普通だがこの鮫は倒れたままでいる俺を見下ろし続けていた。
『なんだよコ──』
『不様な……』
『……ハ?』
突如耳に聞こえたのは自分で発した言葉じゃなかった。空気を揺らして満ちる不揃いな声。言葉と共に見上げる鮫の上下の顎が振動し赤色をした口内が確かに揺れる……戦闘前もそうだったが喋る事が出来るのか。質疑応答なんて上等な思考が用意されてるとは思えないがこの場で語っているのは紛れもなくボスだった。
『少シ、期待ハシテイましたが、コんなものですか』
『……』
『失望。期待外れ。不様という他アリマセん』
『──ァ?』
『もういいです。消エてください』
『……』
それだけ。
偽物の空間、不出来な電子音声を奮った蒼白の鮫はそれだけ告げると悠然と宙を泳ぎ出し元居た空中の一点を目指して進んで行く。
『……──』
最新鋭のオンラインゲーム【妖精女王】は……よく、出来ている。
本物と見紛うばかりの壁と岩。辺りを流れる空気、再現される冷暖……これで完璧な匂いや痛覚を実用化されなかったのは良かった事だと思える。そこまでしてしまえば現実と虚構の区別が付かなくなる人間が増えるだろう。
ここは偽物だ。
『……──』
魔法も怪物も、現実世界にあるはずがない。あくまでもゲーム、身体はキャラクター、何千何万通りの一とはいえ、最初から用意をされていた物だ。
『……【YES】』
意識を持って言葉を発すると、優秀なゲームシステムは正しい結果を世界に反映する。目の前のウインドウが短い周期で点滅し、願った【YES】の項目が仄かに光を放ち出す。漏れた燐光はそのまま床に倒れたキャラの全身を巡って行き、僅かな間の後に頭上にあった【DEAD】の文字が散り散りに砕けて辺りに霧散していった。
「……ハ」
『声』が戻って来る。言う事を聞かなかった四肢は主の復活に従順に従い、両足を着けて立ち上がると遥か頭上を泳ぐ宙行く鮫を下から見据えた。
「は、ハハ、巧いじゃないか……余程性悪のプログラマーの設定かよ。たかが、ゲームデータが、人を失望だ期待外れだか不様だと……」
……【獣使い】は縁も関係もないモンスター共を文字通り使う為の職業だ。
全職業中嫌われ度はトップクラス、使役という意味合いから毛嫌いされる事も多く、集団行動では荷物にしかならない完全な外れジョブ。
「──ハァ」
少しだけ……熱くなってしまった頭を左右に振って切り替える。
モンスターは使う。操り戦わせる【獣使い】の武器だ。
「……テイムって、言葉の意味は知ってるか」
武器は……どれだけ優秀でも操作者を見下すなんてあっていい事じゃない。それがボスだといっても変わらない。そんなもの、明確な力とは言えない。
「お前も、テイムしてやろうか」
『……』
フォルネウスが空を泳ぐ。
『──人ョ』
『──可能性ョ、ヨクゾ来タ』
所詮はゲームか、登場時と変わらないセリフを鮫は口にする。張り巡らされた光を受け青く輝くその表面を睨み付け俺は兜の下で口元をねじ曲げる。
「偉そうに」
『──試サナケレバイケナイ』
「試されるのはお前の方だぞ、このフカヒレ。従えた暁にはその広い口一杯に地面を喰わせてやる」
『見セナサィ』
「うるさい」
青白い発光が視界に走る。揺れる火炎が土を抉る。最初は感じられなかった火の熱さを今は明確に感じる。
「──」
後方へと跳ねた手前で発生した火柱を静かに観察するように見送る。
ここは偽物の世界。ゲームの物語。入れ物だけの身体。
……だけど確かに感じるこの胸の底の苛立ちは、決して作り物などではなく俺自身のものだった。