90.彼女の策略。
生誕祭の広間は、眩い光に満ちていた。
双子の殿下を祝う声。
重なる杯の音。
その喧騒の中で――視線を感じる。
「……ネメシア」
振り向けば、セレフィーナが立っていた。
完璧な微笑み、揺らぎのない姿勢。
あまりにも整いすぎていた。
「少し、お時間をいただけるかしら?」
柔らかな声。
けれど、その瞳の奥は読めない。
私は一瞬だけ周囲を確認し、頷いた。
「先日は……失礼な態度を取ってしまったわ」
意外な言葉だった。
伏せられた睫毛、慎ましい仕草。
だが――
この人が、ここまで素直に頭を下げるだろうか。
「殿下のこととなると、つい視野が狭くなってしまって」
そう言いながら、わずかに私の反応を窺う。
測っている。
……やはり。
「セシル殿下の傍で支える者同士、仲良くしましょう?」
その言葉に、胸の奥がわずかに冷える。
“傍で支える者”。
曖昧な線引き。
私たちは婚約者と、側近。
同列に置くには、都合がよすぎる。
「ええ。殿下のためであれば」
私は笑みを崩さない。
警戒は内側に沈めたまま。
そのとき、セレフィーナは給仕から杯を受け取った。
淡い色の液体が、灯りを受けて揺れる。
ほんのわずかに。
――躊躇?
いや、演技か。
「そうだわ」
自然すぎるほど自然な調子で。
「殿下がこちらをお望みでしたの。お忙しそうで、私からは渡せなくて……」
杯が差し出される。
「ネメシアから渡してくれる?」
一瞬、時間が止まる。
なぜ、自分で渡さない?
婚約者のあなたが。
視線が、広間中央へ向く。
セシル様は貴族たちと談笑していた。
私は杯を見下ろす。
透明な硝子、揺れる液体。
――異変はない。
匂いも、色も。
「……承りました」
私は杯を受け取る。
指先に伝わる冷たさが、妙に重い。
セレフィーナは、安堵したように微笑んだ。
だがその笑みは、どこか硬い。
広間の中央へ向かう足取りが、わずかに重い。
嫌な予感。
けれど、それは“予感”でしかない。
根拠はない。
止める理由も、ない。
「殿下」
セシル様は談笑を切り上げ、こちらを見る。
金の瞳が、柔らかく細められる。
「どうした」
「こちらを……」
彼に差し出す。
その瞬間、わずかに躊躇った。
ほんの一拍。
言葉にできない違和感が、指先を鈍らせる。
――待ってください、と。
そう言うべきか。
けれど、何を理由に?
私が疑っていると知られれば、それこそ――。
その迷いの隙を縫うように、
「ちょうど喉が渇いていた」
セシル様は、軽い様子で笑った。
私の手から、躊躇いなく杯を取る。
疑いなど、欠片もない顔で。
「気が利くな」
止める間もなく、彼は口をつけた。
「……」
声が出ない。
一口。
喉が動く。
二口。
私は、ただその動きを見ている。
嫌な予感が、確信へと変わる前に――
杯が、彼の手の中でわずかに揺れた。
「……上手い――」
その声が途切れた。
次の瞬間、セシルの喉がひくりと震える。
赤が零れた。
彼の唇から、床へ落ちる。
白い石に、染みが広がっていく。
「……セシル様……?」
彼は何かを言おうとした。
だが、言葉の代わりに血が溢れる。
手から滑り落ちた杯が砕けた。
鋭い音。
広間のざわめきが止まる。
セシル様の膝が崩れた。
「セシル!」
私は反射的に腕を伸ばし、体を支えた。
重い。熱い。
呼吸が乱れている。
胸元を掴む指が、わずかに震えた。
血が喉を伝い、衣を濡らす。
「医者を――!」
その声を掻き消すように、別の声が響いた。
「私が見ます!」
振り向くと、ルミナがいた。
人垣をかき分けて駆け寄る。
「離れてください!」
震えている。それでも目は逸らさない。
彼女は膝をつき、セシルの胸元に手をかざす。
淡い光が溢れた。
聖女の力に、広間が息を呑む。
「ルミナ……お願い……セシルを……」
声が震える。
縋るように言うしかない。
セシルは、うっすらと目を開けた。
空色の瞳が、私を探す。
そして何かを伝えようと、唇が動く。
「……に……げ……」
掠れた音。
逃げろ、と。
その意味を理解した瞬間。
「その女を捕らえよ!」
皇帝の怒号が広間を震わせた。
一斉に視線が集まる。
私へ。
「違います……!」
言葉はかき消される。
警備兵が腕を強く、容赦なく掴む。
「離して! セシルが!」
引き剥がされ、腕の中から体温が消える。
ルミナの光が強まる。
誰かが祈りの言葉を叫ぶ。
セシルの口元から、それでもなお血が零れている。
どうして、止まらないの……?
「殿下をお守りしろ!」
怒号。
足音。
混乱。
私は押さえつけられたまま、ただ見る。
――違う。
頭が白くなる。
違う……違う、違う、違う。
私は、ただ渡しただけなのに。
あの杯を。
セレフィーナに言われて。
理解が追いついた瞬間、背筋が凍る。
空色の瞳が、まだこちらを探している。
その視線が揺れ、かすむ。
「……セシル……」
手を伸ばす。
その瞬間。
鉄の感触が手首に食い込んだ。
――拘束。
足元には、砕けた硝子。
赤に染まった石床。
祝福の装飾が、嘲笑うように揺れている。
双子の生誕祭。
王都が最も華やぐ夜。
その中心で、皇子は倒れた。
そして私は――
罪人として連れて行かれる。
背後で、誰かが囁く。
「やはり……」
「噂通りの女だ」
殿下を惑わせた女。
――悪女。
すべての言葉が、今、形を持つ。
私は、一瞬だけ振り返る。
人垣の向こうに、セレフィーナの姿が見えた。
蒼白な顔。震える唇。
それは――完璧な演技。
理解する。
嵌められた。
扉が閉ざされた。
祝宴の喧騒が、遠ざかる。
残ったのは、鉄の音だけ。
生誕祭の夜は、崩れた。




