82.心臓に悪いですわ。
数日後。
夜更けに届いた呼び出しは、短いものだった。
――来い。
理由は書いていない。
けれど、最近のセシル様の忙しさは知っている。
政務と調整、そしてセレフィーナへの対応。
彼の部屋の扉を叩いた。
「入れ」
低い声が聞こえ、中へ足を踏み入れた瞬間だった。
「……え」
視界が、ぐらりと揺れた。
次の瞬間、身体が宙に浮く。
「セ、セシル様……!?」
当然のように抱き上げられている。
「静かにしろ」
お姫様抱きのまま、迷いなく寝台へ向かわれる。
「お待ちください。これは――」
最後まで言えなかった。
柔らかな寝具に沈められ、そのまま隣に体温が落ちる。
背に回された腕が、思ったよりも強い。
「……最近、寝ていない」
耳元で、低く落ちる声。
「それは知っていますが、だからといって――」
「だからだ」
ぎゅ、と力が少し強まる。
胸に押し当てられる額。
信じられない。
あのセシル様が、こんなふうに――。
「少しだけだ」
低い声はどこか、甘えるようで。
「別に、いいだろ」
短い言葉。
けれど、その声には疲れが滲んでいた。
「補給させろ」
「……補給?」
「お前で」
顔に熱を持つのが分かった。
「なっ……!」
離れようと身じろぐと、さらに抱き込まれる。
「動くな」
「セシル様……っ」
心臓がうるさい。
こんな距離、正気ではいられない。
「……速い」
胸に耳を当てる形になってしまい、鼓動が直に伝わる。
「……お前もだな」
「な、何がでしょうか」
「心臓の音」
改めて言われると恥ずかしい。
「聞かないでください……!」
小さく言うと、彼は喉の奥で低く笑う。
けれど、抱く腕は少し緩んだ。
「嫌か?」
不意の問い。
嫌ではない。むしろ――安心する。
それを認めるのが、ただ悔しいだけで。
「……嫌では、ありませんわ」
小さく、正直に答える。
腕の力が、少しだけ優しくなる。
「そうか」
短い返事。
けれど、満足げな様子だ。
「なら、このまま寝る」
「私は眠れる自身がありません……」
「そのうち慣れる」
「慣れません」
即答すると、また彼は笑う。
ああ、本当に……この方はずるい。
「セシル様」
「なんだ」
「……お疲れ様です」
ほんの少しだけ、こちらからも腕を回す。
一瞬の沈黙。
そして。
「……悪くねえ」
声が、和らいだ。
忙しいからと、こうして呼ばれる。
それが嫌ではない自分がいた。
私は、そっと彼の体温に身を委ねた。
規則正しい寝息が、すぐ近くで聞こえる。
……眠っている。
そっと視線を上げると、セシル様の表情は驚くほど穏やかだった。
いつもは鋭い眉も、わずかに緩んでいる。
今のうちに、抜け出そう。
このまま朝を迎えるわけにはいかない。
侍従が来れば終わりだ。
私は、ゆっくりと腕を外そうとする。
指先でそっと、起こさないように慎重に。
――その瞬間。
「……どこへ行く」
低く、掠れた声。
ひ、と小さく行きが詰まった。
目は閉じたままなのに、腕の力が強まる。
「セ、セシル様……起こしちゃいました?」
「……起きてねぇ」
声の調子からして、完全に寝ぼけている。
「では、離していただけますか」
「嫌だ」
間髪入れない。
しかも少し子どものような声。
普段では絶対に聞けない響きだ。
「お仕事に差し支えます」
「お前がいない方が差し支える」
さらりと、とんでもないことを言う。
目は閉じたままなのに。
抱き寄せられ、顔が胸元に押し付けられる。
……息が詰まる。
「……セシル様」
講義の声のつもりだったのに、弱い。
「もう少し……」
寝ぼけたままの声が、耳元に落ちた。
「いなくなるな」
ぎゅ、と服を掴まれた。
本当に、無意識なのだろうか。
これだからこそ、困る。
「……分かりました」
気づけば、そう答えていた。
腕の力が、ほんの少し緩む。
「……ならいい」
小さな吐息。
そのまま、また深い呼吸へと変わる。
今度は完全に眠っている。
私はしばらく動けなかった。
胸の奥が、妙に熱い。
寝ぼけているとは言え、あんなふうに縋るように言われて。
「……ずるいわ」
小さく呟くも、彼は起きない。
そっと、今度は逃げようとはせず、彼の腕の中に身を戻した。
侍従が来るまでなら……許されるだろうか。
ほんの少しだけ。
―――――――――
目を覚ました瞬間、見慣れない天蓋が視界に映った。
……いいえ、違う。
見慣れないのではない。
見慣れてはいけない天蓋だ。
思考がゆっくりと昨夜を思い出す。
彼からの呼び出し。
抱き込まれたまま、抜け出せなかったこと。
そして――。
「……っ」
すぐ目の前に、整った顔があった。
近い。
セシル様の寝顔。
長い睫毛が影を落とし、呼吸は穏やかで。
昨夜と同じく、腕はしっかりと私に回っている。
気づけば、私はそのまま眠ってしまったらしい。
鼓動が一気に早まる。
この距離は、理性に悪い。
そっと、ほんの少しだけ身体を引こうとする。
その時。
「……起きたか」
瞼がゆっくりと開く。
空色の瞳が、真っ直ぐに合う。
「……セシル様……おはようございます」
何事もなかったかのように挨拶をする。
声が少しだけ上擦った。
彼はまだ半分眠そうな目で、じっとこちらを見ている。
そして、何の前触れもなく。
額に、柔らかな感触が落ちた。
――ちゅ、と小さな音。
思考が止まる。
「な……」
言葉が出てこない。
「朝の挨拶だ」
平然としている。
だが声はまだ低く、少し掠れている。
「そのような挨拶は知りません」
「今、作った」
腕が緩むどころか、さらに引き寄せられる。
「よく眠れた」
満足そうな声。
「……それは、良かったですわ」
視線を合わせられない。
顔が熱い。
「お前も」
彼の指先が、頬にかかる髪を払う。
仕草は優しいのに、距離は甘い。
「眠れたみたいだな」
まるで、自分の腕の中で眠らせたことが当然だと言わんばかりに。
「……おかげさまで」
精一杯の皮肉に、彼は小さく笑う。
「はは」
再び、額に軽く触れる。
今度はゆっくりと。
「セシル様……」
「なんだ」
「……心臓に悪いです」
心の底からそう思う。
彼は目を細め、また小さく笑っていた。
まるでこちらの動揺を味わうように。
「知っている」
彼は離れようとしない。
「もう少しだけ」
低く囁く。
私は、小さく息を吐いた。
「……本当に少しだけですよ」
心のなかでも、言い聞かせながら。
私は彼の胸元に視線を落としたまま、動かなかった。
すると、遠くで廊下を歩く足音が聞こえた。
……まずい。
もうそろそろ、侍従が動き始める。
「セシル様」
少し強めに呼んだ。
「なんだ」
まだ寝台の上で余裕の声。
「使用人が来ます。私はこれで失礼します」
腕を外そうとすると、名残押しそうに少しだけ力が入る。
「もうか……」
「"もうか"ではありません」
どうにか身を起こし、寝台から降りた。
髪を整え、乱れを確認する。
心臓はまだ落ち着かない。
背後から、くすりと笑う声。
振り返ると、セシル様は肘をついてこちらを見ていた。
彼の瞳が、楽しそうに細められている。
私をからかう時の、あの目。
「今夜も来い」
あまりにも当然のように告げる。
「行きません!」
反射的に即答してしまった。
彼の笑みが深まる。
まるで、拒絶を楽しんでいるかのように。
「なぜだ」
「なぜも何もありません」
扉へ向かう足が少し早まる。
「補給が足らん」
「知りませんわ」
彼は、低く笑う。
その声が、余裕そのもの。
「お前が来ないなら、俺が行くか」
「来ないでください!」
振り返るつもりなどなかったのに。
彼の策略に乗ってしまった。
「そうか」
あっさりした声。
けれど。
「いつでも待ってるからな」
まるで私が来ると分かっているような声。
胸が一瞬、揺れる。
――迷うな。
「……失礼します!」
逃げるように扉を開け、廊下へ出る。
静かな廊下。
誰もいないことに、ほっと息をついた瞬間。
部屋の中から、低い笑い声が漏れた。
楽しそうで余裕たっぷりに。
「……絶対、行きませんわ……」
小さく呟いた。
胸の奥が、まだ温かい。
――もしまた呼ばれたら。
ほんの少しだけ、迷う自分がいる。
それが一番、悔しい。
部屋の扉は閉じられたまま。
けれど、その向こうで笑っている人の顔が、はっきりと思い浮かんでしまった。




