83.からかわないでちょうだい。
ルミナの部屋は、いつも少しだけ甘い香りがする。
花のせいか、それとも彼女自身の空気のせいか。
向かいに座ったルミナは、期待するような目でこちらを見ていた。
……言うべきではなかったかもしれない。
それでも、私は口を開いた。
「――ってことがあったわ」
一瞬、きょとんとした顔をした。
「まあ」
両手を口元に当てる仕草。
目が、ぱっと輝く。
……どうしてそこで嬉しそうになるの。
私は困っているのに。
「お姉様、それは……」
「誤解しないで」
先に釘を刺した。
「あの方は寝不足だったの。意味なんてないわ。ただの気まぐれよ」
「気まぐれで、わざわざ添い寝なんてしないわ」
「……」
口を開きかけて、閉じた。
反論が、見つからない。
ルミナはしばらく私を見つめたあと、ふっと楽しそうに笑った。
「なるほど……」
何がなるほどなの。
「セシル殿下って、いわゆる"俺様系"ね」
「……何の話し?」
聞き慣れない単語に、思わず眉をひそめた。
「好きな女性には遠慮なく距離を詰めて、逃げても追いかけるタイプよ」
「分類しないでちょうだい」
「したくなるわ」
楽しそうに断言される。
私はため息をついた。
「ただ強引なだけよ」
「いいえ」
即答。
「興味のない相手には、そこまでしないのよ」
言葉が詰まる。
「お姉様相手だからよ?」
静かな確信。
胸が少しだけ騒いだ。
「……随分と理解してるのね」
「ええ。そういう殿方は、何度も見てきましたもの」
「……どこでよ」
思わず額に手を当てる。
けれどルミナは気にした様子もなく続けた。
「好きになったら一直線。遠慮なし。独占欲強め。……典型的だわ」
なぜ、そんなに詳しいのかしら。
私は呆れつつも、否定しきれない自分がいるのが悔しい。
確かに彼は、私が逃げても躊躇いなく距離を詰めてきた。
迷いもなく、当然のように。
ルミナは、ふと窓の外へ視線を向ける。
「ユリウスも、そのくらいの度胸があればいいのに」
胸が、わずかに引っかかる。
「ユリウス殿下は、ああ見えて慎重なのよ」
「慎重すぎるのわ」
即答。
「正統派の王子様ではあるけれど」
……また、意味の分からないことを。
本当に、この子は。
私は小さく息を吐いた。
「それより」
話題を変える。
「式は決まったのでしょう?」
セシル様から耳にした話を、確かめるように告げた。
ルミナはあっさりと頷いた。
「ええ。私が学校を卒業してから、という話よ」
「そう」
それなら妥当ね。
在学中に婚儀を急ぐ理由もない。
王家としても体裁が保たれる。
「きちんと学業を終えてから、と言ってくれたわ」
なるほど。
きちんと配慮はあるらしい。
「とても助かるわ」
その声が、わずかに弾んでいるのが分かった。
私は紅茶を口に含む。
「お姉様」
ルミナが、ふと思い出したように言う。
「第一王子殿下のこと、知ってる?」
「アレクシス殿下?」
以外な名前に、少しだけ眉を上げる。
「うん」
「……一度だけ、話したことがあるわ」
ほんの短い対話だ。
けれど、印象は強い。
穏やかで、柔らかい物腰。
誰に対しても同じ高さで視線を合わせる人。
王族特有の威圧も、選民意識もなかった。
「どうして?」
私が問うと、ルミナは少し声を落とした。
「王位継承権を、正式に辞退したみたいよ」
「……え?」
一瞬、意味が理解できなくて聞き返してしまった。
「……正式に?」
声は抑えたつもりだったのに、わずかに低くなる。
「ええ。第一位から外れたわ」
どうして――
問いが、胸の奥から零れる。
あの方なら、王になれる器だ。
あれほど自然に人の心を掴める方は、そういない。
「前からユリウスには聞いていたの。いずれ退くつもりだって」
一拍。
「自由になりたい、と。けれど急ぐつもりはなかったみたい。ユリウスたちが卒業するのを待っていたそうよ」
「……そう」
すべて整えてから、自ら退く。
無責任な放棄ではない。
むしろ、誰よりも王の在り方を理解しているからこその選択。
ルミナは紅茶を置き、わずかに指を組んだ。
「――そこで本題」
先ほどまでの柔らかい声とは違う。
「ユリウスとセシル殿下の派閥についてよ」
私は視線を上げる。
「アレクシス殿下を支持していた方々の大半が、ユリウスを支持し始めたわ」
……やはり。
あの方が退いた以上、受け皿は一つ。
「……そうなるわね」
驚きはない。
アレクシス殿下の支持層は"王としての資質"を見ていた者たちだ。
ならば、穏健で聡明なユリウス殿下へ流れる。
……ここまでは、あの人の思惑通りね。
「まだ正式な発表はされてないけど」
ルミナは続ける。
「聖女である私と、ユリウスの式も決まっているし……」
「……セシル様を支持する派閥が、焦りだしそうね」
言葉は冷静に落とす。
勢力図は明らかに傾く。
「そうね。セシル殿下に式を早めるよう進言しているそうよ」
ルミナは静かに告げた。
「……けれど、それを延期している」
私が告げると、ルミナの視線がわずかに鋭くなる。
「ええ。何度打診されても、殿下は首を縦に振らないみたい」
一拍。
「思惑が読めないの。最近は公務も控えがちだと聞いているわ」
「……それは」
言葉が止まる。
違う。
控えているのではない。
目立つ公務を避け、重要な部分だけを――ユリウス殿下の名で通している。
支持率を上げるため。
セシル様は、自分が前に出ることを拒んでいる。
だから、わざと退いている。
「……セシル殿下は、何を隠しているの?」
ルミナの声が、真っ直ぐに響く。
私はただ、真っ直ぐに見返した。
「……それは、言えないわ」
空気が、わずかに張る。
セシル様が秘密にしていることなら、私からは口にできない。
それだけは、守ると決めていた。
ルミナはしばらく私を見つめていた。
「……分かったわ」
すると、ゆっくりと頷いた。
「お姉様が知っているなら、それで十分よ」
胸の奥が、わずかに痛んだ。
「……ごめんなさい」
謝るつもりはなかった。
けれど、言葉が零れた。
「いいのよ」
ルミナは柔らかく笑う。
「ただ――お姉様が不幸になる道でなければ、それでいいの」
「……ルミナ」
その名を呼ぶと、彼女は少し肩を竦めた。
「セシル殿下とは軽口を叩く中ではあるけど、嫌な方じゃないわ」
そして、少しだけ悪戯っぽく。
「お姉様を選んでいる時点で、見る目は確かだもの」
一瞬、呼吸が止まる。
「……選ばれているわけではないわ」
そう返しながらも、心の奥が静かに熱を帯びた。
ルミナはくすりと笑う。
「本当は嬉しいくせに」
何も返答せず、ただ誤魔化すように、紅茶を一口飲んだ。
認めたら、負けた気がしたから――。




