7 眠れる魔鮫(3)
「チ」
耳を貫く大きな『効果音』。
視界を焼いた青。
周囲を歪ませて突如巻き起こった青色の火柱の向こうへと配下の蜘蛛の一匹が消え、視界の端へと浮かばせていた時制式のカウントダウンタイマーが音を立てて崩れ落ちた。
なにも【テイム】の時間が終了してしまったからじゃない。もっと単純な理由で、単に操作していたモンスターのHP(体力)が『0』まで擦り切られてしまったから役目を終えて壊れただけだ。
「一撃死、か」
想定外だったと、そこまではさすがに言わないがそれでも予想していた『ボス』という存在よりも少し上だ。
配下としていたモンスターも所詮はダンジョン内をあちこち徘徊しているだけの一般モンスター。迷宮内の数ある住人の一匹が総元締めであるボスに対して対等に渡り合えるなんて思っていた訳じゃないが、それにしたって──
「だから、ボスってやつは嫌なんだ」
頭上を泳ぐ巨大な鮫を下から見上げる。
青白く自ら発光しているような体。ほんの触り程度とはいえ初手の一発目から明確にされてしまった力の差。
これが普通の、ボスを『撃破』する目的で来ていたプレイヤーであれば顔面も蒼白モノであろうが……生憎の事に俺の目的は最初から『倒す事』ではなく『試す事』だ。
「スキル」
腕を掲げる。
ぐるりと視界全周を塞ぐボスの間とは名前ばかりの巨大な檻。閉じ込められたこの場の主とでも言いたげな視線上のフォルネウスは最初の青白い火の攻撃を放った後は宙を漂うばかりで何の動きも見せようとはしなかった。
能動的なその態度は何かしらの行動の予備動作か、あるいは機械的な組み込まれたルーチンの影響か。一本一本が剣と身紛うばかりの牙を生やし、見返す瞳の存在しない頭を下へと向けて垂らしている。どういうつもりなのかは分からなかったが遠い鮫の頭を掴み取るように指先を合わせ『発動』の合図となる言葉をしっかりとした口調で口から漏らす。
「【テイム】」
声による開始指示に合わせて指の先を中心として浮かび上がる紫色の輪と不可解な文字の帯。目に見える空間が歪みだし、中心から外へと向かって顔を覗かせてくる黒い鎖の先端。
鉄同士が絡み合う奇妙な金属質の声を上げ、空を泳ぐフォルネウスへと向かって狙いを定めると長い鎖が射出される。
【テイム】による捕縛の手は早かった。空気中へと僅かな黒い影を残して走り抜け、先端が青白い鮫の肌へと届くかと思えたその手前で……何か見えない壁によって遮られ止められてしまった。
「ッ!」
……見えないと、そう例えるには少しだけ語弊があった。空中に浮かび上がる壁は障害物というより透明な幕のようなもの。接触した鎖は泥中に物を没したような鈍い音を少しだけ発し、広がる波紋が何もない空中を波立たせて伝わるとまるで何事もなかったかのように静かに押し黙る。
『【テイム】 failed』
「分かってるよ」
間を置かずに新たに浮かび上がったスキル使用結果のウィンドウを端に投げやって、ボスへと睨むような目を向ける。
『そもそもの情報が間違っていた』そうやって一概に試した結果を切り捨てる事は出来なかった。
そもそも、届いてすらいないんだ。
「バリアか、壁みたいなものか。聞いてないぞ」
接触によって広がった波紋は泳ぐ鮫の全周を伝い巡っていったように目には見えた。
戦闘開始から何か特別なスキルや魔法を使った様子もない。つまりこの状態で『デフォルト』という訳か。
「なら、抜けるしかないか」
もたもたとしている程に時間があるとは到底思えない。未だに宙を泳ぐ鮫はどこか泰然としているがいつその攻撃が再び牙を剥くとも分からない。
フォルネウスから視線を外し、近くで待機していた蜘蛛の一匹へと目を合わせる。
「攻撃」
ギッ
意識した個別への戦闘指示に虫の影が脚を張った……念の為に今の内に残ったモンスター達もバラバラに散開しておくように指示を追加しておく。
他の個体とは異なり真っ直ぐにボスを見上げた蜘蛛の一匹は地面を離れ、示した相手へと向かい空を跳び上がる。飛翔にも近いモンスターの跳躍はボスへと迫るのに十分な飛距離を見せ、突き出すように前へと差し出された二本の杭が青い鮫の肌を狙う。
衝撃。
鮫に届くより先に壁への接触。先程のスキル発動時より格段に高い音と波紋が空気を震わせ、必死に届くように蜘蛛は足掻く。
見えない幕に晒されながらもその身体は進み……そして数瞬の後に光に包まれ砕け散る。
「く」
また死亡した。
モンスターの絶命に合わせてタイマーの一つも割れ目が走り壊れて無くなり。テイムモンスターの特徴通りに死亡した後には埃一つすら残らない。
どうやら、見えない壁には接触だけで効果をもたらす『ダメージ判定』があるようだった……それもジワジワネチネチと傷付くような生易しいものではなく一般モンスターが簡単に命を落とすような特大ねダメージ判定だ。
触れない。近寄れない。抜けられない。
そんなものに守られ続けている一撃必殺の力を持つ大きな敵。
「くっ」
──そんなもの笑い話にもならない。
突破する為の思考を巡らせるより先にフォルネウスは空中で輪を書くように明確な動きを見せる。
その場で滞留し続ける動作は終わり音もしない遊泳から一転して空を目指しだし、囲いの天井へと触れるギリギリの部分で更に反転すると……落ちてくる。
「お、おいおい」
宙を巡り段々と迫り来る鋭い鮫のアギト、狙う頭の先が向かうのは散開していた他のモンスター達ではなく俺だった。
「ッ」
見上げていた視線から踵を返して反転すると、ボスから逃げるように走り出す。
数歩足を踏み出す間に一回り。
更に数回地を蹴っている間に一回り。
空中を滑り耳を騒がせる接近音。
「ぐッ」
図体のデカさが根本から違いすぎた。戦闘有りのゲーム世界という事も相まってキャラクターとしての身体能力は現実のそれとは比べようもないが、それでもやって出来る事と出来ない事はある。
逃げつつ首を回して確認する背後。広大な広間が狭く見えそうな偉容。
人一人どころか家一軒丸呑みしてしまいそうな程に大きく開かれた上下の牙。青白い色の体表から一転して真っ赤な血の色を連想させる赤い口内が目に入った。
どうせここは虚構の世界。目の前にあるものが偽物だと頭では分かっても出来過ぎた贋物は実在の身体と心を震わせるには十分過ぎるものだった。
「──くそ」
左手を掲げる……苦肉の策だ。
モンスターすら一撃で倒すような相手に貧弱な本体が持ちこたえられるとは到底思えない。手を掲げた先は散らしておいた手駒のモンスター。
影となって見えない蜘蛛の代わりに熊が見えた。
動作の認識。
目に見えるモンスターへと向かって合わせた指先を固く閉じ、自分の胸元へと引き戻すと肩の辺りを上から叩く。
「スキル」
とても、上手い手とは言えなかった。だが、どうせ終わるならすべき事はしないと──
「【エクスチェンジ】」
迫る鮫の攻撃。
スキルの発動にモンスターと自分とが白い光に包まれたのは同時の事だった。
発光により眩まされた視界がパーツに分かれて不自然に歪み、色という色の抜け落ちたモノトーンによって統一される。
秒以下の単位で視界全体が再変換を始める。岩壁の見えていた場所はぐにゃりと曲がって拓けた場所に、踏みしめた石床の模様は唐突に変わり、背後に迫っていたボスの姿は今や遠くに。
泳ぎ衝突する大きな牙は道中に居た『熊型のモンスター』を巻き込んだ。
接触より先に例の見えない壁により体力は削られ。そのすぐ後に殺到して来た牙と牙……たかが在野のモンスター一匹に耐えられるものじゃない。
閉じられた鮫の顎がやたらに具体的な肉と骨とを引き千切る音を立て、視界の端でタイマーの一つが砕け散る。
極度に年齢対象を引き上げる生々しい死の表現は綺麗な光の粒子によって誤魔化されてしまう為に実感はし辛いがまたテイムモンスターを潰させてしまった。
……最も重要な自分自身が生きているからそれで良いと思うか、いくらなんでも『すり替えて』身代わりなんて非効率過ぎると悔やむか。胸に浮かぶそんな些細な葛藤すら許さないように過ぎ去ったフォルネウスが更に反転する。
「なっ」
悠然と、そして早く。
その巨大とは余りに似つかないコンパクトでスムーズなUターンから口を開く鮫の牙が迫る。
宙を泳ぐスピードは先程の食い散らかしすら遊びに過ぎなかったんじゃと思わせる程に早く。
ぎこちない身体の動きでは回避も間に合いそうにない。
「──」
考えるより先に行動を示したのは理性ではなく本能だった……思考する事を放棄したと言ってしまってもいい。
視界を塞いだのは二本の太い棒。
下げた頭を守って交差された自身の両腕はひどく人間的な防衛本能だったが。
ゲーム的には何の意味もなかった。
衝撃。
防具の役割を越えて肌へと突き刺さる牙の群れ。
痛みはなく、不快未満の柔らかな痺れが襲う。
体から飛び出すのは赤い血潮ではなく煌びやかな火花。
「う、くっ」
体力はごっそりと全てを奪われ、耐える事なんて出来る訳もなく俺は『死亡』した。