知らぬ故郷
「引っ越すぞ」
父はそういって、数少ない荷物をもって私と家族を連れだした。まだ日の昇らぬ深い夜のことである。
私の一家は、農業を営んでいる。姉は花嫁修業を母から教わり、二人の兄と私はいつか父の畑を引き継ぐためにいまのうちから手伝っている。それから私の妹が一人いるが、妹はまだ乳母車から起き上がれる歳ではない。
石壁の家はひどく寒い。家は山の影にあり、日の光が届かないためにカビが繁殖しやすい。おかげで生ものはすぐダメになってしまうから常々困っているものだ。
それでも、ここは私と私の家族の家で、そして私たちの畑だった。埋めたジャガイモが大きく育つと嬉しいし、それを育てた自分も誇らしい。
ある日のことになる。その日はずっと、難しい顔の父がいた。だが父が難しい顔をするのは珍しいことではない。この間妹が小水を漏らした時などもそうだったので、きっとまたそういうたぐいのことが起きたのだろうと思った。
「引っ越すぞ」
夜中に起こされて寝ぼけ眼の私は、父のその言葉で意識をはっきりさせた。引っ越す。
「おっとう、そりゃどういうことだ」
上の兄が尋ねた。当然だ、私だって急に言われたってわからない。
「どういうことでもない、引っ越すぞ。荷物まとめろ」
「だからおっとう、それはなんでなんだよ」
「それを言っている時間がない。早く荷物をまとめろ」
下の兄は上の兄に追従した。だが、父は何も説明しない。
「おっとう、近所のミーちゃんとケッつぁんはどうするんだよ。お別れまだ言ってねえぞ」
私が聞くと、父が椅子から立ち上がった。私は思わず身を縮こませた。怒られると思ったからだ。
父が、私たち子供に頭を下げた。
「今は、何も聞かないでくれ。後で何でも答えてやる。だから、引っ越すぞ。荷物をまとめろ」
こんな父は初めてだった。私たちは面食らった。
兄たちはブツブツ言いながら荷物をまとめた。兄たちは、父が畑は捨てていくといっていたのだから、きっとそれで文句があるのだろう。
私もまた文句があった。まだ暗いのだから、あとでいいじゃんと思っていたからだ。
母と姉は何も文句を言わなかった。いったいどうしてなのだろう。妹も何も文句を言えなかった。文句を言える歳じゃない。
まだ日の光が昇らぬうちに、私たちは村を出た。足元がよく見えず、何度も転びそうになった。
一番前を歩く父は、しきりに後ろを見た。後ろには私たち家族と、そして私たちが出て行った村がある。
街道を歩いていく。「おっとうもう疲れた」と私が言えば、父は「疲れても歩け」といった。どうして父は何も言ってくれないのだろう。
もう何度目だろうか?父が後ろを振り向いた。今までと違ったのは、父が足を止めたこと。
何があったのだろうか、と思い、私は父の視線の先を追った。
「わぁ」
村が、夜だというのに光り輝いていた。きれいだと思った。こんな景色は見たことがない。
しかし父は、難しい顔どころか、驚いた顔をしていた。母も、兄たちも、姉もだ。どうしてなのだろう。
「おっとう、あれはなに」
「アレはな、燃えてるんだよ」
燃えていた。私たちの村が。その時の私はまだその意味がよくわかっていなかった。ただ、「火が燃えてるなら暖かそう」と思ったことは、いまだ覚えている。
§
「汝ノ故郷、国軍ガ取リ戻セシ」
ある日、斯様な文が届いたことが会社に届いたことを社長から聞かされた。あて先は私。戦争が終わって、1年くらいした日のことである。
私は瓶ビールの検品を一時中止し、送られた文に目を通すことにした。
内容は、私が昔家族と出て行った故郷のある部分の整理ができた。父も兄たちもすでにいないのだから、その親族であるお前が確認しに行ってこい。......ということであるらしい。
国の命令は嫌いだったが、逆らえばどうなるかわからない。父も兄たちもそうやって、国に従って兵士になって、居なくなった。私はその時若かった。今は若くない。今度は私の番なのだろうか。
私は会社に「国の命令故休暇を申請する」との連絡をした。会社は良い顔をしなかったが、申請は通った。当たり前だ、国の命令なのだから会社より優先される。
私は荷物をある程度まとめて、あの昔日の街道を歩いていく。あの日とは違って、私の体はがっしりと男にふさわしい筋肉のある体に変化した。子供のように疲れない、子供のように音を上げない。それが今の私。
私の村がもうすぐだ、というところには関所があった。もちろん私はそこで止められたが、国から送られた文書を見せた。確認をしてくると兵士は言って、そしてしばらくしたら通ってよしとのことだった。
私は関所を通った。私は村だった場所にたどり着いた。
村は大きな採掘場になっていた。山が鉱山だったらしい。その中で掘れる石をめぐって、国と国が争った。石なんか掘っても私の腹は膨れないというのに。
ここは私の家なのだろうか?ふとそうおもったが、しかし役所はここは確かにあなたの家の住所なのだという。私の家とは何なのだろうか。こんなツルハシとシャベルとポンプがある場所が私の家なのだろうか。私の記憶とはあまりにも違う。
私の足元にカサリと紙が当たった。その紙を拾い上げる。紙にはクレバスで炭鉱夫が描かれていた。裏面を見るとこう書かれていた。「DAD,MY HERO」
その時私の心に去来したものは、何者であろうと形にできないだろう。私の家は、私の故郷は奪われていた筈だった。だがこれはなんなのだろうか?まるで私たちが奪ったかのような。
「確認が終わりましたか」
兵士にそう声を掛けられるまで、私はただただ呆然としていた。兵士は私の顔を見て、
「確認が終わったのなら、退去をお願いします。ここは国の直轄になるので」
と言った。どういうことなのだろう。私はなんのために呼ばれたのだ。
「なぜ、私が呼ばれたのですか」
「ここの確認をするためです。ここはあなたの土地でした。これからは国の土地です」
あなたの土地でした。文書にも書いていたその言葉。私はてっきり返されるのだと思っていた。だがそういうわけではなかったらしい。
わたしは帰路に就く。故郷へのではない、引っ越し先の帰路である。そうして引っ越し先に帰れば、また瓶ビールの検品が始まるのだろう。
あの日の父と同じように、故郷の方を振り向いた。そこには関所がある。昔はなかった。採掘場もなかったし、あったはずの畑も家も消えていた。やはり何もかもが、私の故郷だとは思えなかった。




