87.察してください。
「……私は」
言いかけた、その時。
「そこのお二人さん! そこで突っ立ってないで、中に入らないか?」
陽気な声が割り込んだ。
思わず視線を向けると、通りに面した小さな店。
硝子越しに、色とりどりの菓子が並んでいる。
甘い香りが、風に乗って漂ってきた。
私はセシル様を見る。
彼も、こちらを見ていた。
ほんの一瞬、先ほどまでの熱が残る沈黙。
「……入るか」
ぶっきらぼうに、そう告げる。
けれど拒む様子はない。
「そうですわね」
頷き、並んで歩き出した。
扉を開けると、軽やかな鈴の音が鳴った。
さっきまでの言葉は、甘い香りの中に溶けていく。
けれど、消えたわけではない。
まだ、胸の奥に残ったまま。
店内は、外よりもずっと甘い香りに満ちていた。
焼き立ての生地の匂い。
砂糖の柔らかな気配。
向かい合って座っているはずが、妙に近く感じる。
さきほどの言葉が、まだ胸の奥に残っているからだろうか。
「……好きなのを選べ」
セシル様は視線を逸らしたまま言う。
「セスはどうしますか?」
「俺は――」
その時。
「お二人さん、よろしければこちらどうです?」
店主がにこやかに指し示したのは、小さなケーキが二つ並んだ皿だった。
「当店で一番人気の“恋人セット”でしてね。お二人で分けるのにちょうどいいんですよ」
沈黙。
空気が、ぴたりと止まった。
セシル様が一瞬、固まる。
「いや……」
低く否定しかけて、言葉を飲み込む。
その顔は、わずかに硬い。
私はその皿を見つめる。
丸く整えられた生クリーム。
二つでひとつの飾り。
それから、彼を見た。
「……それにします」
はっきりと告げる。
すると、セシル様がこちらを振り向いた。
ほんのわずかに、目が揺れている。
「……おい」
「せっかく勧めてくださったのですもの」
涼しい顔で続ける。
「無下にはできませんわ」
店主は嬉しそうに頷き、奥へ下がっていく。
残されたのは、沈黙だった。
「……お前」
「何ですの?」
「分かってて言ってるだろ」
「何のことやら」
そう答えると、彼は小さく舌打ちした。
けれど――
彼の耳が、ほんのり赤い。
「……勘違いするだろ」
低く落ちた声。
私は先に届いた紅茶を一口飲んだ。
「してください」
迷いなく答えた。
「は?」
彼の間の抜けた声が返る。
「義務じゃなくて、俺を選べ……と。そう仰ったのは、セスでしょう?」
ほんの少しだけ、言葉を柔らかくする。
「今回ので、察してください」
最後だけ、声がわずかに小さくなる。
自分でも分かるほど、頬が熱い。
視線を逸らした。
沈黙。
彼から返事はない。
恐る恐るセシル様を見ると、いつもの余裕も皮肉もなく――ただ、じっと私を見ていた。
その視線の重さに、余計に心臓が跳ねる。
ちょうどその時。
「お待たせしました、恋人セットでございます」
店主の朗らかな声とともに、皿が置かれる。
二つ並んだ小さなケーキ。
赤い果実が、寄り添うように飾られている。
私は慌てて背筋を伸ばす。
「……さ、食べましょう」
まだ少し照れたまま、彼の顔を見ないようにしてフォークを手に取る。
うまく切ろうと、そっと刃を入れかけた瞬間。
「……ほんとに、そう思っていいのか?」
彼の声が、いつもより低い。
けれど震えているわけではない。
確かめるような怖れるような、そんな響き。
私はゆっくりと彼を見る。
空色の瞳が、真っ直ぐに私を捉えていた。
「……ええ」
指先が、少し震えているのが分かる。
それでも、目だけは逸らさなかった。
数秒。
やがて――
セシルの肩から、ふっと力が抜けた。
それから、小さく笑う。
「……はは」
こぼれたような笑い。
いつもの余裕のある笑みじゃない。
どこか、無防備な様子。
「こんなにも嬉しいんだな」
自分でも驚いているような声。
その表情が、あまりに優しくて。
胸が、強く打つ。
視線を外せない。
彼は少しだけ首を傾けた。
「俺のことを好きにさせる自信はあった」
いつもの調子に戻ったようでいて、声はまだ柔らかい。
「けど」
ほんの一瞬、間が落ちた。
空色の瞳が、揺れる。
「どこかで、お前は最後には逃げると思ってた」
その言葉は、軽くない。
強がりもない。
ただの本音。
「義務とか、妹とか、そういう理由でな」
苦笑が混じる。
「俺を選ぶとは、正直思ってなかった」
胸が、締めつけられる。
こんな声で、本音を話す人だったのか。
「……でも」
視線が、真っ直ぐ私を捉える。
柔らかく、確かな熱を帯びて。
「逃げないって言うなら」
彼はゆっくりと、息を吐く。
「ちゃんと、喜んでいいんだな」
その笑顔は、眩しいくらい優しい。
胸が、高鳴る。
こんな顔を向けられて、平静でいられるはずがない。
指先がわずかに震えた。
けれど今度は、嬉しさで。
「……ずるいですわ」
小さく零すと、彼は少しだけ目を細めた。
「どっちがだ」
柔らかい声。
その響きに、鼓動がまた跳ねる。
私はようやくフォークを持ち直す。
「いただきましょう」
かすかに震える指先を隠すように。
ケーキを小さく切り分け、口に運ぶ。
――甘い。
けれど今は、それどころではない。
向かいから、視線を感じる。
「……美味いか」
「ええ」
微笑んで返した。
「とても」
彼もフォークを取り、一口食べる。
そして、ふっと笑った。
「確かにな」
それはケーキのことなのか、それとも――
答えは、聞かない。
聞かなくても分かるから。
窓の外では、午後の光がやわらかく差し込んでいる。
小さな丸卓の上。
甘い香りと、静かな鼓動。
もう、言葉はいらない。
向かい合ったまま、互いに視線を外さずにいられる距離。
それだけで、十分だった。
店を出ると、外気が頬を撫でた。
甘い香りがふっと遠ざかり、代わりに街のざわめきが耳に入る。
さっきまで向かい合って座っていたはずなのに。
妙に近かった距離が、今さらになって胸を騒がせる。
隣に立つ彼を見上げた、そのとき。
セシル様が、無言のまま手を差し出した。
当然のように、そこにある掌。
……どうするべき?
この手を取ってもいいのだろうか。
指先が、わずかに動いた。
けれど、触れる前に止まる。
その一瞬。
「……ったく」
低い声が落ちた。
次の瞬間、躊躇っていた私の手を、彼が掴む。
強引だけど、乱暴ではない力で。
拒める余地を残したまま、それでも逃がさないような握り方。
そのまま、絡めるように握られた。
「迷うな」
短く、言い切る声。
鼓動が跳ねる。
「ここには俺たちの事を知らない奴らばっかりだ」
だから何も問題はない、と。そういう理屈なのだろう。
理屈よりも先に、彼の手の温度が伝わる。
大きくて、あたたかい。
私は、視線を落としたまま、小さく答える。
「……はい」
それだけで精一杯だった。
頬が熱い。
繋がれた手は、解かれない。
振りほどくことも、できたはずだ。
けれど私は――
そのまま、歩き出した。
ほんの少しだけ、彼の歩幅に合わせながら。
石畳を踏む音が、規則正しく続く。
王城へ向かう道は、先ほどよりも人通りが少ない。
繋いでいた手は、まだ離れていない。
――今のうちに。
「……セシル様」
「ん?」
横を歩く彼は、こちらを見ない。
「王城へ戻りましたら」
一拍、呼吸を整える。
「元の距離感でお願いいたします」
彼の足が、わずかに止まった。
「……なぜだ」
低い声。
責める響きはない。ただ、本気で分からないというような声。
私は視線を落とす。
「貴方には、婚約者がいらっしゃいます」
はっきりと言葉にすると、胸の奥がひりつく。
けれどそれを、顔には出さない。
「セレフィーナ様がおられる以上、あまり目立つ行動は——」
言い終わる前に、彼の指が強く絡む。
「……帰るのやめるか」
唐突な言葉に、顔を上げた。
「は?」
「このまま、どこか行けばいい」
冗談にしては目が笑っていない。
けれど、目は逸らさない。
「ダメです」
即答した。
「それは、絶対に」
数秒の間、沈黙が落ちる。
それから、彼が小さく息を吐いた。
「……はあ」
長く吐かれた息が、妙に大きい。
繋いだ手はそのままなのに、空気だけが少し子供じみた。
「これでは何も変わらん」
ぽつりと落ちた言葉。
「……準備は整ってきているのでしょう?」
歩調を崩さぬまま、問いかける。
彼の横顔が、わずかに曇る。
「そうだが……」
歯切れの悪い返答。
私は静かに息を吸う。
「なら、そこまでは我慢してください」
視線は上げない。
感情を乗せれば、きっと揺らぐ。
「今はまだ、その時ではありません」
彼の指先が、わずかに強張る。
「……我慢、か」
低く、噛み締めるような声。
「貴方が動く時は、決定的でなければならない」
ようやく彼を見る。
「中途半端は、許されません」
それは忠告であり、願いでもあった。
数秒の沈黙。
彼は不機嫌そうに眉を寄せる。
「……お前はいつもそうだ」
「何がです?」
「俺の感情を優先してくれない」
否定はしない。
「当然です。貴方は王子ですから」
少しだけ、彼の指の力が抜ける。
やがて、渋々という風に息を吐いた。
「……分かった」
本意ではない声。
「そこまでは、我慢する」
“そこまで”という言い方に、わずかな執着が滲む。
私は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その礼に、彼はわずかに顔を背ける。
「礼を言われる筋合いはない」
拗ねたような声。
それでも——
繋いだ手は、まだ離れない。
王城の門が、遠くに見え始める。
時間は、もう残り少ない。
更新遅くなりました!
明日から通常通りの更新します。
次話からいろいろと変化していくので、楽しみにしていただけたら嬉しいです。
日常のまったりは終わります。




