85.もう一つの名前。
衣擦れの音が止む。
鏡の前に立ち、自分の姿を改めて見つめた。
淡い灰青の簡素なワンピース。
装飾は控えめ。
髪は高く結い上げず、低く髪留めでまとめている。
どこにでもいる商家の娘にしか見えない。
「……こんなものでしょうか」
振り返ると、扉にもたれていた彼と目が合った。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、視線が止まる。
「どうですか?」
沈黙。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「悪くない」
短い。
だが、目は逸らさない。
「着飾っているお前も嫌いではないが」
彼は一歩、近づく。
「そういう格好もいいな」
真っ直ぐすぎる声。
「……」
言葉が詰まる。
「似合っている」
とどめのように告げられる。
胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
「……溶け込めているのなら、それで十分です」
視線を逸らした。
「溶け込むのが惜しいくらいだな」
さらりと言う。
「セシル様」
たしなめる声が、少しだけ弱い。
彼は小さく笑った。
「行くか」
切り替えが早い。
私は外套を羽織りながら問う。
「どの門から出るのですか?」
正面門は使えないはずだ。
記録が残る。
「門は通らん」
彼は、当然のように告げた。
「……?」
「ついてこい」
それだけを告げて、歩き出す。
城の廊下を進み、人気のない回廊へ。
さらに奥。
古い石壁の一角で、彼は立ち止まった。
何気なく壁の装飾に触れる。
すると、かすかな音が落ちる。
重い石が、ゆっくりと動いた。
「……抜け道」
「幼い頃に見つけた」
悪びれない声。
「何度か改修している」
慣れた手つきで中へと足を踏み入れる。
薄暗い通路。
石の匂い。
外の光が、遠くに細く見える。
セシル様は振り返る。
その目は、いたずらを含む少年ようだった。
「手を貸そうか?」
差し出された手。
一瞬、迷う。
「……結構です」
そう言いながらも、裾を持ち上げて慎重に進む。
彼は小さく笑った。
数歩先。
石の扉を押し開くと、眩しい光とざわめきが一気に押し寄せた。
城の空気とは違う。
熱と匂いと、生活の音。
「さ、二人で出かけようじゃないか」
どこか誇らしげに、告げる。
その横顔は、生き生きしていた。
しばらく歩くと、ざわめきと匂いが強くなる。
焼き立てのパン。
香草。
行商人の呼び声。
思わず足が止まる。
その隣で、彼は軽く息を吸った。
そして、ふっと肩の力を抜く。
「親父、久しぶりだな」
声が少しだけ低く、柔らかくなる。
果実を並べていた店主が顔を上げた。
目を細め、にやりと笑う。
「おや、セスじゃないか」
――セス。
自然な呼び名。
「最近、顔を見せなかったな」
「ちょっとな。色々あって」
曖昧に笑う。
今の彼には王子としての顔が、ない。
「今日は布を見に来たんだ」
「ほう?」
店主の視線がこちらへ向く。
値踏みするようで、しかしどこか楽しげだ。
「そちらのお嬢さんは?」
一瞬、言葉を選ぶ前に。
「連れだ」
彼が先に言う。
それ以上は語らなかった。
「へぇ」
店主は笑った。
「隅に置けねぇな、セス」
「うるせぇ」
あっさり返すもその声に、棘はない。
その時、小さな影が飛び込んできた。
「セス兄ちゃん!」
外套を掴まれ、セシル様は迷いなくしゃがむ。
「走るな。転ぶぞ」
声が、柔らかい。
小さい子は、セシル様に木箱を差し出す。
「この前の、壊れてない!」
「当たり前だろ」
目を細める。
「誰が直したと思ってる」
彼は、小さい子の頭を撫でる。
あまりにも自然
今の彼は、王子であることを忘れそうになるほどに。
「行くぞ」
立ち上がり、こちらを見る。
ほんの少しだけ誇らしげな顔。
「悪くないだろう?」
試すように言う。
「……聞きたいことが、山ほどありますわ」
―――――――――
人通りの少ない路地に入ったところで、私は足を止めた。
彼を見る。
「何だ?」
「なぜ"セス"なのですか?」
率直に言う。
「……あれほど親しげなのは、なぜです?」
あの店主も、あの子供も。
まるで昔からの仲のように。
彼は一瞬、目を細めた。
それから、小さく笑う。
「なに、大した理由じゃない」
彼は歩きながら、外套の襟を軽く払う。
「子供の頃、よく抜け出していた」
「……抜け出して?」
「城は退屈だったからな」
あっさりと告げる。
「こっちの方が面白いだろ」
視線を通りへ向ける。
「最初は名も名乗らずに歩いていたがな。呼びづらいと文句を言われた」
「文句を……?」
「"坊主"だの"兄ちゃん"だの、好き勝手にな」
肩をすくめる。
「それで、適当に名を縮めた。"セス"ってな」
セシルの、真ん中を抜き出しただけの名。
たしかに、自然ではある。
「王族だと疑われなかったのですか?」
そこが一番の疑問だった。
彼は、軽く自分の髪に触れる。
青い髪。
彼は王家特有の金ではない。
「この色のおかげだ」
淡々と告げる。
「王家の者は皆、金だ。この色は珍しいが、王族とは結びつかんだろ」
「……」
「幸い、顔も広くは知られていない。俺は特にな」
さらりと言うが、それは本来あり得ぬことだ。
「ここでは、ただのセスとして過ごしている」
彼は私へと視線を向けた。
その瞳は、穏やかだった。
「ここで話を交わしていくうちに、顔を覚えられた。それだけだ」
それだけ。
けれど、その"それだけ"が難しいことを、私は知っている。
「……危険ではなかったのですか?」
思わず問う。
彼は少しだけ考えるように空を見た。
「最初はな」
「では、なぜ」
「面白かったからだ」
迷いのない声だった。
私は眉を寄せる。
「面白い、だけで?」
「それだけだ」
あっさりと返る。
視線が、行き交う人々へ向いた。
荷を背負う男。
子を抱く母親。
値を交わす商人。
「人がどう暮らしているのか、それが気になった」
静かな声。
「城の中にいれば、報告でしか知らん」
足元の石畳を軽く蹴る。
「だが、ここに来れば分かる。誰が笑い、誰が困っているのか。
そういうのは、ここでなければ見えないだろ」
彼は王になる野心はない。
けれど、目を逸らす気はない。
私は、少しだけ視線を落とした。
「……そうでしたか」
彼は私を見る。
「ここでは"セス"だ」
何気ない声。
だが、どこか試すようでもある。
「その名で呼べ」
一瞬、息が詰まる。
「……セス様」
反射のように口にした。
彼は眉を上げる。
「様、はいらんだろ」
「ですが……」
「ここでは王子ではない」
青い髪が、陽に透ける。
「ただの男だ」
その言葉が、妙に重い。
呼び捨てなど、本来は許されるはずもない。
けれど。
私は小さく息を吸った。
「……セス」
初めて、名をそのまま呼んだ。
口の中に、まだ馴染まぬ響き。
彼の目が、わずかに細まる。
「……悪くない」
短く告げる。
その声は、少しだけ柔らかかった。
胸の奥が、ひとつ音を立てた気がした。
ここでは彼は王子ではない。
――セス。
その名で呼んだ瞬間、ほんの少しだけ距離が縮まった気がした。
明日の投稿お休みします……。




