落日
男が一人、昼間の駅のホームに立ちすくんでいた。
日差しにはまだ夏の残滓を感じるが、頬を撫でる風は冷たく、秋の訪れを感じさせた。男は思いつめた表情をしており、うつむいたその瞳は暗く、燦々と降り注ぐ、秋の日差しの光さえ飲み込むようであった。着ているスーツは、見るからにやつれており、手に持っている大きめの黒いビニール製のビジネスバッグは、気だるそうに日光の熱を吸収しているようだった。
何もかもを失って、男はそこに立っていた。家族はいなくなり、会社はいつのまにか、席がなかった。やつれた表情からは、男の苦労が見えた。
ホームには、大きなヘッドホンを付けた大学生らしき青年と、スーツを着た中年男性が、隣に立っているまだ若さの残る男に話しかけていた。他には、老婆が一人いるだけのなんともひっそりとしたホームであった。そこに駅に列車が近づいていることを知らせる、機械音の音楽が流れだした。男は、その音に一歩、視覚障害者用の点字ブロックに足をかけた。そして俯いていた顔をあげ、列車のやってくるであろう方向を見つめた。
――まもなく、一番ホームに、列車が到着いたします。危ないですから、黄色い線まで、おさがり下さい。
到着のアナウンスが、ホームに流れる。男の目にもしっかりと、向かってくる列車を捉えた。ゆっくりと速度を落としながら、列車は彼のいる駅のホームへと、滑りこんでくる。車輪と線路の擦れる音が幾度か聞こえる。まるで表情のない無機質な音が男の心を揺らした。
また一歩、男は前へ踏み出した。
しかし、その時には、列車は男の顔に押し出した空気を浴びせかけた。幾らかの車両が、男の前を通り過ぎ、甲高い音を立てて完全に止まり、男の前のドアが開いた。ドアが開いた瞬間、車両の中から少しねっとりとした不快感のある空気が顔に当たる。この駅に来るまでに乗せた人々のため息のようなその空気は、陰鬱な表情をしていた男には、生を感じさせた。
相変わらず、男の頭上からはアナウンスが鳴り響く。男は、一度、空を仰ぎ見て、太陽の日差しに目を細めてから車両の中へと潜り込んだ。
車両に入り、まず目についたのは、正面のドア上部に取り付けられている広告であった。そこには、「新しい発見が、今も生まれています。その発見をあなたにも。――大学」と大きく印字されており、その文字の下にオープンキャンパスについての公募がされてあった。男は、無関心にその情報を目に入れてから、車内を見渡した。男は車両の真ん中のドアから入ったので、左から右へと顔を動かし、座席を探した。後ろ半分の座席には奥から、まだ三歳ぐらいになるだろう子供の相手をしている優しそうな目元の母親、次に駅のホームとは逆側の窓側の座席に座って、そのとの景色を眺めている老婆とその隣に夫であろう老人が、熱心に、手に持っている新聞を、読みふけっていた。そして、先ほど男と同じホームから乗車したサラリーマンの男性二人が、空席の目立つ中、立ったままで何かしらを小声で話していた。
男は、後ろの人とは、別れるように前の方の座席に向かい、適当な窓側の席に座った。座って車両には空席も目立つし、今から行く方向へは、あまり人が乗らないだろうと考え、隣の座席に持っていたバッグを置いた。重たい音が、座席を通じて男の体にまで伝わった。持ってきすぎただろうか。どれかで終わらすつもりなのだから、何かが足りなくて戻ってきたほうが、それはそれで恥ずかしいと言い訳をして、バッグの中に入っているものを考えないようにして、窓の外を眺めた。
「あ――」
声が漏れた。窓枠に列車の切符が、ひっそりと置いてあったのだ。窓の外、秋晴れの空から振り下ろす光が、切符の存在を退廃的で厭世的にしていた。ふと、男は辺りを見渡した。もちろん前半分の座席には、誰も座っていなかった。その光景に男は、なぜか安心感を得た。
「お前も忘れられたか……。一緒にどこかへ行こうか」
その窓枠に置き忘れられた切符に、妙な愛着と仲間意識が芽生えていた。途端、車内にアナウンスが流れる。
「――方面行き、出発します。ドアが締まりますので、ご注意ください」
列車のドアが音を立てて閉じる。そして、一度揺れてから、足の悪い老人のようにゆったりと、動き出し、徐々に加速していった。男はその光景を見たあと、窓枠の切符をもう一度、確かめるように眺めた。切符にはとなり駅ほどまでの運賃が、記されていた。それを確認すると、男は静かに、表情を緩めた。
この切符の持ち主は、今何をしているのだろうか。切符を忘れたのは、だいぶ前だろうが無事に行き先へ行けただろうか。自分は、しっかりと、迷わず、向かうことができるだろうか。この忘れられた切符との妙な縁は、一体何を意味するのか、男には、悶々とうねるような無駄だと分かる思考を続けた。窓の外では、駅前の家々が流れて行き、列車の速度を感じさせた。窓から見える青空は、遠くに渦巻く巻雲との色調が鮮やかであった。意識の奥へ沈み込むような深い青と雲の白とは、絵画のようであった。眩しく照らす太陽は、線路との位置関係なのか今は、見えなかった。
車体が一定のリズムに合わせ、ガタゴトと揺れ動く、それに合わせ、男の体も左右前後へ動く。あの日はこんなに綺麗な日ではなかった。薄暗く曇り、雨模様でもなく、なんとも気持ちの悪い天気であったのを、男は未だに覚えている。あの掴まれた時の不快感のする柔らかい感触を今もその手首に思い出すことができた。
「――あんた、私のおしり触ったでしょ?」
それは、男にとって全く見に覚えのない不可解な事実であった。その声とともに握られた手首は、まさに手錠だと感じた。茶髪を肩ぐらいにまで伸ばし、毛先を内向きに巻き、目元には薄い紫掛かったアイシャドウを付け、その瞳には、強い感情の高ぶりを感じたのを覚えている。大学生らしき女性であった。服装はあまり覚えていないが、ミニスカートに黒のタイツであったのは、覚えている。何度も警察に尋問された時に聞かされた話だったからだ。
男が否定すると、女性はヒステリーを起こしたように怒り狂い、その感情を抑えられなかったのか、涙を流しながら叫び声を上げた。男の周りの人が、集まった。男はどうしたら良いか分からず、とりあえず、その場から逃げようと、握られた手首を振り切ろうとした。しかし、女性は、さらに訴え、そして男は、その場で周りの善意(ヽヽ)の人達によって取り押さえられ、男は捕まった。
警察の取り調べは、もう罪が確定したような口ぶりで、男に語りかけてきた。痴漢の方法も具体的で、被害者女性の訴えをそのまま取り込んだものだった。男はその時、笑ってしまった。あまりにもできた物語を感じたからだ。しかし、痴漢は最後まで否定した。相手の女性が痴漢冤罪の和解金目当ての事件を何度も起こしている人間だと分かるまで、男は作られた痴漢方法を教えられ続けた。結局、三日程で拘留からは逃れることができた。しかし、男に待っていたのは、誰もいない食卓であった。家に帰ると、食卓の上に無造作に置かれた手紙だけが、待っていた。社内では、女性社員から露骨に避けられるようになった。そして、男性社員の同僚からは、そのことでからかわれるようになった。なぜかは知らない。なぜかは、男には理解ができなかった。自分は何もやっていないのだと、認められ、釈放されたのに、待っていたのは手紙と、この仕打ちであった。程なくして、男は会社を辞めたのだ。
そして、家で呆然と一週間ほど、暮らしたあと、今こうして列車に乗っていた。身辺の整理は、済ませてあった。親はかなり前に両方共病気で失っていたし、兄弟もいなかった男は、簡単に済ませることができた。別に死に行くつもりはなかった。いや、死ぬつもりだったのかもしれない。バッグの中に入っているものは、関係無かった。ホームセンターやスーパーなどで、買い揃えた品だが、とてつもないほどの衝動に駆られていたのだ。買い揃えられなければならないと……。買ってしまわねばならないと……。男は、つい数時間前の自分の行動を思い返していた。ちらちらと、思い耽っていた男の目の端に、それを捉えた。紅く咲いた彼岸花だった。田んぼと田んぼの畦道に、紅く綺麗に咲いた彼岸花の群棲が、流れるように点在していた。空の透き通った深い青と、田園に垂れるくすんだ黄金色した稲穂の中の紅は、不和を感じさせそうだが、見事にその額に収まり、秋を感じさせる景色だった。男は、その景色を取り憑かれたように見ていた。やがて、また住宅街の方へ入って行き、線路沿いに建てられた新規の宅地や古びてしまった家々が、流れるようになって、どこかの駅へ着くというアナウンスが流れた。
男の車両は、誰も乗降しなかった。そして、決まりきった列車はまたしても動き出す。男は、窓枠の切符を眺めはじめた。外を流れる様々な風景と、場違いな低運賃の切符は、和まされるものがあった。男は肘を窓枠にかけ、持たれるように窓に頭を傾けた。そして、何か考えようとすることを放棄して、静かに外の景色を眺めはじめた。空は、鱗雲が増えてきているようだった。そのためか、先ほどまで強かった日差しが、弱まったり、強まったりを繰り返した。街並みの中に入ると、目新しいものもなくなり、退屈な情景をただひたすらに、男は眺めて、瞼が重くなるのを感じた。
空は、圧倒するような朱色と青の色彩だった。西の空にある太陽は、傾いて男の全身を紅く染め上げる。その輝きに男は目を細めた。霧のような靄が、光を乱反射させ、空間を覆い尽くすような光となって黄金に染めていた。顔に冷たい風がかかる。刈られる草の匂いがした。その匂いは、生々しく、舌に落ちるような土の匂いと共に、鼻腔をくすぐった。
全身に浴びる光の先に何かが見えた。気づくと男は田園の畦道に立っていた。ここはどこだろう、と男が考えることはなかった。懐かしく、暖かい気持ちを支えるようなこの雰囲気は、なんとも居心地が良かったのだ。男はその見えたものに向かって足を向けた。はじめの一歩は、全身が鎖にでも繋がれているように重たかったが、次の一歩から、全身の筋肉という筋肉が自由になり、弾んでいく足は、男が、これまで感じたことのないほどの、心地よさと解放感に包まれていた。
光の先に動くものが見えた。何だろう。何が待っているのだろう。子供のような好奇心と高揚感が、全身を進ませる。虫の声が、哀愁を漂わせた。だが、男は関係のないことだ、と思考を停止させ、ただ、この無償の幸福感に浸り、過ごしたくて仕方がなかった。シワの付いたスーツのズボンに泥がはねた。革の靴は、土がそこら中に付いていた。男は、靄で見えない先の世界を見てみたくて、走るのをやめなかった。影が見えた。子供のような気がした。男はそれに気がつくと、飛ぶように跳ねていた足がゆっくりと、速度を落としていった。そして、先に進むのをやめてしまった。男は、先に動くいくつかの影を見た。それは自分に思えた。
不意に、振り返った。そこに見えたのは、絶望のように見えた。正面の輝きが、霞んでしまうような深く暗い紺色の空であった。点在する鱗雲は、西日に紅く染まっていたが、大部分が藍色と紫の中間のような模様を描いていた。雲と雲の重なる影は飲み込まれそうなほど暗く、穴のようであった。右手を静かに握りしめた。握りしめた掌に、何か硬い紙に気がついた。ゆっくりと、手を開くと、そこには、列車の中にあった切符であった。身体が急に宙に浮くような感覚に襲われた。足元が崩れ、全身をミミズのような蟲が駆け巡った。足の感覚がなくなり、水中の中にいるような不快感が襲い、五感がなくなった。手の中にあった切符は、いつの間にか消えていた。
「あの、すみません」
若く声を高めにした緊張の見える女性の声色だったが、その底には確かな、非難が込められている気がした。埋もれた闇の中から意識が浮上するまでに、僅かな逡巡があった。男は、目を開け、声がかけられた方を見た。そこには、リクルートスーツを着たいかにも就活生らしい姿をした女性が立っていて、指を男の隣の席に向けていた。男はその理由に気が付き、すみません、と断りを入れたから、すぐさま隣に重々しく載せていたバッグを持ち上げ、膝の上に置いた。女性は、席の空いたのを見ると、そこへ座り、手に持っていた真新しい女性用のビジネスバッグの中から、コンパクトを取り出して、鏡で自分の顔を確認し始めた。男は、その様子に圧倒されていたが、膝に置いたバッグのじんわりと、身にのしかかる重みを確かめるように、強く抱いた。
車内を少し、顔を上げて確かめると、大体の席には、人が座っており、携帯電話をいじっていたり、本を読んでいたり、と男の仕事帰りに見るような光景が広がっていた。ひとしきり、その様子を眺めると、窓の方へ顔を向け、外の様子を確かめた。ビルが所々に立ち上り、車窓から見える景色は、男の全く、知らないものであった。どこらへんまで来たのだろうか、と思案して、答えを考えつくこともなく、それをやめた。そして、乗るときには、少し傾いていたが、頂点付近にあった太陽もだいぶ傾き、男の見た夢の様な幻想的で儚さを感じるような夕日ではなく、マンションや家々の間から見える紅く染めた太陽は、昼間の太陽のように眩しく、世界を照らしながら、ゆったりとしたペースで、地平線向こう側へと行ってしまうようであった。
男は、それを見ると、次の駅で降りようと決めた。窓枠の切符は、斜陽を浴びて、列車の揺れるリズムに合わせて揺れていた。