誰のための光
灯台は今日も海を照らす。暗い波は岩に砕けて白く散っている。嵐の風はうんと冷え込む。乱れた空の彼方へ、灯台は光の帯を貫き巡らせている。
深夜、灯台の扉が耳障りな音を立てて、開いた。こんな嵐の夜中に一体何が来たというのか。食べ物の配達?そんなわけはない。いつも来るのは昼過ぎ、まだ灯台守が寝ている時間、勝手に置いていくのだ。
灯台守は、刃物を念の為後ろ手に持ち、階段を降りると、そこにはぐったりとびしょぬれの黒髪に黒い服の女が倒れていた。死体かと思ったが、どうやら生きている。刃物を壁際に置くと、慌てておぶって階段を上がっていき、部屋に入り、ストーブに火を入れる。濡れた黒い服を脱がせると、折れそうな体があらわになった。細い体に生唾を飲んだが、触れると氷のように冷たい。喉からひゅうと息が漏れたのが聞こえて、灯台守は我に返った。よく見れば体じゅうは生傷とアザだらけだ。自分の着替えを着せてもぶかぶかで、てるてる坊主のような女を、毛布でぐるぐる巻きにした。
生きろ、生きろ。せっかくたどり着いたのだから。ストーブのそばにあぐらをかいて、灯台守は大きな祈るゆりかごになった。
次の日、灯台守は、深く眠れなかったなぁ、とおやつ時に起き出した。体格の良い灯台守は、のしのしと部屋を出て、灯台と大きな窓のある最上階に仕事に来た。ぴかぴかに灯台を拭き上げる。こうすれば安心だ。誰にでもできる仕事だし、誰がやってもいい仕事だと思うけれど、この仕事が灯台守は好きだった。
夜、昨日の嵐が嘘のように空と波が穏やかになり、灯台は光を穏やかに波の上に広げている。
灯台守が部屋に戻り、ストーブの横で、窓の外と寝台で眠る女を交互に眺めていると、女の目が、ぱち、と開いた。灯台守は慌てて寝台に駆け寄った。が、すごい勢いで目潰しされた。
うわぁ、と灯台守は目を覆って床に転がり身悶えする。灯台守の大きな体格にふさふさとした茶髪もあいまって、熊が撃たれて倒れ伏しているのに似ていた。灯台守の耳に立ち上がろうとする衣擦れが聞こえて、目を押さえたまま
「まだ動いちゃだめだ、体じゅうアザだらけだ」とおろおろとした声で止めた。
「お前は誰だ」
「灯台守だよ!この灯台を守っているんだ」
「……じゃあこの服は、あなたのか」
「えっ、うん。そうだよ」
「……ありがとう」
やっと目が開けられた灯台守は、女が右腕を庇っていることに気づいた。女は、毛を逆立てた黒い子猫のように、可愛らしい吊り目と小柄で細い体に、めいいっぱいの警戒を浮かべていた。
「君は右利きなのかい」
「そうだけど」
「食べ物、少ししかないんだ。パン粥でよければ食べさせてあげるから」
こぼしたらもったいないでしょ?と言うと、暖かいミルクにちぎったパンを浸したものをスプーンで丁寧にすくって、女の口に運んだ。女は、困惑し睨みながら暖かいパン粥を啜った。
女は食べ終えると、
「ごちそうさま」と小さくつぶやき、半身を起こしていた痛みに耐えかねて、また寝台に沈んだ。
その次の日、灯台守がいつも通りおやつ時に起きると、雨だった。いつものように、一番上への階段をのしのしと登る。海に面した大きな窓と、灯台の灯りを灯台守は一生懸命拭き上げたが、灯台守の手が暖かいので、拭いたところが雨に冷やされて曇ってしまっていた。
夜になって、灯台は無事に光を放つ。安心した灯台守が部屋に戻ると、寝台が軋む音がした。女が体を起こしたのだ。灯台守は駆け寄った。
「何か欲しいものは?」と灯台守は尋ねた。
「お湯と布をくれないかしら、体がかゆいわ……」とつぶやく女のために、布を洗って煮沸したものと、ほどよい湯を用意した。灯台守は、申し訳なさそうに女に着せていた服を脱がすと、目を少し伏せながら、震える手で、女の体を隅々まで拭いてやった。灯台守は、口の中がなぜ異様に乾くのかわからなかった。
女は、アザに触れられると、痛みを堪えて深いため息をついて、身動ぎをしたが、それ以外は穏やかに少し居心地悪そうに拭かれていた。
しかし、終わると晴れやかな顔で
「ありがとう」と言った。
灯台守は、あ、初めて笑ったぞ、もっと見たいなぁ、と踊り出したいような気持ちで受け止めた。
また次の日、日暮れ前に起きると、雨は嵐に変わっていた。
女の食欲は回復してきたようで、今日はパンと牛乳を別々に出した。
「自分で食べれそうかい?」と灯台守が尋ねると、女は冗談めかして
「もう食べさせてくれないの?このほうが楽だもの」と言ってころころと笑った。からかうような、猫の目をして、女は灯台守を眺めている。
灯台守は、しゃっくりを飲み込んだような声で
「わかった」と言うと、ちぎったパンを赤色をした女の口元へ持っていった。女は口を寄せると、ピンクの口腔を晒すように口を開いて、ぱくりとパンを食べた。灯台守の指先に唇が触れる。唇は柔らかだった。咀嚼するごとに口元があむあむと小さなひよこのように動いた。飲み下すときに動く喉も猫の背中のようだった。牛乳を飲ませると、口の端から白く一筋がたらり、と垂れたので、灯台守は柔らかい布で掬い取るように拭いてあげた。
灯台守の恍惚とした様子に首を傾げて、女は
「次のパンくれないの?」とねだった。はっとした灯台守は、
「ごめんごめん」と言うと、次のパンを差し出した。女は鈴を転がすように笑った。
満腹した女へ、灯台守は尋ねた。
「そういえば、君はどこから来たの?」
女は窓の外の嵐を見据えて動かなくなってしまった。黙ったまま、毛布を固く握りしめていた。
「答えなくてもいいんだ」と灯台守が慌てると
「なんであなたはここにいるの、どうして船を照らしているの」女は静かに尋ねた。
灯台守は答えられなかった。
灯台守はその夜、夢を見た。
灯台守の両親は、漁師だった。仕事が忙しくて、ほとんど構ってもらった記憶はない。こどものとき、嵐の夜、漁師の両親が死んだと、他の漁師に聞かされた。黒々と波が高い日で、あれに飲まれて両親は死んだのだ、と思った。
引き取ってくれた養い親は、優しかった。しかし、こどもが中々できない夫婦だった養い親のもとにも、いつかこどもは来る。遠慮しながら、小さく縮こまりながら生きていた。
声が変わった頃に、案の定、赤子が生まれた。すくすくと育つ女の子を遠慮しながら、可愛がった。
女の子がもう達者に話す年になった頃、ひどい風邪をひいた。養い親は、嬉しそうに世話を焼いた。普段頼ってくれない養子の弱っているのを、甲斐甲斐しく世話をした。
その様子を幼い実子がそっと、扉の隙間から覗いていたのに気づいた。嫉妬と苦しみと哀れみの混ざった黒々とした目であった。
世話をされたくなかった。でもされないと今は頭がぼんやりして動けなかった。甘えたいと思わなかった。
大事な養母ではあった。
しかし、世話をされる情けない姿を妹と仮にも呼ばれる子に見られていることがいたたまれなかった。
養母はお湯に布をつけると、躊躇いなく服を脱がせて、体を拭いてきた。
「いやなんだ、しなくていい」とやんわり言っても
「気にしなくていいのよ」と、にこやかに、話を聞かずに体を拭いた。
その世話を払いのける力すら、そのときはなかった。受け入れなければ死んでしまう、とどこかで思っていた。煮えくり返る気持ちを押し殺して、照れた笑顔でありがとう、と言いさえした。
灯台守は、なんの夢を見たか思い出せなかったが、ものすごく汗をかいて目覚めた。
その日も灯台守は、女に楽しくパンを食べさせた。女の口にパンを運ぶ手つきは軽やかだった。
次の次の日、女は少し真面目な顔で
「もうひとりで食べられるから」と言った。灯台守は、自分の大切なものを触られたときのような心地になった。守らなきゃ。灯台守は、やわらかく微笑んで
「食べさせたいんだ」と言うと、いつものように、女に啄ませるために、パンを小さく千切って差し出した。
女は、怪訝な顔で、緊張しながら、それ以上は何も言わず、差し出されたパンや干された肉を食べた。
女は、食べ終えると窓の外ばかり見ていた。
灯台は、少し波の荒れた海に、君臨するように強い光を放っていた。
女が寝付いた頃、どんどん、と扉を叩く音がして、灯台守は何事かと久しぶりに玄関から表に出た。太陽が眩しい。
「こんにちは、ちょっと女を探していてね、万が一見かけてないかと思ってさ」とやる気がなさそうに尋ね人について男が話し出した。男は、細身で下卑た笑いを口元に浮かべて、汚い金髪も随分と後退していた。
「はあ、どんなひとですか」
「細くて可愛げのないメイドなんだがね、旦那様にちょっといたずらされたからって、食器のナイフで切りつけたんだそうな!」にやにやと語る男に向けて、灯台守は
「このあたりでは、女は見かけないな。力になれなくて、すまないね」と優しく伝えた。
「おお、そうか。そうだよなあ。何かあったら教えてくれ」と男は言い残すとその場を立ち去った。
灯台守は、扉を閉めるとほっとした。階段を登って部屋に戻ると、閉め切った薄闇に女の静かな寝息が聴こえてくる。灯台守は、いいことしたなぁ、守れてよかったなあ、と小さく息を吐くように微笑んで、女に毛布をかけ直した。
横になってみてから、なんだかモヤモヤとした。何か、知っているのにわからないような感覚が自分を襲った。何となく、気持ち悪くて、早く眠りたくて、灯台守は大きな体を丸く縮めて眠りに落ちた。
またいつも通り、おやつどきに灯台守は起きた。風がぬるくて、まだしけていないけれど、これからまた天気の荒れることがわかるような、不穏な曇りだった。
女が遅れて起きてきたので、いつものように灯台守はパンを千切って差し出した。
女は睨みつけながら、不愉快そうにパンを行儀悪く噛み千切って食べていた。
灯台守は、食べさせながら、昨夜の気持ち悪さが胸のうちに蘇り、納得した。
あぁ、おれは、このひとに食べさせることで、閉じ込めているのだ。頭の中で言葉にした時、ぞくりとした。火傷するような、目の覚めて冷え込むような、ふたつのかたちをした恐怖が迫ってきた。しかし、それが落ち着くと、それでももう手離したくない、食べさせるという形でしか食事をさせたくない。後ろ暗くてぬめる悦びがじっとりと芽生えた。すべてが綯い交ぜになって、灯台守の男を貫いた。灯台守は、なぜか己の下腹に渦巻いている熱を自覚したが、食べさせることをやめることができなかった。
夜になると、灯台は、柔らかく分厚い雲の中へ光の帯を挿し込むように光っていた。
次の日、灯台守が起き出すと、女もまだ明るい時間に起き出した。そして開口一番
「私、今日は食べない」と灯台守に言い捨てて、そっぽを向いた。
「食べなくちゃだめだ。おいしいよ。野菜も届いたんだ」と灯台守がおろおろと伝えると
「じゃあ自分で食べる」と女は鋭い目で灯台守を見据えた。灯台守は、静かに野菜と干し肉でスープを作って、美味しそうに食べてみせた。
「食べなくてもいいけれど、美味しいよ?」と伝えると、女は怒りに顔を歪ませながら、静かに口を開けた。
ピンク色の口腔があんぐりと、食べ物が届くのを待っている。呼吸するごとにひくつくそこへ、よく煮込んでほぐれた芋を灯台守は与えた。なんだか、灯台守は何かが這い上ってくるような、不快と快楽の間の感触がずっと首筋にあった。なぜか熱くて、苦しくて、どこかが寒かった。
そろそろ夕方の光が弱くなってくる。灯台守は、光をつける前の準備として、一番上へと登り、灯台のあかりを点検していると、耳障りな音で扉が開く音がした。
一番下へと駆け下りていけば、玄関から女が出ようとしていた。
「来ないで!」
「い、いやだ、行かないでくれ」
「あなたのこと、好きだった。でも!ここで私は、私でいられない!」
女は、走って出ていった。
呆然と、女を追って、久しぶりに外を歩いた。
日が落ちきって、背後から海が穏やかに波打つ音がする。
顔を上げれば、大空がひらけて天辺には星が出始めて、大地は遠くまで広がり家々に小さなあかりが灯っていた。
遠くから滲んでぼけやけた船の汽笛が響いた。
灯台守は気がつけば膝をついていた。
灯台に光が灯ることは二度となかった。




