夫婦喧嘩は犬も食わない。
その日は確か、小雨が降ったあとの…夜9時ぐらいだった。
飲み屋街を、一人のサラリーマンが全力疾走していた。
イケメン、という顔ではない。だが、柴犬のような優しい目をしており、こんな切羽した表情を浮かべてさえいなければ、間違いなく老若男女関係なく好感を持たれるタイプだ。実際、人は良く、今も急いでいる割には、人と肩が当たればいちいち振り返り、すみません、すみませんと叫んでいる。
手には何やら菓子屋の箱。おそらくケーキが入っているのだが、この持ち運び方なら、既に原型は留めていないだろう。
彼の名前は倉科。何てことはない。帰宅中である。
しかしながら、倉科は焦っていた。
またいつか雨が降りだすか分からない。また足止めを食らうのはまっぴらだった。
飲み屋街の一本裏を行った道は、昔流行ったバーがずらりと並んでいて、今は臨時休業の文字や、誠に勝手ながら…とぞんざいに書かれた紙が、シャッターに貼り付けられて揺れていた。遠くの電灯が、雨の湿気とネオンでピンク色に滲む。「あぁ」
死んだような通りを抜け、やっと人通りが多い道に出たのに、倉科が渡ろうとした途端、スクランブル交差点の信号が赤に変わった。
「あぁ、もう…」
髪の後ろを掻きむしる。渡ろうとも思ったが、交通整備の不機嫌な警察にじろりと睨み付けられ、足踏みで紛らわす。
雨は降るか。
倉科は、狭い空を見上げた。
灰色の雲の合間から、星が見え隠れする。雨だからとは言え、やたらに蒸し暑い夜だった。
帰るという行動が強制的に一時中止されると、すぐに娘のことが思い浮かんだ。
(ごめん、ごめん、茜)
上を向いたまま、倉科は、もう三日は顔を合わせていない、一人娘の茜に謝った。
今日は、茜の誕生日だった。やっと五歳になったばかりの娘は、可愛い盛りで、紅葉の手で、艶々したおかっぱで、パパの帰りを歓迎する。
普段は帰宅が九時を越す倉科も、今日は五時に帰れたし、帰るつもりだった。なのに今日に限って、部長に飲みに誘われたのだった。高校二年生になる娘が話してくれない、と嘆く部長を無下に断れる筈もなく、ずるずると八時まで共に飲んだ。
部長の目を盗んで、妻の万里子にメールを送ると、「早くかえってきてね。」とだけの返信。
どんな短いメールにもバカみたいな顔文字を付ける妻が、代わりに読点を付けている。それだけでこんなに破壊力があるとは。
どうにかこうにか部長の話を終わらせ、道に出た途端、張り詰めていた空から雨が降りだした。
運が悪い、としか言い様がなかった。
茜にも申し訳ないが、万里子も怖い。
大学生から付き合い、茜の妊娠に押しきられるようにして彼女と結婚したのが六年前。
職場の上司からも先輩からもいい奥さんだなと羨ましがられる妻はその実、喧嘩するとヒステリックが凄い。平素が大人しい分、反動が酷いのだ。今日もどうなることやら……。
またちらつきだした雨を手で受けつつ、一週間前に引っ越して来たばかりのマンションのエレベーターに駆け込む。
ピーーン、いう音に、倉科は、はぁ、とため息をついた。白い蛍光灯の下で怖々腕時計を見て、…ため息を吐く。九時二十三分。もうダメだ。もう…。
(あーあ…)
鍵を出来るだけ音を起てないように回し、家に滑り込む。廊下から寝室である和室を見ると、もう電気はついていなかった。我が家では、子供は遅くとも九時就寝なのだ。
耳をすます。
ダイニングのライトしかついていない我が家は、死んだように静かだった。
…万里子も寝たのだろうか?
(ならいい、)
少し気分が楽になって、そっとケーキをリビングの机に置き、倉科がネクタイを下ろした、その時。
「おかえり」
「!?」
慌てて振り返ると、万里子が立っていた。
「あ、あ、ただいま…」
気が緩んだことを咎められた気がして、どきまぎと倉科が応えると、万里子は彼を興味なさげにちらりと一瞥し、ご飯は?と尋ねた。
「いや…」
「お茶漬けにしますか」
「あぁ…うん」
本当は腹なんか減っていない。肴と緊張でいっぱいいっぱいだ。だけどとりあえず場を繋ぎたくて、頷く。万里子は無表情のまま、支度を始めた。開けた冷蔵庫から、ラップを掛けた夕食がちらりと見えた。
上着を脱ぎ、ワイシャツ一枚になったところで、ごはん、と呼ばれる。
「いただきます」
「はい」
妻は目をあわせてくれなかった。しかし、倉科が食べる姿をじっと見ていて、この場を離れはしない。
その状態が、一分、二分、五分……。
「…」
七分経ったところで、倉科は痺れをきらした。
覚悟を決めて、箸を置く。
「…ごめん」
「いいの」
万里子は間髪入れず応えた。腕を組みなおす。
「『お仕事』ですからね」
「…」
その言い方に万里子独特の毒が含まれていた。少し、苛ッとはするが、それを言うほど倉科もバカではない。今は妻の機嫌を取らなくては。
「ごめんって」
「…」
万里子は髪をかきあげた。何か言いたい時の彼女の癖だ。
「…あの娘」
暫くの沈黙の後、呟く。
「あの娘、パパと一緒にお風呂入るんだって、ずっと待ってたわ」
その様子をふとイメージして、ずきんと胸が痛んだ。まだまだパパっ子の茜は、いつも怖いお風呂をパパと入りたがっていた。
「あたしが一緒に入るって言ってもパパを待つって言い張って、結局、あたしがお風呂の前で突っ立ってあの子がお風呂から出るの待ってた」
「…」
「あたしだって、パパだって仕事があるって知ってるし、人間関係があるって分かってる。でも、…でも、今日ぐらい、断ってくれてもよかったんじゃない?」
倉科は何も応えなかった。ただ、一言しか言えない。
「…ごめん」
「もういいわごめんは!!」
「!」
突然、妻がヒステリックに叫んだ。
慌てて、寝室を見る。…娘が出て来ないことを確かめ、倉科は小声でたしなめた。
「茜が起きるから、な?」
言ったあとに、あ、まずった、と思った。
言うんじゃなかった。言うんじゃ…
「っ何よ!!」
たしなめる前よりも更に高い声で、万里子は叫んだ。
「何いいお父さんぶってるの!!子供の誕生日にも飲みにいくくせに!!」
「っ」
倉科は思わず顔を上げた。
(何だよそれ!)
こちらだって決して飲みたくて行っているのではない!
先ほどたしなめたのも忘れ、倉科も声を荒げた。
「…ンだよその言い方!」
「だって!そうじゃないッ」
バシンっと、万里子が机を叩いた。
「飲みにいくってことがどんなに辛いことだって言うの!?遊びじゃない!」
それが…、万里子の本音なのだろう。分かってる。自分たちが時折ママ友と行く「飲み会」は、楽しいのだから、そう思うのは、当然だ。
だが!
飲み会とは時に暴力になる。例え胃が痛かろうがだるかろうがげこだろうが、上司から相談があると飲みに行き、名も知らぬ奴の送別会があると誘われれば行かなければならない、言わば人間関係に角をたてないための処世術なのだ。
しかもその暴力は、大抵の場合金を要する。何て理不尽!何て不合理!
それなのに…
『遊びじゃない?』
「何?何か言えば?」
そんな倉科の思いに拍車を掛けるように、万里子が畳み掛けた。
…今思えば、妻は苛ついていた。引っ越してまだ一週間、まだ親しいママ友も居らず不安な上に、片しても片しても荷物は減らないし、一枚また一枚と飛んで行く出費に頭を悩ませ、せめて娘の誕生日はと腕をふるった夕食を旦那にすっぽかされ、娘にはパパが居ないと愚図られ…。
だからあんな、…あんな見下した顔をしたのだ。
今なら思いやってやれる。でもあの時は、…出来なかった。
あの妻の顔を見た途端、倉科はぷつっと理性が飛んだ。
このよく動く口を止めろ!
パン!
次の瞬間、どこかで破裂音がした。
どこだろう?
そう思って辺りを見回すと、…目の前の妻が頬に手を当て、唇を戦慄かせていた。
頬が赤く腫れている。
そして自分の手が、まるで電流が走ったかのようにビリビリとしていた。
こんな状況の、選択肢は一つ。
(万里子を、ぼくが、ぼくが殴った?)
まさか?
殴る、なんて。
このぼくが?
倉科は、また、妻を見た。「…あ、」
震える彼女の目に、悲しみと怒りが、ぶわりと浮き上がった。
反射的に、謝罪が口をついて出た。
「ごめ、」
「ッ出てって!!」
妻のサイレンによって言いきれなかったが。
万里子は叫んだ。
「出てってよ!!あたしばっかり、あたしばっかりッ!!!!」
謝ろうとしたのに、…また些細な言葉が引っ掛かる。
あたしばっかり?あたしばっかり?
被害者妄想はなただしい。
つらいのは自分だけと…思い上がるな!!
泣き伏す妻にくるりと背を向け、倉科は上着も着ずに玄関へ直行した。
靴をつっかけ、外に飛び出す直前、—寝室から、微かに泣き声がしたのに、倉科は気付いていた。
(ごめん。茜、ごめん…)
なのに、倉科は、家に戻らず、雨の匂いのする深夜へと飛び出してしまった。
***
出た途端、倉科は後悔した。
雨は静かに、だが確実に降り始めていた。
ちらりと部屋のドアを見る。
今謝ればとりあえず、この雨に打たれることはあるまい。
だが!
「…なんだかな」
そこまで自分のプライドを捨てる気はしない。
十五分程前に乗ったエレベーターでポケットをまさぐると、ひらりと五千円が入っていた。これがあれば少なくともビニール傘ぐらいは買えるだろう。
『ドア ガ ヒラキ マス』
機械音に送り出されて夜道に出ると、むわりとした雨の匂いと、曇天が空を占めていて気が滅入った。先ほどの微かな晴れ間もすぐ追い返されてしまったらしい。
「どーっすっかな」
と一人ごちたものの、誰も応えてくれない。
五千円。
傘を買ったとしても、マンガ喫茶ぐらいなら泊まれるだろう。まさか自分があんなところで一晩過ごすとは思ってもみなかったが。
(まずマンガ喫茶を探さなきゃな)
倉科は歩きだした。
華やかな通りに出ればマンガ喫茶の一つや二つ、すぐに見つかるだろう。コンビニだって、すぐに…。
三十分後。
倉科は唖然としていた。
マンガ喫茶が無い。
コンビニはもちろんすぐに見つかった。無機質だが煌々と輝く照明につられて、傘のみならずからあげまで買ってしまった。
なのに、歩けども歩けども、件のマンガ喫茶が無い。三千円弱で泊まれるのは、怪しげな外国人が客引きをしているマッサージ店ぐらいか。
(どこにあるんだろ)
人気のない安い土地にあったりして。
そんなことを思って、一本裏道に行った。
それがダメだった。
「…どんどん明かりが減っていくな」
思わず、倉科は呟いた。マンガ喫茶はおろか、マッサージ店すらも無くなってしまった。
(ここどこ)
右手の方の遠く、鮮やかな明かりが点滅する。あそこに行けば道は分かるだろうか。
「…めんどくさ」
ビニール袋が呼応したようにがさがさと風で鳴った。
「…」
自分は男だ。最悪、路地裏で寝てもいい。明日会社に午前中だけ休みをもらって、妻が買い物に出た隙に身支度を整えて出勤しよう。
そう腹を決め、倉科は良さそうな路地裏を探して歩いた。そうすると不思議なもので、濡れていない、しかも人目につきにくそうないい場所は、直ぐに見つかった。うまい具合に段ボールまである。
倉科は、するりと入りこんだ。汚れてもいない。最高だ、と思った自分に苦笑する。
五つのからあげを口に放り込み、段ボールを首もとまで引き上げて呆っとする。意外と段ボールって暖かいんだな、なんて考えてまもなく、倉科は、うとうとと、眠ってしまっていた。
***
「うぇっ」
気持ち悪い、気持ち悪い!!
倉科はまた、路地にえづいた。吐きたかったが、なにかが塞き止めていて、吐けない。残酷だ、こんなの…。
電柱を伝いながら、ふらふと揺れる足元に酔う。
「おぇッ」
「オにぃさンダイジョブ?休ンでく?」
中国訛りのある女に声を掛けられても、応じるまで至らない。ありがとう、と手を上げるしか出来ない。
あの辺りは、いわゆるホームレスの集合住宅だった。なのに住人が食料調達から帰ってきたら、見知らぬ奴がぬくぬくと寝入っているではないか!しかもからあげの食べ滓まで散らかして。
住人は、隣人に呼び掛けた。この不法侵入者を追い出すから手伝ってくれないか、と。
そして倉科は暴力を受けた。
友達から聞いたら爆笑するところだが、いきなり叩き起こされ、五人ぐらいにぐるりと囲まれて殴る蹴るをされると、恐怖で動けなかった。最初の三十秒ほどは体が状況判断出来ずに居て、されるがままになっていた。
さすがに一分経つ頃には逃げなくてはならないと寝惚けた頭でも理解出来た。だが、足がもたついて更に一分かかってしまった。
「いった…」
腹の柔らかいところを容赦なく蹴られる、なんて今まで経験のない、鈍重な痛みだった。今もしこりのように腹がじくじくと痛む。
今さら酒の酔いも回って、気持ち悪い。胃のものがあがってくる。
頭がガンガンと痛む。口の中で鉄臭い。
「…?」
(あ)
オンナの嬌声と男のバカみたいな話し声も途切れ、倉科はやっと顔を上げた。
(ここ…どこだ?)
逃げなければと道を確認もせずに走り出したものだから、道に迷ってしまった。
袖を見ると、踏まれて黒ずんでいた。肩はまさか、…破れている?
倉科は、
途端、
「…ぅ」
惨めになった。
吐き気が堪らなくなって、人が住んで居なさそうな路地に身を滑り込ませ(全く人と言うものは窮地に立って尚学ぶことが出来る動物である)、倉科はしゃがみこんだ。膝に顔を埋める。
「はぁぁ…」
本日何回目かのため息。
自分はなんて運が悪いんだろう。
元凶は…上司かもしれない。
何でよりによって…今日だったんだ。
ぽつ、
ぼくだって茜ともっと話したい。風呂も入ってやりたい。今日だってケーキを食べる姿を見たかった。日曜だって一緒に遊びに行きたい。
ぽつぽつぽつ、
でも出来ないんだよ、仕方がないんだよ!!仕事だってやっと部下も出来て、一生懸命やってくれてんのにおれだけさっさと帰る訳にいかないんだよ!!
ぽつぽつぽつぽつ…
「ぼくにどうしろってんだよ!!」
ざあぁぁぁぁぁ…
何やらBGMのような気分で聞いていたが、倉科の叫びと呼応するように、上から大粒の水滴がぽてっと落ちてきて、倉科はやっと気付いた。
雨だ。しかもかなりの豪雨。
傘を買った、と思いだしかけたが、いや、と思い直す。先ほど襲撃を受けた場所に置き忘れた。つくづく、運が無い。
(何かこう…全てがどうでもよくなってきた)
目を瞑る。雨のせいで、ぐっちょり濡れた身体に、これまた濡れたワイシャツが貼り付いて、生温い。気持ち悪い。
徐々に唇が冷える。暫くして、震えだした。
「さむい……」
倉科はそう呟き、再び膝を抱えた。
今晩はもう、動きたくない、動きたくない……
***
…もしもし
ねぇ、もしもし、
揺さぶられて、倉科はうっすら目を開けた。
「ん…」
警察か?
だが、目の前の青年は、パーカーを着、ビニール傘を肩に掛け、イヤホンをぶら下げていて、私服警官にも見えなかった。
「大丈夫ですか?」
瞬きを二度、三度。
ハーフだろうか、彫りの深い顔立ちをしているが、どちらかと言うとアジアの血の方が濃そうだ。男にしては長い髪と眼鏡が異色ではあるが、間違いなく端正な部類の顔立ちだ。
冷えきった身体に、掴まれた腕を中心にして、じんわりと温もりが回る。
「あ…」
青年はにっこりと笑った。
「こんなところで寝ていたら危ないですよ。歩けますか?タクシーまでお送りしますよ」
そつない言い方だ。どこかのホストか何かだろうか。
「…もしもし?」
「おかね、」
はっと気付いて、倉科はポケットを探った。
青ざめる。
「…あっ」
掏られた!!
思い当たるのは、ホームレスたちだ。くそ、クソッ!!
倉科が頭を抱えたのを見て、青年は気の毒そうに「大丈夫ですか、お家は…」と言ってくれる。
「ない」
自棄になっていた倉科は、ぶっきらぼうに呟いた。
「え」
「おれには家は無いし金もないから、今日はここで寝る」
何言ってんだぼくは。
言いながらもぼんやりと考える。
青年が困っているような雰囲気は感じていたが、倉科は構わずに顔を伏したままだった。
「…お金、無いんですか」
「ない」
「お家も無いんですか」
「ない」
はぁ、と青年がため息を吐いた。
さっさと去ってくれ、と願っていた倉科は、それを聞いてほっとした。呆れてくれ。あっち行ってくれ。放っておいてくれ!!
「…?」
…上から連続して落ちていた水滴が、不意に止んだ。(何だ)
顔を上げると、ツンと肩に何か当たった。
傘だった。
目の前に青年は居ない。彼が置いてくれたのだ!
「!!」
倉科は慌てて立ち上がった。よろけたものの、しゃんと立てた。
路地から飛び出して左右を見回すと、左手の行ったところに…居た!雨に打たれているのに、何てことないようにすたすたと歩いている。
「待って!」
駆ける。追い掛けて無理矢理肩を掴んで振り向かせると、やはりあの青年だった。
「あぁ、歩けたんですね」
青年は倉科の顔を見て、にこにこと場違いな感想を述べた。
「良かったです」
「あッ、あの、これ!」
傘をつき出す。
「これ、君、濡れるから。ごめんね、ありがとう」
「構いませんよ、どうぞ使って下さい」
「いや、そんな訳には…」
だが、青年は意地でも受け取らなかった。そんな乙女のような扱いを受ける訳にはいかないのに。
「あ、あぁ、じゃあ」
何か礼になるようなものはないかとポケットをまさぐる。何かあるか。何もない。
「あぁ」
青年は笑みを浮かべて、倉科を見ていた。
「本当に…ごめんなさい、ぼくは大丈夫だから、君風邪ひいちゃいけないし」
「僕は風邪、ひかないタチなんで」
「いやでも、お礼出来るようなものもないし、」
「そんな。僕の勝手ですから」
「うん…いや、ぼくの気が済まないから」
倉科は青年を見上げた。もう既にパーカーの肩はびっちょり濡れていて、薄く開かれた唇からは白い息がふわふわと漏れている。寒いんじゃないか。
「うーーん…」
青年は眉間にふと皺を寄せた。良いオトコ具合だが、女を泣かせるタイプだとも思った。
「あっ」
青年の顔が、何かいいことを見つけかのようにパッと晴れた。
「じゃあこれで」
「は」
い?
影がふっと顔に掛かり、倉科は瞬いた。
(え?)
冷えた唇が、倉科の唇を覆った。いや違う、軽く、小突いた、そんな感じ。
あまりに突然のことで、動けなかった。
(キスされてる、)
やっと把握した時には、青年は既に唇を離した後だった。
呆然としている倉科に、青年はふふと笑った。
「これでいいです。だから傘、使って下さい」
青年はそう言うなり、倉科の言葉を待たずにくるりと背を向け、次は直ぐに見えなくなった。
後は濡れそぼる倉科と、青年が残した傘だけ。
***
それでも、家に帰ったときはまだ日付を越していなかった。
そろそろと音を起てないように家に帰った倉科は、直ぐに自室に向かった。びちょびちょで憐れにくすんだワイシャツとズボンを脱ぎ捨て、代わりに寝巻きを軽く羽織る。
泥棒のように辺りを見回しながら風呂場に向かう。妻はもう寝ているようだ。起こしたくはないものの、せめて湯だけにはつかって体を暖めたかった。
廊下に出て風呂場に行く途中、
「ぱぱ」
と、倉科を呼び止める幼い声がした。
茜だった。寝巻きの裾を、腹を冷やさないようにパンツに入れて、目を擦っている。
「どうしたんだ、茜」
しゃがみこんで小声で問うと、茜はおしっこ、と呟いた。
「おしっこ行きたいけど、ままは起きてくれなかったから」
「あぁそうか。起きたんだな、偉いな」
トイレの前に立つ。
娘が用を足す音の後、水が流れる音がした。
「手洗ったか」
「うん」
「よし、じゃあもう寝ような。お腹冷やすなよ」
茜はこくんと頷いた。
しかし、部屋に戻ろうとはしない。
倉科は、…茜の頭を撫でた。
「茜、ごめんな」
そう言うと、茜はまた、こくんと頷いた。
「また遊びに行こうな。茜の好きなクレープ買ってあげる」
こくん。
そして茜は、…言った。
「ぱぱ」
「ん?」
「ごめんね」
すぅ、すぅ、という、車が流れていく音が、二人の沈黙を微かに修飾した。
「どうして」
倉科は、掠れた声で応えた。
「どうして、ごめんねって、茜が言うんだ…?」
茜は唇を噛み締めた。
「ぱぱはままが嫌いになった?」
やっと、というように茜が囁く。
なんていじらしいんだろう。
倉科は、ぎゅっと心臓を掴まれたような気持ちになった。
そして、こんないじらしい娘に、こんな思いをさせている自分が、虚しくなった。
「大丈夫だ」
倉科は自分の体が冷えきっていることも忘れ、娘を抱き締めた。頬を柔らかい髪に押し付ける。
「パパはママと茜が大好きだ。そりゃケンカもするけど、そんなことじゃ嫌いにならないよ」
茜は黙って頷き、
「ぱぱ、つめたい」
とだけ言った。
***
湯にたゆたう自分の体を見ながら、倉科は考えていた。
茜に、何をしてやろうか。
それを考えていた筈なのに、
「…」
無意識に唇をなぞる。
何をされたのか。
キスをされた。
男とキスなんて、当然だが初めてだった。
正直、驚いたし、気持ち悪いと思った。
だが、娘のことを考えるのを途切れさせる程に、あの青年のことを考えてしまうのも事実。
不思議な奴だった。
ゲイなのだろうか。自分に声を掛けたのもナンパのつもりだったのか?
そうだとすれば、まんまと罠に掛かった自分に腹が立つ。
また、唇をなぞる。
その動作が女っぽいと気付いて、慌てて手の甲で擦る。だがそのせいでぴりぴりと痺れてしまう。
倉科は湯に沈んだ。
むしろ気にしてしまう。気にしてしまう…
『これでいいです』。
艶めいた唇から、漏れた、あの声。
ザバァっ
「はっはぁっ、はっ、…。」
倉科は顔を覆った。
風呂の熱気か、息を詰めていたせいか、…顔が熱くて堪らなかった。
***