ここは確かに、空だった。
序章
ビルの壁に強い西日が当たり、その灰色に影を差しつつも濃い橙色が夏の気配を感じさせる。コンクリートやアスファルトのせいで照り返す熱にうっすら浮かんだ汗で前髪を張りつかせながらも、少女は女と繋いだ手を半ば引っ張るようにしながら喧騒の中を歩いていた。少女のワンピースをはためかせ、さらには中のシミーズまでちらりと覗かせるビル風が吹いているが、心地よさよりも生温く気だるい心持にさせる。
「そんなに急ぐと転んでしまうよ」
女に諭されながらも、少女はその歩みを止めることはない。まるで橙色をした飴玉が溶けていくかのような夕日を見つめ、少女は胸がとくとくと踊る感覚がむずがゆく帰路を急いだ。この感情をなんと呼ぶのか少女には分からなかったが、触れられない何かが目の前から消えてしまわないように見張り続けているような、途方のなさを感じずにはいられないのだ。街路樹からは暑さとむずがゆさを助長させる蝉の声がうるさい。
「あたし……早くおうち帰りたい」
どこにでもある風景だ。少女の挙動一つ一つに女は幸せそうに笑みを浮かべて見守っている。ふと、少女は溶けていく夕日の中に、一際目を引く光が目に入った。思わず足を止める。きらりと輝くそれに一瞬目を細め、けれど好奇心が勝り少女はそれを目で追った。周りの人々は皆それに気が付かず、下ばかりみて足早に人混みに見えなくなっていく。その光は街路樹の中に吸い込まれ、しかし勢いをやや落としながらも地上に落下した。街路樹の根元のコンクリートが除かれた部分にそれは留まった。少女はすぐさまそちらに向かいしゃがみ込む。それは何の変哲もない、シルバーの指輪だった。特に装飾が施されているわけでもなく、シンプルなデザインのものだ。
「これが落ちてきた」
少女は指輪を掴むと、いつの間にか手が離れていた女の方に振り返り土の付いた手でそれを見せた。少女の手にはもちろんのこと、痩せた女の細い指にもサイズは大きく感じる。女はにこりと笑うと、指輪を持ち上げ少女の手に着いた土を払ってやった。そして再び指輪を少女の掌に乗せる。
「きっと、空を飛んでいた天使さんが落としてしまったんだよ。天使さんに出会ったら、いつか返しておいで」
女のその言葉に、少女は満面の笑みで頷いた。西日に感じた途方のないむずがゆさは、この一瞬だけ忘れることができた。
強い西日、ぬるいビル風、人々の喧騒、蝉しぐれ―――――。
時々、少女は妙にこの日の断片を思い出すことがあるのだ。
第一章
夏とは言っても、晴天を眺めたところで清々しさなど微塵もなく、じんわりと体中が汗ばんでいる。数歩先の空気はすでに揺らいで見えるようなここまでの道のりでは、化粧崩れを気にしながら何度か鏡を覗き込んだ。蝉の声が鬱陶しい。見えるもの全てが眩しく目に痛くて、無意識にも眉間にしわを寄せながら歩みを進めた。さすがに病院の中は快適な温度で保たれている。節電が叫ばれるこの世の中、病院スタッフはさぞかしのほほんと業務に勤しんでいることであろう。年中半袖のユニフォームで働いているのだから羨ましいことだ。エントランスからすぐ外来の受付窓口があり、案内や会計を待つ人々がソファを埋めている。彼らはきっと何十分、何時間と待たされているはずであるのに、受付事務員の余裕をかました義務的な笑みが小憎たらしい。あかりはそれらを横目に通りすぎると、財布から小銭を出してペットボトルの緑茶を購入してから、空き気味の、受付から遠いソファに腰をかけた。ペットボトルはあかりよりも汗をかいている。数口緑茶が喉を通ると、内側からもひんやりとした感覚が体中に広がり熱を冷ましていく。頭がやけに涼しく感じるのは、きっと汗が冷やされたからだ。涼を得たところで辺りを見回す。同じ空間だと言うのに、少し人混みを外れただけで心持もいくらか穏やかになる。大きな硝子張りの窓は採光も良く、夏特優の眩しい日差しが十分すぎるほど差し込んでいても目に痛いことはなく心地良い。空調が効いているためいくらでも日向ぼっこ出来そうだが、ぼんやりしていると眠ってしまいそうだとあかりは思った。
「そろそろ大丈夫かな」
携帯で時間を確認すると、デジタルで11:55と表記されていた。病棟の面会時間である十二時まであと五分、ここから病棟へ上がることを考えれば頃合いだ。あかりはペットボトルのふたを閉め、ハンカチでボトルをくるんでからバッグの隅にそれを差し込んだ。立ち上がり、歩きだす。気を付けてはいても、やはりヒールが床を叩くカツカツという音が少々耳触りである。自分でもそう思うのだから、周りからは顰蹙ものだろう。これでも一番静かに歩ける靴を選んできたつもりなのだから仕方がない。おかげでいつもの速度よりゆっくりとエレベーターホールまで歩くと、上ボタンを押してからエレベーターの到着を待つ。ほどなくして軽やかなベルの音と共に扉が開き、ベッドのままでも乗り込めるように作られた奥行きの広い箱へと入る。こんなに広いが、中にはあかり一人だ。壁に取り付けられた鏡に目を向け、本日何度目かの化粧崩れの確認をし、まぶたの下にじんわりにじんだマスカラを、綺麗に装飾した爪の先で削り取るようにして直す。特別、華美なわけではないと思う。髪は高校の校則に引っ掛からない程度の茶色だし、化粧だってどちらかと言えば薄い方だ。かといって元の顔立ちが秀麗かと言われればそうでもなく、そこにはどこにでもいる普通の女子高生がつまらなそうな顔で佇んでいた。高校生活最後の夏休みもすぐそこまで来ているというのに、冷めた目をしているな、と自分でも思う。唯一、輝いて見えるものは胸元に下げたペンダントだ。鎖骨辺りに揺れるペンダントトップには、シンプルなシルバーリングが下げられている。おぼろげながら、この指輪を初めて手にした時の跳ねるような気持ちを今でも覚えているように思う。
『これは天使が落とした指輪だから、天使に返すまでは大切にしていなさい』
生前の母に言われたのは、確かこのような内容であった気がする。あかりにとって、まだ死という概念が良く分からないような幼いころであったが、それでも母親がどこか遠くに行ってしまうような気がしたのは確かだ。夏の暑い日のことだった――――。
また軽やかな音がして、エレベーターが扉を開く。あかりは祖母がいる病棟へと足を向けた。ステーションに向かって軽く会釈をしながら病室へ向かう。数人の看護師がこちらに気づいて、ながら作業的に会釈を返してくる。昼分の患者の薬を確認している看護師達はこちらに振り向きもせずもくもくと作業し、パソコンに向かって何かを打ちこんでいる看護師も顔を上げない。対して気にも留めず、あかりはわりとステーションに近い病室の扉を開けた。
すん、と鼻を突く消毒の臭いが一際強まったように感じた。4人部屋のそれぞれのベッドはぐるりとカーテンが敷かれ、中を垣間見ることはできない。物音もしない。しかし強い消毒の臭いをかいくぐって、何やら饐えた臭いが時々鼻に届く。一瞬足を止めたが、いつものことだと思い直して歩みを進め、右奥にある窓際のカーテンをちらりとめくった。
「おばあちゃん、来たよ」
小声で声をかけると、うとうとしていたのか、はっとしたように細い目を開けて笑った小柄な老婆が横になっていた。少なくともあの饐えた臭いの発信はここではないと思えたことに安堵する。祖母が身じろぎすると、元気な頃から使用していた柔軟剤の柔らかい匂いがふわりと香っていた。唯一の肉親となったあかりが、今では祖母の代わりに洗濯物も洗っていた。
「あかり、いつもありがとうねえ」
あかりと祖母、芳江の会話はいつもそこから始まる。そして芳江はおもむろにやせ細った腕をあかりに伸ばすと、かさかさとした両掌であかりの頬をぎゅっと挟むのだ。化粧をし出してからはこれをされるとファンデーションが落ちる気がして遠慮願いたいのだが、幼い頃からの習慣のせいで心地良くも感じ、そして改めて芳江のぬくもりに心がそわそわとするのだ。自分はどんどん成長していって、高校に入学し化粧も覚え、大人へとなっていく。徐々に、自分は子どもではないのだと認識させられていく。逃げたくても逃げられない階段が目の前にある。そんな中、芳江はあかりにとって幼い頃から母親代わりであり、相変わらずあかりを子ども扱いしてくれる。子ども扱い、と言うと表現がいまいちであるが、それでもあかりにとって、いつまでも子どもでいさせてくれる唯一の居場所が芳江なのだ。
「おばあちゃん、今日、外すごく暑いよー」
梅雨の時期にはじとじとした空気が鬱陶しかったというのに、夏が到来してみれば今度は暑苦しさが鬱陶しい。きしむパイプ椅子に腰かけると、日陰に置かれていたせいかひんやりとして心地良かった。夏らしいオフホワイトのスカートの端を直しながら、あかりは再びペットボトルをバッグから取り出し一口流し込む。巻き付けてあったハンカチはすでにしっとりと濡れていた。
「否応なしに変わっていくものだよ、自然ってのは。動物も植物もみーんなそれに何の疑問も持たない。変わっていくものに適応していくっていうのにね。人間はわがままなもんだよ」
芳江の小言じみた返答に、あかりは些かむっとした表情を返す。
「だって、暑いと汗かくんだもん。まあ寒いのもやだけど……あ、秋はなんか寂しいからやだし、春は花粉症だし……」
そう言って考え出すあかりに、芳江は喉を鳴らして笑った。以前のように大きな声を上げて笑うことは出来なくなってしまった芳江に、変わっていくものに適応していくのは難しい、と返す。
「それもまた、人間らしくって良いじゃないの。人間は変わっていくものに適応できないから、代わりに周りを自分達に合わせちまおうと色々発明したんだからねえ。まあ、便利な世の中になったもんだよ」
しわが寄って細くなった目をさらに細めて笑う芳江。ふーん、とあかりは受け流すふりをして、芳江の言葉を心に留めた。芳江の言葉は古臭かったが、それは何となくあかりの思考にしっくりくるものがあって、人知れず心に印象付けておくことはいつの間にか習慣化していた。
そんな、他愛ない話をしばらく続ける。自宅で祖母とこたつを挟んでこんな風に会話していた頃を思い出す。
(もう……あの頃には戻れないのかな)
無意識に指輪へと手が伸び指先でもてあそぶ。芳江はまた笑みを深くし、もぞもぞとベッドから身体を起こした。
「付けてるね、そのお守りさん」
芳江の目線が指輪に向かっている。こくりと頷き、あかりもやっと口元に笑みを浮かべた。
「大切な“天使の指輪”でしょ? 持ってるに決まってるよ」
高校生にもなって何を言っているんだ、と自分でも思うが、それでもそんな風に縋れる何かがあるということがあかりの心に安寧をもたらす。運命的にあかりの元へ巡ってきたこの指輪をお守りと称して身につけることで、何となくではあるがやっていける気がした。芳江は困ったように口をへの字にしてため息を吐く。
「あんまりお守りさんに頼りすぎないで、あたしがいなくてもちゃんとやんなさいね。そういえば、進路はどうなったのかしらね?」
いじわるな質問に、今度はあかりが口をへの字に曲げた。実のところ、あかりは高校三年生の一学期末の段階で進路が未定であった。高卒で就職する勇気と根性はないが、かといって行きたい学校があるわけでもない。近くの短大にでも進学しようとは思っているが、願書どころかオープンキャンパスの情報にすら目を通していない。目線を泳がせて数秒、あかりはそそくさと腰を上げ最初と同じようにスカートの裾を直すと、膝に置いていたバッグを肩にかけた。
「進路はまた決まったら私からお伝えしますって。ではでは、もう帰るね」
「困った子だよ、まったく」
元あったようにパイプ椅子を畳むと、あかりはそっと壁に立てかけた。身体を起こしていた祖母を寝かせ布団をかけ直してやりながら、あかりはぺろっと舌を出して手を振った。
「じゃあね、また明日来るね」
最後にカーテンの向こうから顔だけ覗かせて、芳江に別れの挨拶をした。
「はいよ、気を付けて帰るんだよ」
芳江も同じように手を上げる。それを確認して、あかりはカーテンをきっちり閉め、病室のドアへと向かった。
相変わらずカツカツ音を立てるヒールに気を使いながら病室を出ると、ちょうど向こうから一人の看護師がこちらに向かってやってくるところであった。あかりのヒールの音などかき消すような、ガラガラという包交車の音を病棟中に響かせている。看護師はこちらに気が付くと、ぱっと花が綻ぶような笑みを見せた。
「あら、こんにちは里田さん」
あかりも小さく挨拶をしながら、ぺこりと頭を下げる。西山真由美という看護師は、いつもあかりを見かけると声をかけてくる。ワンピースタイプのユニフォームから伸びるすらっとした手足が印象的な彼女は、最初に芳江が入院した時に担当看護師であると挨拶されてから、芳江だけではなくあかりのことも気にかけてくれているようであった。なんでも今年の四月から看護師として働き始めた新人らしく、あかりとも年齢が近い。そんな西山に、あかりも姉のような気さくさを感じている。
「毎日里田さん来てくれるから、芳江さん最近すごく調子良さそうなのよ」
自慢の孫娘なんですって、と西山。
「自慢だなんで……でも、確かに最近調子が良さそうなんです。西山さんのおかげです」
再びぺこりと頭を下げると、西山は切れ長の瞳を細めてはにかんだ様に微笑んだ。そして再びガラガラと包交車を押しながら、処置室の扉に手をかける。
「気を付けて帰ってね」
「はい」
短く返事をしてお互い背を向けた。あかりは再びステーションの前を通り、会釈をしながら通り過ぎる。時刻は十六時も目前。病棟はちょうど日勤者と夜勤者が入れ換わる頃合いのようで、それぞれのスタッフが足早に動き回っていた。あの中で一体、どれほどの人間があかりの会釈に気が付いたのだろう。
そんなことをちらりと考えながら、あかりは再びエレベーターホールへ足を向けた。聞き慣れたベルの音を合図にエレベーターに乗り込む。あかりの後ろからも一人の女性が乗りこんできた。何となく、その女性も面会から帰るところなのだろうと思い、あかりは一階のボタンが押されていることを確認せずに後ろの壁側へもたれかかった。
「ああっ! 間違えて上行きに乗っちゃったぁ!!」
そんな女性の高い声にはっとなってあかりは壁から身を起こした。明るいベージュのショートヘアをした快活そうな女性は、その綺麗に整えられた髪をくしゃくしゃとするように頭を抱えていた。別に間違えたって、何食わぬ顔をして途中で降りればなんの問題もないだろう。素直に悲鳴を上げている女性の姿に、むしろそっちのが恥ずかしいよ、と心で呟く。かく言うあかりも、間違えて乗ってしまった一人であるわけだが――――。
「ごめんなさいね、うるさくって。ああ、もう、間違えちゃったぁ」
「あ……いえ……別に大丈夫ですけど……」
女性はばっとあかりの方に振り向くと、一言謝ってからまた自分の世界に入りだした。まだ間違えたことにショックを受けているようだ。赤の他人と会話する機会も希薄な時世に変わった女の人だな、とは思うものの、特段不快な感情は湧かなかった。挙動が幼いせいで実年齢は判断しかねるが、小さな子どもがいても不思議ではないくらいであると思う。
「あーあ、結局屋上まで来ちゃったわ。あれ、あなたも何故か一緒にいるけど、途中で降りなくて良かったの?」
最上階への扉が開くと階段があり、その先のドアにくり抜かれた窓から空が見えていた。女性がきょとんとした顔をしてこちらを振り向く。そこであかりもはっとし、苦笑いを浮かべるしかなかった。
「実は、私も下行きと間違えて乗っちゃって」
すみません、と謝ると、女性は最初不思議そうな顔をしていたが、やがてぷっと吹き出したかと思うと声を上げて大笑いしていた。薄化粧でも生えるくりっとした目元に涙を浮かべ、身体を震わせている。
「っ……あははは!! さっすがだわぁ女子高生! これってもうあるあるネタよね」
逆にそこまであからさまに笑われると恥ずかしさも吹っ飛ぶ。何がさすがなのか良く分からないが、あかりも口元が緩んだ。それを見て、女性は先程までとは違うふわりと優しい笑みを浮かべた。
「ね、せっかくだから屋上でちょっとお喋りしましょうよ」
お願い、と女性は胸の前で掌を合わせる。特別断る理由もなく、人の良さそうな笑みにつられあかりは一言肯定の返事を返した。
「よっし! ありがとー、女子高生!」
その途端、花が綻ぶように綺麗な笑みを浮かべ頬にえくぼを作ると、女性は屋上への階段を駆け上がった。
屋上には、夏独特の閃光を孕んだ空がまだずいぶん遠くにあった――――。
「うわー、西日まぶしいわー」
女性は真ん中にぽつんと置かれた塗装の剥げたベンチに腰かけた。そして目を細めながらも、橙が今まさに霞み始めた青を飲み込もうと白波を立てる空を見つめていた。
「なんだか、こうやって高いところに立つと空が近く見えるわよねー。手が届きそうって言うか?」
「そうですか? 私には、まだまだ空が遠く感じますけど……」
あかりは、今まさに思ったままのことを素直に述べる。人間はこの高さから落下すれば命を落とすと言うのに、地上までの距離より空までの距離はずっとずっと遠い。
どこかの星の重力で、空に落ちていけたら良いのに――――。
西日を遮るふりをしてそっと空に手を伸ばしてみるが、あかりが掴んだのは汚れた地上の空気と変わらなかった。
「あたしね、今日はお母さんのお見舞いに来たの。久々に会っちゃったんだけどもうすっかりよぼよぼでさ、こりゃ長くないわって、医者でもないあたしすら分かるくらいだわ」
女性は相変わらず空を見つめたまま、そう語りだした。
「あたしが子どもの頃はあたしを守ってくれる、絶対的存在だったのにさぁ、今じゃこっちが色々世話焼いてやらなきゃって気分になるものよね。まぁ蝋燭の長さを戻すことは出来ないんだけどね、風が吹いても灯が消えないように、見張ってることしか出来ないんだけど。もどかしいって言うのかしら?」
「何となく分かります」
「辿り着く運命はとっくに決まっているって言うのに、それを少しでも先延ばしにしようと悪あがきするって言うか……。あ、夏の夕暮れも少し似たような気分に浸るかな?」
一日一日、季節が過ぎていく。抗えないことは分かっているのに、夕焼け空など眺めたりして、妙に時間が過ぎ去るのを見届けようとする。青はさらに霞んでいき、もうほとんど橙に飲み込まれていた。
「……あたしね、娘がいたの。その子が身体も心も成長して、いつかこうやって二人で女同士の会話するの、夢だったな」
女性がより一層、独り言のように呟いた。
「亡くなったんですか……?」
「うん……そうね、残念なことだけれど」
女性は笑みを絶やさない。けれどその笑みには、いくつもの感情が見えた。
「病気だったのよ。気付いた時には遅くてね。痛みを薬で騙しながら死ぬのを待つしかなかった」
「……」
あかりは何も言えなかった。他人事ではないと思ったが、そう思ったことすら今は認めたくなかった。
「あのね、娘は言ったの。“ママと会えなくなるのは嫌”って。娘はまだ“死ぬ”って概念も分からないような年だったけれど、それでももうあたしと会えなくなるってことは分かったみたいなのよね。これはあたしなりの解釈なんだけれど、“死ぬ方は何も分からなくなるから残された方が辛い”って本当かしら? 辛さなんて比べられないのよ。残していく方だってとてつもなく怖いんだなって、娘を見ていて思ったわ。だって死ぬ方からしたら、自分を置いてみんなが遠く手の届かないところへ行ってしまうんだもの。まぁ、あたしも自分の立場でしか意見を述べられないからやっぱり永遠の議題よね」
この空のように途方もなく遠くへ――――。女性はひと時も空から目を離してはいなかった。
「考えたのよ。少しでも気を紛らわすおまじない。あなたはここに来ても空が遠く感じると言ったわ。でも、これ以上近づけないのだったらそこは一番“近い”のよ。だからあたしはここに来れば、“空が近く感じる”のだと思うことにするの。故人を偲ぶのも一緒よ。遠くにいても、近づくことはできるわ」
あかりはいつの間にか灰色の地面を見つめながら唇を噛んでいた。何なんだろう、この人は。突然近づいてきて、突然難しい話をしてきて、あかりの中で疑問すら象れないうちに答えだけ無造作に投げつけてきた。本当に―――――。
「……意味、分からないです……」
本当に、意味が分からない。でも。
「でも……ありがとうございました……」
何となく救われた気がした。礼と同時に顔を上げ真っ直ぐ女性を見つめたあかりに対し、女性はきょとんとした顔のあとに再びえくぼを作った。
「ふふふっ。なーんかしんみりさせちゃったわね。ごめんなさい。でも、あなたと話せて夢が叶ったわよ、女子高生! 今あたし、大きくなった娘と話す夢、叶っちゃった」
そう言って、女性は出会った時と同じように声を上げて笑っていた。そしてはっとして、左手首に付けた華奢な腕時計に目をやる。
「やっば! もうこんな時間! 楽しすぎてずいぶん長居しちゃったわ。今日はありがとうね、女子高生! 機会があったらまた話ましょ!」
女性はひょいとベンチから立ち上がると、白いパンプスの爪先をとん、と地面にノックさせたあと、軽い足取りで屋内に通じる鉄扉へ向かっていった。そして少々錆ついて重さの増している鉄扉を来た時と同じように開け、扉の向こうへと消えて行った。
「“そこが一番近い”か……」
女性の気配が完全に消えた後、あかりはベンチに座って再び正面を見た。一体自分はどこまで近づけば満足するつもりなのだろう。存在すら知らなければ、きっと近づきたい衝動に駆られることなどないのに。
「……」
あかりが芳江の面会に来ると、必ず数人は他の面会者とすれ違う。ちらりと目を向けても、彼らはあかりの存在など気付いていないかのように各々目指す病室へと向かっていく。
ああ、大切な人がいるんだな――――。
彼らを見て、単純にそんな感想を抱いた。大切な人がいて、けれどその人は病気で家に帰れない。だから代わりに会いに来るのだ。今日の顔色はどうだろうか、食事は取れたのだろうか、困ったことがあればすぐに看護師が来てくれるのだろうか。そんな思いで胸をいっぱいにして、家からの道のりをやってくる。大切な人がたくさんいる人は、そんな思いを一体どれほど体験しなければならないのだろう。そして、自分を大切に想う誰かがいるとき、そんな思いを抱かせてしまうことにどれほど心苦しく感じるのだろう。
あかりはふと、小学校に上がった頃のことを思い出した。
『ねえ、ねえどこ行くの?』
『遠く、遠くのお空へ行くのよ』
『もう会えないの?』
『ママはお空にいるから、お空を見れば寂しくないわ』
『じゃあ、おうちのお屋根に上ったら会えるのね』
『さあ……どうかしらね? そこがお空なら、会えるんじゃないかしら?』
白い部屋で、顔すら覚えていない母とそんな言葉を交わした。それから少しして、あかりは芳江と暮らすようになった。芳江の住む一軒家の二階から屋根に上ってみたが、地上から見上げた空となんら変わらない光景がそこにあって、落胆した。
「……。空、眩しいな……」
一際強い西日に、あかりは懐古をやめ眩しさに目を細めた。先程まではわずかに色を残していた青もとっくに掻き消えていた。あかりはそっとベンチから腰を上げ、フェンスの際に立った。そっとフェンスに手をかけ地上を覗くが、あるはずの街路樹よりも隣のビルの屋上が視界を占めていた。
「そんなところから飛び降りると迷惑だろ」
突然、低い声が後ろから投げられ、あかりは考えるよりも先に身体ごと振り返った。スカートと背中に流れる髪も遅れてはためいた。
「なんだよ、そんな驚いた目で、お前自殺者じゃないのか?」
先程まであかりが座っていた塗装の剥げたベンチに、腕を組んだ青年が静かに座っていた。あかりが立ちあがってからわずかな時間しか経っていないと感じていたが、青年が鉄扉を開ける軋んだ音すら気が付かないほど心ここにあらずだったようだ。何より印象的なのは銃口のように暗い、それでいて黒真珠のように吸い込まれそうな艶を湛えた漆黒の瞳と髪。色の白さが夕暮れの中でも浮かび上がっていた。あかりは一瞬、青年の異質な雰囲気に毛押され沈黙していたが、勘違いされていると思い至り、全力で首を横に振って否定した。
「自殺、なんて。するわけないじゃないですかっ。ただ考え事していただけで……」
そんな否定の言葉に、表情の読み取れなかった青年はふと笑みを洩らし、柔らかな表情でベンチの右側にずれた。青年の意思を汲みとったあかりは、戸惑いながらも青年の左側に腰を下ろした。
「なんだ、焦ったー。なんだよ、思いつめてるみたいだったから勘違いしたわ」
第一印象と違い、青年はにかっと歯の見える、まるでいたずらっ子のような笑みを浮かべた。年はあかりよりも幾分上に見える。二十歳前後と言ったところだろうか。
「まあ、人間やめたくなることもあるけどな。お前、まだ高校生だろ。頑張って生きろや」
「だから、別に死にたいわけじゃないですってば」
妙に諭してくる青年に唇を尖らせると、あろうことか青年はあかりの頭を掴むように触れたかと思うと、乱暴に撫でた。それは撫でるというより、ただ髪をくしゃくしゃにするだけの行為であった。それでいて、何故か泣きたくなるような優しさが込められているような気がした。物心ついたときから父親がいなかったあかりは、異性から触れられるという行為に思わず身体が硬直した。
「なにするんですか! あー、もう、髪ボサボサ!!」
あかりはバッグから鏡を取りだすと、指先で絡んだ髪を梳いていく。それを見た青年は、再びにかっと笑った。
「良いだろ、別に。減るもんでも戻らないもんでもないんだからさ」
青年の屈託ない笑顔につられて笑いそうになったが、羞恥心が勝りあかりの顔は顰められたままだった。
「でもお前、死のうとしてるって言うより、どっちかって言うと死んだ人に会いたがっている、もしくは死んでいく人を追いかけたい。そんな顔してたかな」
青年の言葉に、あかりは胸がキリ、と痛んだ気がした。無意識過ぎて自分でも辿り着けなかった願望を、青年に気づかされた気がした。
「そうかも、知れないです。私はもう一人しか身内がいないし、その人ももう長くないかもしれない」
うつむいたあかりに、青年は先程とまったく違う優しい手つきであかりの頭に手を乗せた。
「一人になるのは怖いよな。俺は誰かが面会に来るたび、辛そうな顔してて逆に気を使うけどな」
青年は、Tシャツにジャージというシンプルな格好をしている。そして足元はサンダル。季節的にあまり気にならなかったが、その言葉で入院患者なのだと確信できた。
「お前、名前は?」
「え……? 私は……あかりです。里田あかり」
唐突に尋ねられ、戸惑いながらもあかりは自身の名前を口にする。ふーん、と対して興味のなさそうな、けれどしっかり記憶したというように相槌を打ち、青年はまたにかっと笑った。
「俺は黒木悟。あかり、また病院に来るならここに来いよ。この時間なら相手できるからさ」
名前の通りの容姿と雰囲気を纏っている。あかりは素直にそう感じた。
それが、悟との出会いだった――――。
第ニ章
芳江が船をこぎ始めたのを確認すると、あかりは足音を忍ばせて後ろ向きにベッドから離れた。そっとカーテンを直し、病室をあとにする。病室のドアが静かに閉まったことを確認すると、ようやくあかりは気を抜いた。
「あら、帰るの?」
「うわっ……! 西山さんかぁ。びっくりした」
突然後ろから声をかけられ、あかりはびくりと肩が跳ねた。振り返った先にいたのが西山だと分かりほっとした表情を見せる。西山はほっそりとした指先を頬にやりながらふんわりと笑った。
「最近里田さん、明るくなったんじゃないですか?」
「え、祖母がですか?」
そんなに変わっただろうか、とあかりはわずかに思案する。しかし西山は、「違うわよ」と今度は声を出して笑った。
「芳江さんじゃなくて、あかりちゃんの方。最近とってもうきうきしているのが伝わってくるもの」
あかりは頬に熱がこもるのを感じてそこに両手をやった。
「そんなことないと思います! じゃあ、私帰るのでよろしくお願いします!」
それから、西山の返事を待たずにエレベーターホールの方に歩みを進めた。
「こんな時間にお昼寝したら、夜眠れなくなりますよ、芳江さん」
病室に入ると、ブラインドの隙間からの木漏れ日を浴びて目を閉じている芳江が横たわっていた。西山の言葉に、芳江は案外あっさりと目を開け、ふん、とつまらなそうに鼻を鳴らした。
「あたしの可愛い孫娘が時計ばっかり気にしてそわそわするもんだからさ、この老いぼれが気を遣ってやったってわけさ」
文句あるかい、と横目で西山を見る芳江。
「いえ、別に? そういう芳江さんもそわそわしているように見えますけど」
にっこりと笑う西山。その笑顔に、芳江も小芝居をやめ頬の皺を深くした。
「そわそわもするさ。あたしの可愛い孫娘が、あの通りなもんだからさ。この老いぼれが気を遣ってやらないと、あの子はずっとここにいただろうよ。まったく、待ちぼうけさせる気かね。奥手な子だよ本当に」
芳江は西山に渡された体温計を慣れた手つきで左の脇に挟み、それから右手を差し出した。西山は差し出された右手で血圧を測定する。
「楽しそうですね、芳江さん」
マンシェットの圧が抜ける音を聞きながら、芳江はため息をついた。
「ああ、楽しいね。余生を楽しまなきゃ、大団円のためにもね。早く行っちまったあの子が迎えに来るまでに、土産話でも用意しとかないとね。もっとも、あの子はいつだってあかりを見守っているから、とっくに知っているんだろうけれどね」
芳江はそっと目を細めた。何かを懐古しているようにも、ただブラインドから洩れる陽光が眩しいようにも見えた。
「あたしが居なくなった後、あかりがどんなふうに生きていくのか、まあ不安っちゃあ不安だが、楽しみだねぇ。あたしの孫だからきっと逞しいはずだけれど。心配? してないよ、そんなもの。あたしが居なくなった後のことだって、何一つね。まあただ……あたしがいなくなった後、あの子の隣には誰がいるのかねぇ?」
あくびを一つしながら、芳江は電子音を鳴らした体温計を西山に差し出した。
(西山さんってば…するどいなぁ、もう……)
悟と初めて会話を交わしてからしばらく経ち、あかりは芳江の面会後に、屋上へ向かうことが日課となっていた。それがいつの間にか身体に染みついた癖のようになり、会えない日にはひたすら屋上に思いを馳せた。
(それが、“うきうき”ってこと、なのかな……)
頬に手をやったままのあかりは、前をよく見もせず廊下の角を曲がった。
「きゃっ!」
その角の向こうで、あかりは誰かとぶつかった。予期せぬ事態にバランスを崩してよろめいた。踏みとどまろうとしたが、ヒールが災いし体重を支えきれずに転倒した。
「あらやだ、ごめんなさいね。大丈夫かしら?」
屈んで目線を下げた女性は、ぷっくりとした頬とくりっとした目が茶目っ気を感じさせる壮年の看護師、竹下だった。細身の体型だが、丸顔の影響か幼く、溌溂とした性格を醸している。彼女はベテランの眼差しを持ってあかりの身体を上から下まで眺め、ふと足元で視線を留めた。
「あなた足首、捻ったりした? ちょっと触るわよ」
「いたっ。ちょっとだけ…」
ぎゅっと掴まれ思わずびくっと身体が硬直した。尋ねられると、何となく痛い気がして思わず肯定した。
「あなた確か芳江さんのお孫さんの……あかりちゃん、だったかしら? ちょっとあっちの部屋で足冷やしときましょう、念のため」
そう言うと竹下は、あかりの返事も聞かずにてきぱきと準備を始めた。歩く分には問題ないと判断され、処置室と書かれた扉の向こうへ案内される。そこの処置台に座らされしばらく待つと、竹下は氷嚢を持って戻ってきた。
「本当に、私ったらよそ見しててごめんなさいね」
もう一度謝りながら、目線はあかりの足首一点を見つめていた。冷たくなり過ぎないようタオルを巻いた氷嚢を素足になった足背に乗せる。
「いえ、私が前を見ていなかったので……お仕事中なのにすみません」
申し訳なさと恥ずかしさで再び熱くなった頬を両手で押さえていると、竹下はやっと足首から視線を上げ笑みを見せた。
「良いわねぇ、若いって。私にも燃えるような恋をした時期ってのがあったわぁ」
何を勘違いしたのか、竹下はまるで乙女のように胸に手を当て肩を竦めた。
「時には患者さんとも、なんてね」
冗談めかして微笑む彼女の言葉に、あかりは少々興味が湧いた。
「患者さんと、ですか?」
あかりからの問いかけに、食い付いたのが意外だったのか丸い目をさらに丸くしている竹下。当時を思い出すように目を閉じている。
「そうね、私が西山みたいな新人の頃だから、もう四十年前になるかしら。当時担当した患者も同い年くらいだったんだけれどね」
ふふふ、と楽しげに声を洩らす。患者との恋、というシチュエーションにそそられ、あかりは黙って続きを促す。
「でもまあ、死ぬような病気の患者とはいただけないわね、それこそドラマチックな展開になるから」
竹下のそんなため息交じりの言葉に、あかりは思わず疑問符を浮かべずにはいられなかった。そんなあかりを見て、竹下は事もなげに言い放った。
「そいつとね、将来まで誓いあったのよ。でも、一応患者と看護師の関係だったし、“退院するまでは手を繋ぐだけ”なんてピュアな約束事作っちゃってさ。だけどそいつ、結局亡くなっちゃったわ」
あっけらかんとした竹下はまるで朝食の内容や天気の話をしているかのように淡々としたものだった。時が経ってしまうと、悲しい思い出もこんな表情で語ることができるのか、と、あかりは妙に空虚な心持ちになった。死ぬとは、そういうことなのか、と――――。
「まっ、そんな情熱的な恋をした私も、今じゃ普通の会社員の妻。そいつは過去の恋人の一人くらいにしか思ってないわよ」
竹下は笑いながら、再び視線をあかりの足首に向けた。痛みがないことを確認したあと、靴を履くよう促しながらてきぱきと物品を片付け始める。
「辛く……ないんですか? そんなの……」
あかりは緩慢な動作でパンプスを履きながらも、視線は片付けをしている竹下に向かっていた。ん? と手を止めずに返答した竹下は、吹き出しながらも浮かべたのは苦笑だった。
「今は旦那も子ども孫までいて幸せ。でもね、死に別れってのは諦めが難しいものよ。辛くなかったって言えば嘘かもね」
今だって、患者さんを送る時は辛いもの、と竹下。人の死に泣かなくはなっても、慣れることは決してないと言う。
「私達看護師は、時にご家族よりもたくさん患者さんの側にいられる、そういう仕事なのよ。私は彼の死を経験して、なおさらこの仕事を辞められないって……そう思ったの。亡くなっていく人が後悔しないように……何より、“何もできなかった”って後悔する人が少しでも減る様に……患者さんのご家族や、もちろん自分も含めてね」
尊い――――。そんな言葉が脳裏に過った。その一言が透明感を帯びて胸の奥深いところにそっと舞い降り、静かに留まった気がした。
「ありがとうございました、竹下さん」
「あらやだ、良いのよ」
お互いに何が、とはあえて言わなかった。竹下はその人懐こい笑みを目一杯浮かべ、時計を確認すると、あら、と少々焦ったような声を出した。
「もうこんな時間だわ。夜勤に申し送りしないと……。ごめんなさいね、痛みが引くまで休んでて良いわよ」
竹下は忙しなく処置室を後にした。あかりは周囲を見回した。名前も分からない滅菌器具が収められている硝子棚、様々な消毒や軟膏、テープ類が整頓されている包交車。無機質で冷たそうな物品が無駄なく配置された白い部屋を見渡し、何故か悟のことを唐突に思い出した。処置室を後にし、あかりの足は自然と屋上へ向け動き出す。
ふと、悟が何故入院しているのか尋ねたことがないことに気づかされる。
祖母が入院し、悟と出会い、すでに一カ月程過ぎようとしていた。出会った頃と比べて悟の青白い肌が健康的になってきたわけではなかったが、かといって体調が悪化したようにも見えない。何故入院しているのだろう。素朴な疑問であったが、訪ねてしまったら引き返せないような何かを感じた。
屋上へと続く重い鉄扉が音を立てて開く。
そこにはいつも通り、悟が夕焼けを眺めながら塗装の剥げたベンチに腰かけていた。まるで夕日以外の何かが、空に見えているようだと感じた。橙に照らされた黒髪と白い肌が今にも消えてしまいそうだった。鉄扉の音に気付くと、悟はゆっくりと振り返り、そしてあかりの姿を認め笑みをこぼした。
「よう、遅かったな」
あかりはいつものように悟の左側へ腰を下ろす。いつものように座っては見たが、いつものような穏やかな気持ちにはならなかった。
日の入りは、だいぶ早くなってしまった。
「おい、あかり。なんか考え事してるのか? さっきからぼーっとして」
気が付くと、悟に下から顔を覗かれていた。目を見開いてやや仰け反る。今、何の話をしていただろうか。悟の銃口のような瞳に飲み込まれてしまいそうになる。
「ごめん、なんだったっけ」
あかりはやっとのことで笑みを作ってみるが、悟はその端正な顔をしかめ納得できないと言った表情になる。
「何だよ、今何考えてたか、言ってみ?」
言葉はそこまで強くなかったが、有無を言わさないニュアンスが込められていた。あかりはしばらく口籠ったが、やがてぽつりと呟いた。
「悟が……悟が、どうして入院しているのか、気になっただけ」
吸い込まれまいと抗うかのように、あかりは悟の瞳を睨みつけた。その言葉には答えを求める意思が含まれていた。
「ああ……そっか、そうだよなぁ。言ってなかったか」
悟は一瞬不意を突かれたような表情を浮かべていたが、あかりの言葉の意図が分かると納得したように頷いた。
「俺さ、重い心臓病なんだわ」
答えはあまりにも簡潔で、簡単に心を抉った。あかりは唇を真一文字に結んだまま表情を動かさないよう力を入れた。
「心臓移植しないと助かんないって。でも血液型とかの関係でドナーも中々見つかんなくってさ」
「……」
悟の声は何かをふっ切っているかのように明るいものだった。その明るさが、悟はもうとっくに決心しているのだと感じずにはいられない。沈黙の中を生温かい風が吹き抜け、心情と相まって汗ばんだ身体を余計不快にさせる。
「いなくなる奴ってのはさ、自分自身のことについては、案外もう諦めが付いてるんだよな。でも気になる誰かがいると、そいつが自分のいない世界をどうやって生きていくのか、そればっかりが気になるんだ。俺の隣にいた奴は……今度は、誰の隣で生きていくのか、そればっかり。いつまでも俺のことを想っていてくれれば良いなって思う反面、早く俺の代わりになる人を見つけて幸せになってほしいって思ったりもする。体調が良くて前向きな時には、“俺のことなんか忘れて幸せになれよ”なんて調子良いことも言えるけど、“一生俺のこと忘れられないように死ぬまでに思い出作りまくってやる!”って思ったり。本当、どうしようもないよな」
黙りこくったままのあかりをよそに、悟は一気にそこまで言うと声を上げて笑った。そこには僅かながら諦観の念も見え隠れしているが、本当に楽しげな笑いだった。あかりは悟の言葉を反芻し、身体に入れていた力をゆっくり抜いた。
「今……そんな風に、誰かのこと想っているの?」
あかりの問いに、悟はきょとん、とした表情を見せた。そして再び空を見つめる。
「さあな」
悟はあかりに悪戯な笑みを向けた。
「でも、死ぬのが分かっていて、形に残る物を送るのはセコイよな?」
その問いかけの意味は、あかりには分からなかった。理解する前に、悟は両腕を上に伸ばして伸びをすると、立ち上がった。
「さてと、そろそろ病室戻らないと、今日の担当佐々山さんだから怖ぇんだよなぁ。愛子ちゃん、なんて名前可愛いくせに、うっかり長く留守にするとすごい勢いで怒られるんだよな、俺患者なのにさ」
あかりを気遣ってか明るく話す悟に、あかりも薄く笑みを浮かべた。
「じゃあ、そろそろ戻らないとだね」
「おう」
悟も頷く。あかりは携帯を取り出すと時間を確認した後、悟と同じように立ち上がってスカートの裾を直した。
「あたしも、用事があるから帰ろうかな」
そして悟の方に向き直り、笑って手を振った。
「じゃあね!」
それだけ伝えると、くるりと背を向けた。錆ついた鉄扉を開けると再び手を振って扉を閉めた。あかりは口元を真一文字に戻して階段を駆け下りた。
いつかは失うというのに、何故大切なものを増やしてしまうのだろう――――。
第三章
その日は、横殴りの雨が降っていた。芳江のベッドサイドから外を眺めても、打ち付ける雨に景色はぼやけ輪郭を失っている。
(今日は屋上、行けないな……)
あの日からも、あかりは屋上で悟と会っていた。むしろ、会わなければ後悔するような気がして、会わずにはいられなかった。見えない窓の外を睨みつけながら、あかりは思案する。
「なぁんか、眠いねえ。こう朝から雨が降っているとさ」
芳江が大きなあくびをして布団をかけ直す。
「寝るの、おばあちゃん?」
芳江がすっかり居眠りする体勢になったのを見て、あかりは窓から芳江に視線を移した。
「んん?最近、眠いったらありゃあしないんだよ。ちょいと静かにしといておくれよ」
手であかりを追い払うような仕草をした後、芳江は目元まで布団をかぶった。携帯を確認すると、時刻はまだ昼下がりだと言うのにほんのりと薄暗い。それきり喋らなくなった芳江にため息を吐き、あかりはそっと病室を後にした。
病室の外も、今日は普段より静かに感じられる。日曜日は病棟が落ち着いている代わりに面会者が増えるものだが、本日は雨のせいかそれも少ない。悟の面会へ行こうか、そんな考えに至る。今まで屋上で逢瀬を繰り返してきたが、病室へ出向いたことはなかった。ステーションに西山の姿を見かけ、あかりは声をかけた。
「あの、すみません」
あかりの呼びかけに何人かの看護師がパソコンから顔を上げたが、西山が椅子から腰を上げたことで、顔は再びパソコンへ向けられた。
「どうしたの?芳江さん何かあった?」
カウンター越しに尋ねられ、あかりは首を横に振る。
「いえ、祖母は居眠りしています。ただちょっと……知りあいが入院しているんですけど、病棟が分からなくて……。『黒木悟』っていう人なんですけど。
「何の御病気? ちょっと待ってね、今見てみる」
そう言うと、西山は手元に置いてあったパソコンから他病棟のマップ画面を開く。どうやら全ての病棟マップから探しているようだ。
「循環器病棟かと思ったけど……違うみたいね」
しかしなかなか悟の名前は見つからない。そうこうしているうちに、先程ステーションに入ってきた竹下がしびれを切らしたようにやってきた。
「ちょっとあなた達、さっきから何やってるの? 西山、カルテは一応個人情報なんだからね、スタッフ以外の前で簡単に開かない! ……で、どうしたの?」
一喝され、二人揃ってやや肩をすくめたが、勤務経験の長い竹下ならば分かるのではないかと思い至る。あかりはふと、もう一人の人物の名を思い出した。
「それじゃあ、『佐々山愛子さん』っていう看護師さんがどこで働いているか知ってますか? “今日は佐々山さんが担当だから怒られる”って、悟が言っていたんです」
「は……―――――?」
一瞬、ぽかんと間抜けな表情を見せてそう一言声を上げたのは竹下。その直後には、普段は色づいている頬を真っ白にして目を見開いた。そんな異様な竹下の様子に、西山とあかりは状況が飲み込めずに困惑した。
「あの……竹下さん?」
西山がカウンターの向こうで竹下の肩に触れる。
「何が……どういう、ことなのっ? 詳しく教えてちょうだいっ!」
西山の手を振り払うかのように竹下はカウンターから身を乗り出し、あかりの服を掴んだ。竹下の剣幕に毛押されながらも、あかりは事の成り行きを話した。
――。
「屋上ね…? 屋上にいるのね…っ?」
あかりの話を聞き終わると、竹下は顔面蒼白のまま独り言のようにそう呟いた。そうかと思えば、無言でステーションから出てきたかと思うと、早足にあかりの横を通り過ぎた。そのまま次第に速さを増す竹下を二人は茫然と見つめていたが、はっとして顔を見合わせた。
「竹下さん、まさか屋上に行くつもりなのかしら…? でもこんな雨…」
「私、追いかけてきます!」
状況がいまいち掴めず困惑する西山をよそに、あかりは竹下が向かったはずである屋上へ駆け出した。
雨足は強さを増していた。屋上へ続く鉄扉を乱暴に開ける竹下。やや遅れてあかりが続いた。そこには普段の穏やかな空気などなく薄暗い雲が立ち込め、無防備なあかり達は激しい雨に打たれた。
「悟……」
先に彼を呼んだのは竹下だった。
そして何より異質なのは、豪雨の中で身じろぎ一つせずにこちらを見つめる青年の姿。銃口のような漆黒の瞳は、真っ直ぐに竹下を射抜いていた。その瞳は、驚きを隠せないというように大きく見開かれていた。
「愛子……ちゃん……?」
悟が一歩、竹下に近寄った。
「悟……っ!」
その瞬間、竹下は弾かれたように悟に走り寄った。竹下は悟の目の前で足を止める。そして恐る恐る手を伸ばす。雨に濡れた冷たさか、それとも緊張からか、恐らくどちらもであろう。震える指先が、悟のTシャツの胸元に触れた。その時の竹下の表情は、後ろから見ていたあかりには分からなかった。しかし、その瞬間竹下を抱き寄せた悟の表情が、苦しそうに歪められていたのをあかりは見逃さなかった。
「なんで……なんで、いるのっ……何なのよっ……」
悟の胸に顔をうずめながら、竹下は絞り出すように問いかけた。
「なんで……なんで私のこと置いて、一人で逝っちゃったのよっ…!!」
あかりは一瞬、全ての音が聞こえなくなり、目の前が真っ白になった――――。
身体の冷たさも何もかも分からなくなり、身体がぐらりと揺れたところでなんとか留まった。
「ずっと……ずっと、後ろめたかったんだからっ…貴方とのこと、誰にも言えないし……でもっ……でも、死んじゃってからもずっと……好き、でっ……」
「ごめん……」
悟は小さく謝った。
「なんで一人で逝っちゃったのよ……貴方看取らせてもくれなかったっ……」
「ごめん……」
もう一度――――。
「まだ……貴方が、くれた指輪……大切にしてるのよっ……なのに……」
「ごめん……」
もう一度――――。
「貴方、最期に身に着けていなかった……」
「……」
竹下は悟から身を離すと、両手で顔を覆った。その肩が小刻みに震え、普段より小さく見えた。
「なんでだろうって……捨てちゃったのかな、私のこと嫌いになったのかしらって……すごく辛かったのに……」
「……」
「私はあれからもう四十年も年を取ってしまった……結婚もして、孫までいるのに……それなのに、悟は何も変わらない……病弱そうな見た目も、そのくたびれたTシャツも……優しいところも、何もかもっ……」
雨の音に掻き消されそうな声で、それでも語尾を強く竹下は言い放った。その言葉を一言も喋らずに聞いていた悟は、驚愕の表情の後に切なそうな、しかし心底愛おしそうな微笑を浮かべた。あかりは、濡れて冷え切ってしまった指先が蒼白になるまで強く握りしめただ見ていることしかできなかった。
しばらくの沈黙ののち。
「……愛子ちゃんは変わって当たり前だろ。……生きているんだから」
悟は、手で顔を覆ったままの竹下の華奢な肩を再び抱きしめた。ふわりと、それでいて決して離さないというように、優しく力を込めていた。
「ありがとうな、指輪を持っていてくれて」
嬉しかった。それが、悟の素直な感想だった。
「俺はあの日、この場所で指輪を落とした……必死で探しているうちに、俺は……死んだんだろうな」
よく覚えていないんだ、と悟は一言詫びた。
「指輪が気がかりで、俺は気付けば四十年もこの場所に留まっていたんだな。でも……」
そこで初めて、竹下を抱きしめる体勢はそのままに、悟の視線がゆっくりとあかりを捉えた。悟の銃口の瞳とあかりの見開かれた瞳が衝突する。
「指輪も、新しい持ち主も、俺は見つけたんだ」
そう聞こえた瞬間、あかりは呪縛から解かれたように踵を返した。無我夢中で鉄扉を開け、転がるように階段を駆け降りた。エレベーターのボタンを連打すると同時に、溢れ出てくる涙を拭い、混乱する頭を振りみだした。やがて到着したエレベーターに飛び込むと、あかりはしゃがみ込んだ。『閉』のボタンを押してから一階のボタンを押す。しゃがみ込み、壁に寄りかかったまま、あかりは先程の光景が走馬灯のように流れていくのを留めることができなかった。
そして、気付いてしまった真実。
「この……指輪だったんだ……」
あかりは暗い瞳のまま、両手で胸元を覆った。そこに触れる無機質な感覚。それはあかりが、亡くなる直前の母から譲り受けたものだった。
『これはね、お空から天使が落としたのをママが拾ったのよ』
指輪は、四十年前に悟が落とし、あかりの母親が拾ったもの。そして母が亡くなる前に、あかりに託したもの。
悟は、四十年もの昔、既に亡くなっていた。
「悟の好きな人、竹下さんだったんだ……」
何に対して自分はこんなに傷ついているのか、もう分からなかった。怒り、不条理、困惑、不安、絶望……様々な感情が交錯してあかりの泣きたい気持ちを加速させた。頬を伝う涙を拭うことすら億劫になり、まるで傷口がむき出しにされたみたいに痛む心もどうでも良くなった。
やがて聞き飽きたベルの音とともに、口を開けた孤立空間から外界へ放り出される。あかりはふらりと立ち上がり、無人のロビーをおぼつかない足取りで進んだ。しばらく歩いたところで誰かとぶつかり、あかりはよろけて壁に手を突いた。
「ちゃんと前見て歩きなさいよ」
そう言った女性の言葉は、鋭かったが冷たくはなかった気がした。それきり再び静けさを取り戻したロビーを、あかりは再び歩きだす。
外は相変わらず横殴りの雨。やっと心置きなく泣けると思うと気が抜けた。
第四章
一週間程、あかりは部屋でただぼんやりと過ごしていた。毎日足繁く通っていたのが嘘のように病院へ行かなくなった。
(ああ……おばあちゃんの着替え、持っていかなきゃ……)
思いつきはするものの、どうしても身体が動かない。締め切った厚手のカーテンからは一筋に白い光が差し込んでいて、今が昼間なのだと分かった。
ピリリリリ――――。
不意に、あかりの携帯がけたたましい着信音を鳴らした。時刻など関係なくまどろみかけていた脳が急速に覚醒し、あかりは目を数度瞬かせたあと携帯に視線を移した。
ディスプレイに表示されていたのは、見慣れた病院名。
胸がざわつく。
「もしもし……」
久しぶりに発した言葉は喉が痛んで枯れていた。
「総合病院の西山ですが――――……」
おばあちゃんが、死ぬ。
西山からの連絡の後、あかりは病院に走った。一週間程前に泣きながら雨の中走った道を、今度は照らしてくる日差しに汗をかきながら走る。もうそろそろ夏も終わりか、と場違いにも感じた。
「あかりちゃん」
病棟に着くと、すぐにあかりを見つけた竹下が声をかけた。状況に反して落ち着いた声音であるのは、ベテランの貫録だろうか。
「この間ぶりね。今はゆっくり話している時でもないだろうから、また今度お話しましょう」
汗と涙で汚れ、肩で息をするあかりに、竹下はそっと触れた。落ち着いて、と言うように。
「芳江さんには、今西山が付き添っているから。良く来てくれたわね、本当に」
「あ……の……おばあちゃんは……」
死んだ?
聞けなかった。しかし汲み取った竹下が、ふんわりと柔らかい笑顔を見せた。その笑顔が優しくて悲しく、あかりの心を突刺しながらも抱きしめてくるようだった。
「芳江さん、まだあかりちゃんが来るの待っているわ。しっかりお別れしなさい」
そう言って、あかりの肩を押して歩みを促すと、ステーションに隣り合った観察室へと案内された。心の準備ができぬ前に竹下によって扉は開かれ、そこには芳江がゆっくりと、長く、深く、呼吸をしながら眠っていた。その隣で、ベッドサイドにしゃがみ込み手をさする西山。その表情は優しく微笑んでいた。
「ほら、芳江さん、あかりちゃん来てくれましたよ、良かったですねぇ」
あかりに気付いた西山が、嬉しそうに笑顔を浮かべながら場所をあかりに譲った。竹下にしても、西山にしても、何故こんなに普段通りに笑顔を浮かべているのだろう。まるで芳江と会話するように言葉をかけている。
『“何もできなかった”って後悔する人が少しでも減る様に――――』
以前、竹下が口にしていた言葉を思い出した。言葉の意味が何となく理解できる気がした。あかりは深く深呼吸し、空いた場所に膝を突き、芳江の手を握った。
「おばあちゃん……あかりだよ、ずっと来られなくてごめんね」
その声に、芳江がうっすら瞼を開いた。その瞳に何かを映しているのかあかりには分からなかったが、確かに芳江は声を発した。「あかり」と。そして我に返ったようにしっかりと瞳に光を宿した。
「あかり……、あんたらしく生きなさい、あたしらのように死んでいった者達を覚えておいて、心に生かしなさい」
そして芳江は、力の入らないはずの腕を震わせながら、ゆっくりと天井を指差した。
「けじめ付けに、会いに行きなさい」
そしてその腕が再びゆっくりと下ろされた。芳江の瞳に一層強い光が宿り、芳江は微笑んだ。そのまま光はだんだんと弱く虚ろになり、閉じられた。
「おばあちゃん……?」
おばあちゃんが、死んだ。
――――。
病棟の外れのデイルームで、あかりは茫然としていた。西山が芳江との最期の別れにと死後ケアに誘ってくれたが、頑なに首を横に振った。
「あかりちゃん」
いつの間にか、竹下が隣まで来ていたらしい。あかりは声をかけられてから数秒後にそちらに顔を向けてみる。瞳には、竹下が映っただけだった。
「あの日の話よ。……悟から、あかりちゃんが指輪を持っているって聞いたわ」
あかりは再び顔を前に戻した。目の前の窓から見える風景に色が見えない。
「私、は、一人になって、いきます。どんどん、大切な人、いなく、なる」
一筋涙が頬を伝うと、あとは止められなかった。次から次へと、感情と一緒にこみ上げてくる。母を失い、祖母も失う。悟の名前を聞いて、悟ともお別れしろと芳江に言われたことを思い出した。そう言えば何故芳江は、悟のことを知っていたのだろうか。
「私はね、あかりちゃん。あの日きちんと、悟とお別れしたわ」
そう言いながら、竹下はあかりの隣の椅子を引き、腰を下ろした。
「実を言うとね、今までは肌身離さず悟とお揃いのペアリング、持っていたの。なぁんか悟に対して後ろめたさがあったのよね……私だけ幸せになっちゃって……最期まで恋人だったのにって……年甲斐もなく困ったものよね」
竹下は恥ずかしそうに笑った。
「でも、悟にね。言われたの。“過去の恋人に貰った指輪を付けているなんて変な話、今の旦那にも失礼”って。まったくもってその通りよねぇ」
あかりは溢れる涙を拭いもせず、竹下の話を聞いた。
「悟にそう言ってもらえて、やっと心の荷が降りたように感じたわ。だからね、次は貴方の番だと思うの」
竹下はあかりの胸元を見つめた。そこには、あの日からも今なお外すことなど出来なかった、あかりのお守り。
『天使に返しなさい』
そう言って、母から託された大切なもの。
「ちゃんと彼を、空に還してあげて。彼がいつも見つめている空に」
あかりはゆっくりと、椅子から立ち上がった。そして、涙を拭った。
「行ってきます……」
「行ってらっしゃい」
竹下が送りだした。
そしてあかりは、久々に屋上へと足を向ける。エレベーターの先から続く階段。その先に鉄扉があり、埋め込まれた窓から差し込む白い光が、階段に埃の靄を照らしている。見慣れていたはずの光景。しかしそこに、今までにはなかった影。
「……」
誰か、階段から降りてくる。しかし逆光で顔はよく見えない。シルエットから、ショートヘアの女性だと認識できた。一歩一歩階段を下りるヒールの音。あと数歩のところまで近づいて、以前屋上で会話を交わした女性だと気付くことができた。女性は前回と違い、真っ黒なスーツに身を包んでいた。女性はあかりに気が付き、にこりと微笑んだ。
「あかりちゃん」
お久しぶりね、と続けた女性は、あかりの横まで来て、下に戻ってしまったエレベーターを呼び戻すためボタンを押した。
「母親が亡くなってね、それで今日はここへ来たの」
女性はあかりの横に立ったまま、ぽつりとそう告げた。
「ちゃんと前見て歩きなさいよ」
女性はそれだけ言うと、到着したエレベーターに乗り込んで行ってしまった。
「……」
女性がいなくなった後、しばらく深呼吸をしてからあかりは階段を上った。そしていつもより重く感じる鉄扉を開けると、そこには懐かしくさえある橙と、塗装の剥げたベンチに座り、空を見上げる悟。彼は人の気配に気付いて振り返り、それがあかりだと分かると片手を上げた。
「久しぶり」
「久しぶり」
お互いに短く会話を交わす。沈黙の後、あかりはおもむろに指輪を首から外し、悟の手に握らせた。
「なんで私が持ってるって、知ってたの」
体温を感じる悟の手を離さぬまま、あかりは尋ねた。悟は一瞬目を見開いたが、すぐに声を上げて笑った。
「芳江さんやお前のお袋さんが言ってたよ。お袋さんが最初に拾ったんだって話も」
その言葉に、今度はあかりが目を見開く番だった。
「二人とも、よくここに遊びに来てたからな。もっとも、お前のお袋さんは俺のお仲間だったがな」
そう言うと、悟はにやっと笑ってあかりの頬の、ちょうどえくぼの部分に指を突く。
「お前、母親そっくりだからな、初めて会った時すぐにお前がそうだって分かった」
そして悟の手に指輪を握らせるあかりの手を、彼は逆に強く握った。
「最初はすぐに返してもらおうかと思ったけど、話しているうちに楽しくなってきたんだよな。明日にしよう、また今度にしよう、そうやって時間が過ぎていって、俺はもう少しだけ、あかりとの時間を楽しんでみようと思った。俺にとってあかりは、どんどん気になる存在になっていった」
悟の真剣な瞳に、あかりは耐えられなくなって目をそらした。
「止めてよ……」
そんな言葉をかけられたら、勘違いしてしまいたくなる。
「本当だ、あかり。時間の止まった俺は、ずっと愛子ちゃんのことを想っていることしかできないと思っていたんだ。でもな、死んでから出会った人間のことをこんなにも想うことができた」
勘違い、してしまいたくなるじゃないか。
「あかりには本当に感謝している。指輪はもう意味なんてないし、俺も……身体がないしな、だからお前が持っていれば良い……と、言いたいところだが」
悟は一度、言葉を切った。
『天使に返しなさい』
あかりは母の声を聞いた気がした。
「そんなことをして、お前まで縛り付けられる必要はないよな」
本来出会うことなどなかったはずの二人を引き合わせた、不思議な運命を運んでくれた指輪。
「この指輪はまたどこかで、不思議な縁を結んでくれるのかも知れないな」
悟の笑みにつられ、あかりも笑みが浮かんだ。
「投げようか、ここから」
「おう」
あかりはチェーンの部分を外して手に指輪を握ると、その上から悟の大きな手が包む。そして二人はフェンスの手前まで並んで歩く。
「なんだか、結婚式のケーキ入刀みたい」
「またはブーケトスだな」
そして二人の手は、大きく後ろに振りかざされ、指輪は橙色の空に舞う。そして、気だるい喧騒の中に落ちて行った。
「はぁ……四十年って、案外長かったなあ……」
悟の声に、あかりは振り向いた。
彼は今、天に還っていく。
「でも、あかりに出会えて良かった」
そういうと、悟はそっとあかりを抱きしめた。そこには悟の白いTシャツがあるはずなのに、あかりの瞳には向こう側のベンチがうっすらと見えていた。
消える――――。
「悟……私……悟のこと、っ……あのね、悟のことがっ……」
止まっていたはずの涙と一緒に、閉じ込めていた恋慕の情まで溢れ返りそうになった。『好き』と口にしかけたところで、悟の腕に力が入りあかりの言葉は途切れた。
「それ以上、言うなよ。俺とお前の時間はこれからずっと離れていく。でも、忘れるな」
その言葉を口にさせない、悟の優しさだった。あかりはそれを受け止めた上で、わざと拗ねた声を出した。
「告白もさせてくれないなんて、意地悪だね」
「しても、返事なんてしてやらない。お前が困るだけだからな」
あかりの視界には、相変わらず見慣れたベンチ。
「最期まで、本当に意地悪すぎる……ばいばい、さようなら、悟」
「じゃあな、またどこかで、あかり」
そして悟は消えた。
「またって……何よ……」
あかりは、眩しい夕焼け空を見上げ、両手を広げた。そして瞳を閉じ、空気をおもい切り吸い込む。
「大好きだよ」
悟に聞こえないよう、小さい声にしておいた。
ここは確かに、空だった。
終章
あの夏から、四年が経った。
「里田さん、先休憩入って! 午後一人入院来るからよろしく!」
「はい!」
あかりは、二十一歳になり、芳江と悟を見送った病院に看護師として入職していた。教育係となった西山に急かされて休憩に入る。この仕事は思っていたよりもずっと忙しなく、あの時は心地良いと感じた空調に体中が汗ばんだ。あの頃の西山は、今の自分よりももっと落ち着いていたし、仕事も出来ていたように感じる。
「あっつい……」
無人の休憩室に入ると、冷蔵庫から冷えたペットボトルを取りだし一口飲んだ。あかりは持参した弁当を急いで食べてから時計を見る。今日は確かにばたついているが、休憩から戻るにはまだ早いだろう。
「会いに、行こうかな」
独り言を呟き、あかりは腰を上げる。
そして久しぶりに、あの重く軋む鉄扉を開けた。
「眩しい……」
あの時は、思えばいつも夕焼けだった。今はもうすぐ午後になるであろう時間。太陽は真上に上り、目を閉じると瞼が赤く透けていた。暫しの後、あかりは塗装の剥げたベンチの左側に腰をかけた。まるで誰かが座るかのように、右側は場所を空けていた。
「おばあちゃん」
あかりはそっと、芳江を呼んだ。
「お母さん」
顔すらほとんど覚えていない、母を呼んだ。
「悟」
そして、一時を共に過ごした彼を呼んだ。
「みんな、会いに来たよ」
あかりの言葉に答えるかのように、風が吹き抜けた。皆に会えたような気がして、あかりは一人笑みを浮かべたが、空席のままの隣に目を向け、思わずこみ上げるものがあった。
突然、後ろから鉄扉が開けられる音が聞こえた。
「じーじ! 早く!」
一人だった屋上が、突如賑やかに感じられる子どもの声。あかりが振り向くと、まだ小学校に上がるか上がらないかの年の少年に続いて、初老の男性が鉄扉の向こうから現れたところだった。振り向いた少年とあかりの瞳がぶつかった。
「お姉ちゃん、泣いているの?」
あかりに近づいてきた少年は、大きな瞳にあかりを映して首をかしげた。
「え? あ、大丈夫だよ」
あかりは慌てて涙を拭うと、不安そうな少年を安心させるかのように笑みを浮かべた。少年は何かを考えるように瞬きをしたあと、おもむろにポケットの中を漁りだした。
「すみません、孫がご迷惑を……」
いつの間にか男性が側に来ていて、少年の挙動を見守りながら謝罪をした。少年を見つめる瞳はとても優しい。
「いえ、迷惑だなんてそんな」
あかりと男性が他愛ない話をしていると、少年はやっとポケットの中から目当てのものを見つだし、満面の笑みであかりに差し出した。
「はい、お姉ちゃんにこれ、あげる!」
差し出された手に乗っているのは、何の変哲もない指輪。あかりは思わず目を見開く。少年はいつも大切に持っているのか、それは手垢で汚れていた。何の確証もないが、あの時にここから投げたものと似ているような気がした。
「まったく本当に……すみません。ほら、もう良いだろう」
「えー! 今来たばっかりだもん!」
男性が少年を咎め、指輪をポケットに戻させると、少年は不満そうに頬を膨らませた。
「そんな、良いですよ。私ももう仕事に戻りますし……何か用事があって、ここに来たのではないですか?」
あかりは笑みを浮かべ、二人を引き留めた。仕事に戻る時間であるのも本当だ。あかりにつられたのか、男性も笑みを浮かべながら、少年の頭に手を置いた。
「いいや、特別用事があったわけではないんですよ。ただ昔、ここの病院に悪友が入っておりましてね、よくこの場所で空を眺めていました。その話をこの子にしたら、どうしてもと言って聞かなかったものですから」
再び一陣の風が吹いて、あかりは何故か、悟がベンチに座っているのが目の端に映ったような気がした。あかりはまだ真新しいネームに取り付けた時計で時刻を確認すると、男性に礼を、少年に手を振って、屋上を後にした。
「お姉ちゃん、ばいばーい!」
鉄扉を閉じる前、もう一度だけ、あかりは後ろを振り返った。塗装の剥げたベンチに並んで座り、男性と少年は真昼の空を見上げていた。あかりは笑みを深くし、一つ深呼吸をして仕事へと戻っていった。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。台詞のある人物は八人と少なく短いお話ですが、少しでも何かを感じていただけたらと思います。作者の力不足で表現しきれていない部分は多々ありますが、あえて種明かししていない部分もいくつかありますので、それに気付いていただくことができれば嬉しく思います。