月明かりに浮かぶ赤
願うのは、貴方と私の世界。
祈るのは、貴方と私の未来。
だから――。
どうか私にお与えください。
いつまでも貴方の傍で笑っていたいのです。
どうか私に……。
明かりが一つもない密閉された部屋の中。
私は一人、寝台に横たわっていた。
昼間は、窓から射し込む太陽の強い光が、私だけの世界を映し出してくれる。
けれども、夜は――。
虚空に押し潰されるだけの自分が存在する。
眼球は暗闇を彷徨い、鼓膜は静寂に飲み込まれ――広い部屋の中にいるはずなのに、まるで狭い箱に閉じ込められているよう。
誰か……この重圧の闇から、私をお救いください……。
震える心の中でそう叫んでみても、誰に届くはずもない。
皮肉なことに、私をこの闇から解き放ってくれるのはいつも同じ人物――私をここへ閉じ込めている張本人だけだった。
彼は、今夜もやってくる……。
「今宵もそのように塞いだ顔で闇に取り込まれていたのか」
どこからか、私を嘲笑う声が聞こえてきた。
「……いいえ」
なるべく冷静に――高揚する気持ちを鎮めるように、私は短い言葉で彼を迎える。
「毎日代わり映えのしない挨拶だな」
低い声を冷たく響かせ、彼はひゅんと風の音を立てて闇の中を移動した。
そして、いつものように窓の鍵が外される。
唯一の外との繋がり――人間一人の力では開けない細工が施してある大きな窓が、鈍い音を鳴らしながら開いていく。
「月夜を存分に楽しむがよい」
傲慢な気持ちが少しも隠れていない口調で、彼は光を解放した。
すると部屋の中に月明かりが灯され、彼の姿――闇と同様の、漆黒に装飾された吸血鬼が薄らと浮かび上がってきた。
「もう来ないでください、と私は言ったはずです」
「言われた覚えはあるが、そう約束した覚えはない」
真っすぐに瞳を覗き込んでくる彼から、視線を逸らす。
私の全てを射抜いてしまうような、鋭く優しい眼差し。
決して取り込まれないように――私はいつも懸命に、冷淡な素振りを見せていた。
「近寄らないでください」
ようやく出た言葉で寝台に近づく彼を突き放そうとするが、逆効果だった。
彼は私の隣に座ると、大きな手で両頬を包み込み――そっと口付けた。
心臓が、跳ねる。
ほのかな薔薇の香りが脳を麻痺させ、次第にその甘美な感覚に私を酔わせていく。
「お前の赤はさぞ美味なことだろう」
私の唇に長く伸びた爪を当てて、彼は怪しく笑った。
「私は貴方に愛などという感情は抱きません……もう近寄らないでください!」
「それはどうかな」
彼は不敵な笑みを浮かべ、私の頬を月の光で照らす。
「今宵は満月。お前を一番美しく映す夜だ。その頬も、良い色に染まっているな」
口付けされる度に熱くなる頬。
早まる鼓動。
震える体。
私はすでに、心の全てを彼に奪われていた。
「お前の赤は私のものだ。そうだな……今夜いただくとするか」
彼は吸血鬼だ。
清純な乙女の恋心が含まれた、赤く美しい血液を好む魔物。
十分に熟したそれを赤と呼び、その間の記憶とともに奪い去っていく悪魔。
……私の、愛しい人。
一度きり与えてくれる極上の愛情を、受け止めてしまいたくなる。
血を飲ませてしまったら――私は彼を忘れ、彼は私から離れてしまうのに。
そして彼はまた新たに美しい娘を見つけ出し、私の知らない二人きりの空間で、こうして愛を育んでいくのだ。
与えるわけには、いかない……。
「私の血は、決して貴方には渡しません」
私のこの心と記憶を奪われるなど、恐ろしくて想像することもできない。
忘れてしまうくらいなら、いっそ――。
私は隠し持っていた短剣に手をかけた。
「ほう……抵抗するのか」
彼は少し顎を上げ、私の顔を見下した。
面白がっている様子が、声や態度から伺える。
「私のものは、私自身で守ってみせます……!」
私は短剣を抜くと、刃先を自分の左腕に当てた。
「何をしている!」
私の左腕に付いた大きくて浅い傷口から、熱いものが流れ出す。
彼は慌てて私の左腕に唇を付けた。
その瞬間――。
「な、に……を……」
私は彼の左腕に短剣を突き刺した。
愛しい彼の血を求めて……。
「私に貴方の血をお与えください。ずっと貴方の傍で笑っていたいのです……」
生温い液体が彼の腕を伝い、ぽたぽたと滴っている。
私は彼の左腕から流れる血にそっと口を付け――飲み込んだ。
口の中で広がる金属のような匂いが、私の味覚をゆっくりと鈍らせていく……。
喉が火のように熱くなっていく。
体が鉛のように重くなっていく。
「愚かな……」
私は彼に呆れられてしまったのだろうか。
そう思って彼の顔を覗き込むと――漆黒の美しい瞳から、一粒の涙が零れていた。
「泣いて……くださる、のですか……?」
彼の涙が嬉しくて、枯れたはずの涙が瞳から溢れ出た。
「ああ、これで貴方の傍で永遠に……」
貴方を愛する気持ちを抱えたまま、眠り続けることができるのですね……。
枯渇していく身体には、もう何の未練もない。
彼に連れ去られた日の悲しみや、引き裂かれた家族への愛情よりも――彼を愛する気持ちが私の頭の中を一杯にしていた。
私は、例えようのない幸福感にひたっていた。
ひたっていたはずなのに――。
「人形になってしまっては、もう二度と……話もできないではないか……」
私の耳に入ってきた最後の声。
それは、愛しい彼の嘆きの言葉だった。
ああ、今になって貴方の愛を実感できるなんて……!
少しだけ開くことのできた瞳は、淡い月明かりを感じるのがやっとだった。
手を、彼の頬に伸ばそうとする。
私の本当の気持ちを、伝えようとする。
けれども――。
動かない神経。
振動しない声帯。
私はすでに、深い眠りについていた。
私の血――赤と同じ色をした吸血鬼の血は、魔力に満ちた不思議な液体。
それを飲むだけで、人間はたちまち人形に変わってしまう。
命を失い、その代わりに愛情を抱えたまま、主人のもとで永遠に眠る……。
どうか私にお与えください。
いつまでも貴方の傍で笑っていたいのです。
私の心と記憶を持ち去るくらいなら、いっそ私を人形に……。
そして、永遠の愛を貴方に……。
(完)




