81.対立。
春の庭園は、淡い色に満ちていた。
若葉はまだ柔らかく、風が吹くたびに光を含んで揺れている。
白い花弁が、石畳の上に静かに舞い落ちていた。
王城の奥庭。
本日の茶会は、春の陽気に合わせて整えられていた。
円卓の上には、薄桃色のクロス。
銀の茶器が陽光を受けて控えめに輝いている。
侍女として働き始めて数ヶ月が経っていた。
「ネメシア」
背後から低い声。
振り向けば、セシル様が庭園へと歩み出ているところだった。
春の光を受けたその横顔は、どこか穏やかだ。
「準備は整っております」
一礼する。
彼は、卓を一瞥し小さく頷いた。
「……完璧だな」
短い言葉。だが、信頼が滲んでいた。
私は視線を伏せる。
やがて、控えの侍従の声が庭園の入口から響いた。
「セレフィーナ様がお見えです」
春の風がひときわ強く吹き、花弁が舞う。
そして、彼女が現れた。
淡い藤色のドレス。
計算された優雅さ。
そして、変わらぬ微笑。
「ごきげんよう、セシル殿下」
それは完璧な礼。
彼女の視線が、ゆっくりと持ち上がり――私に止まる。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
瞳の奥で、光が揺れた。
「……まあ」
柔らかな声。
「懐かしいお顔が見えますわね」
空気が静かに引き締まる。
「お久しぶりでございます、セレフィーナ様」
私は一礼する。
侍女としての所作で。
「現在、殿下専属侍女を務めております」
沈黙。
鳥のさえずりだけが、妙に鮮明に聞こえた。
セレフィーナの扇が、ゆるやかに動く。
「そう」
微笑は崩れない。
「卒業式以来、ですわね」
私は、静かに答える。
「そうですね」
それ以上は言わない。
セレフィーナは、ゆっくりと席へ向かう。
その動きは優雅。
だが、足取りはわずかに硬い。
「殿下」
席に着きながら、穏やかに彼女は微笑む。
「まさか、あの時のご判断が……こう繋がるとは思いませんでしたわ」
探り、確認する声。
セシル様は淡々と答える。
「判断は、間違っていない」
そして、短く。
「今もな」
否定も肯定もしない。
だが、切り捨ててもいない。
私は紅茶を注ぐ。
彼女と視線が交わるたびに、火花が散る。
セレフィーナはカップを持ち上げながら、私を見る。
「侍女にしては、随分と堂々としていらっしゃるのね」
柔らかいが、明らかな棘のある声。
私は目を伏せたまま答える。
「努めを果たすのみでございます」
風が、花弁を運ぶ。
一枚が、卓上に落ちた。
その瞬間。
「ネメシア」
躊躇いなく自然に、名を呼ばれた。
私は一歩、彼の傍へ寄る。
「はい、殿下」
セレフィーナの視線が、わずかに動いた。
距離の近さ。
その違和感を、確かに捉えている。
セシル様は、カップを持ったまま私を見上げる。
「少し冷めた」
私は、静かに受け取る。
「失礼いたします」
ほんの僅かに指先が触れるも、気にせずにすぐに新しい茶を用意し直した。
セシル様は、何気ない様子で続ける。
「最近は、こいつがいないと落ち着かなくてな」
さらりと、あまりにも無造作に告げた。
セレフィーナの扇が、ぴたりと止まる。
「……まあ」
目が笑っていない。
「それは、心強いことですわ」
声は甘く、わずかに低い。
気にせず、セシル様は続ける。
「気が利くし、無駄がない」
淡々と。
「俺の思考を読むのが早い」
視線が、私に向く。
「な?」
問いかけるように。
私は一礼する。
「恐れ多いです」
それだけを告げた。
けれど、セレフィーナは見逃さない。
学校時代、彼女が最も嫌ったもの。
私とセシル様の、距離。
「……殿下」
彼女はゆっくりとカップを置いた。
「専属侍女というものは、そこまで近しい者ですの?」
微笑みの奥に、明確な牽制。
セシル様は、ほんの僅かに口角を上げた。
「信頼していなければ、傍に置かない」
即答だった。
セレフィーナの瞳が、僅かに鋭くなる。
「……そうですか」
静かに。
「ですが、誤解を招くこともございます」
彼女の視線が私に向いた。
"身分をわきまえなさい"という無言の圧。
私は、背筋を伸ばす。
その時セシル様が、不意に私の手首を優しく取った。
「誤解?」
視線はセレフィーナへ。
「何を誤解する?」
庭園の空気が、ぴたりと凍る。
私は驚きを飲み込んだ。
手首に触れる体温。
それはあまりに露骨で、意図的。
セレフィーナの笑みが、ついに僅かに揺らぐ。
ほんの一瞬。
「……殿下は、お戯れがお好きですのね」
声が、わずかに硬い。
しかし、セシル様は手を離さない。
「何を言ってる」
一拍。
「こいつは俺の側近だ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
庭園の一角だけが重い。
セレフィーナの手にしていた扇が、ぴたりと止まる。
笑っていないことを、もう隠していなかった。
「……側近?」
低い声。
「侍女ではなく?」
沈黙が続く。
次の瞬間、セレフィーナが立ち上がった。
椅子が僅かに音を立てる。
「殿下」
声が硬い。
「私は、貴方の婚約者です」
はっきりと強く告げる。
「王家と我家を結ぶ者として、貴方の隣に立つことを許されているのは私だけです」
怒りがむき出しを主張する声。
視線が私に突き刺さる。
「貴女は一度、切り捨てられた」
卒業式の記憶が蘇る。
あの視線、そして空気。
「それが答えだったはずでしょう」
声が僅かに震える。
怒りではない。焦りだ。
「なのに、どうして今ここにいるの」
それは問いではない。
私は静かに顔を上げた。
目をそらさずに、ただ彼女を見る。
「殿下が望まれたからです」
事実だけを述べた。
すると、セレフィーナの瞳が揺れた。
「望まれた?」
乾いた笑い。
「侍女として傍に置くことが?」
一歩、こちらへ近づく。
「距離を弁えなさい」
はっきりと。
「殿下に触れていいのは、私だけです」
嫉妬が剥き出しになる。
学校で何度も向けられた、あの瞳と敵意。
だが、今は違う。
そこにあるのは――恐れ。
セシル様が低く名を呼ぶ。
「セレフィーナ」
しかし彼女は止まらない。
「私はあなたを愛しています」
庭園に、その言葉が堕ちる。
重くて逃げ場がない。
「政略だから受け入れたのではありません」
彼女は強く、彼を見る。
「貴方を選んだのは、私の意思です」
次に、私を見る。
「だからこそ許せない」
息が荒くなる。
「また貴女が視界にいることが」
完全に仮面が剥がれた。
優雅な公爵令嬢ではない。
ただ、嫉妬する一人の女性。
沈黙が落ちる。
セシル様はただ小さく息を吐いた。
その様子が、彼女をさらに追い詰めた。
「……殿下は」
震える声。
「私を選んだはずでしょう」
その問いに、セシル様は返事をしない。
それが、答えだった。
セレフィーナの目が、はっきりと傷つく。
次の瞬間、彼女は扇を強く閉じた。
「……失礼します」
ドレスの裾が揺れる。
足取りは早く、庭園の出口へと向かい、そのまま去っていった。
静寂が訪れる。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「……よろしかったのですか」
彼を見ずに問う。
「別にいい」
即答。
けれど、私は続ける。
「あのような態度を取られて」
言葉を選ぶ。
「政治的に、問題はございませんか」
それが本題。
私個人の感情の問題ではない。
貴族派との均衡。
今日のあれは、明らかに線を踏み越えていた。
セシル様は一瞬だけ黙る。
そして、小さく息を吐いた。
「問題はない」
低い声。
「あれぐらいで揺らぐ婚約なら、とっくに破綻している」
わずかに肩をすくめた。
「……まあ、少し火をつけすぎたかもしれんがな」
私は視線を落とした。
「殿下がわざわざ火をつける必要はないのでは?」
「必要だ」
迷いが無いことが、余計に胸に刺さる。
「お前が全部飲み込むだろう」
その声には、僅かな苛立ちが混じる。
私は、動かしていた手を止めた。
「学校でもそうだったろ」
低く、抑えた声。
「あいつが何をしていたか、知らないとでも思ったか?」
風が庭の花を揺らしている。
私は、微かに目を伏せた。
「……守らなくていいと言いました」
「ああ。言われたな」
セシル様の口元が、僅かに歪む。
「だから言われた通りにした」
一拍。
「けど、今回は違う」
ゆっくり私へと視線を向ける。
「もう、お前を酷い目に合わせない」
それは命令ではなく、誓いのように聞こえた。
「……」
胸が、きゅっと締め付けられた。
――そんな顔をされると、困る。
守られるだけの存在を選ばなかったはずの私が、その言葉に足を止めそうになる。
だから、私はあの時も彼を拒んだのに。
「……私は、セシル様の評判を傷つけたくありません」
それは本音だった。
噂も敵意も、私に向くなら構わない。
けれど彼に向く日は――。
「俺の評価など、どうでもいい」
セシル様は、呆れたような表情をした。
「お前の方が大事だ」
わずかに近づく気配。
「お前は放っとおくと、悪い方へ突っ込んでいく」
その声には、怒りや苛立ちよりも――心配が滲んでいた。
「だから、俺の傍から離れるな」
低く、命じるような声。
けれど、その奥にあるのは後悔。
あの時、動けなかったことへの。
「セシル様は、本当に傲慢ですね」
「知っているだろう」
その声が、思ったよりも優しくて、胸の奥がまた静かに揺れた。




