80.貴方の隣に立つために。
その一言は、驚くほど静かだった。
ただ一人の男の、願い。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
――嬉しい。
それだけは、否定できない。
ここまで求めらることなど、想定していなかった。
けれど。
私は、ゆっくりと視線を落とした。
彼の衣を握ったまま、指先に力が入る。
「……それは」
喉が、少しだけ詰まる。
「今の私に、許されることでしょうか」
彼の腕の中にいるくせに。
今の私は、どこか遠く感じた。
「セシル様の隣に立てる身分ではありません」
胸の奥に、鈍い痛み。
嬉しいのに、素直に喜べない自分がいた。
「お傍に仕えることはできます」
けれど、と続ける。
「隣に立つことは……」
言い切れない。
それ以上を、望んでしまいそうだから。
セシル様は、しばらく何も言わなかった。
ただ、真っ直ぐに私を見ている。
やがて、ふっと小さく息を吐いた。
「……そんなことか」
その声は呆れたようで、どこか優しい。
彼の指が、私の顎に触れる。
そっと、上を向かせた。
「お前は、本当に」
わずかに目を細める。
「自分を低く見積もるな」
「ですが」
言いかけた瞬間、彼の親指が私の唇にそっと触れた。
制するように。
「身分の話なら、どうにでもなる」
あまりにあっさりと。
「俺が第二王子であることを、忘れるな」
その瞳には、王族の光が宿っている。
「爵位が必要なら与える。立場が必要なら作る」
その声には、迷いがない。
「お前が俺の隣に立つことを、誰にも否定させない」
鼓動が、強く跳ねる。
「……そんな、簡単なことでは」
「簡単ではない」
すぐに返ってきた。
「だが、不可能でもない」
彼の額が、私の額に軽く触れる。
距離が、ほとんどない。
「俺は、欲しいものを諦める気はない」
低く、はっきりと。
指先が、私の頬をなぞる。
「平民だから隣に立てない?」
わずかに、口角が上がる。
「なら、立てる場所まで引き上げようじゃないか」
傲慢。
けれど、ひどく甘い。
「お前が悩む必要はない」
抱きしめる腕が、確かに強くなる。
「俺がどうにかする」
私は、胸の奥に広がる熱を抑えきれない。
「……ずるい方」
小さく呟く。
「逃げ道を、くださらない」
「最初から与える気はねえ」
即答。
そのまま、私の額にそっと口づける。
優しく。けれど、確かな独占を込めて。
「そばにいろ」
低く、甘い声。
その言葉に、胸が震える。
彼にすべてを委ねれば、簡単に隣に立てるだろう。
けれど。
私は、そっと彼の胸に手を当てた。
押し返すほどではない。
ただ、距離をほんのわずかに作る。
「……セシル様」
視線を真っ直ぐに上げる。
「引き上げていただくばかりでは、隣には立てません」
一瞬、空気が変わる。
セシル様の瞳が、わずかに細められる。
私は続ける。
「セシル様が道を作ってくださるのなら」
小さく息を吸う。
「私は、自分の足でそこまで上がります」
彼の隣に立ちたいのなら、周りを納得させるまで。
彼の目が、じっと私を見つめる。
私は逸らさない。
「力も、信用も、実績も。それが侍女としてでも、積み上げてみせます」
今まで、何度倒されても立ち上がったように。
「セシル様の隣に立つ時は」
わずかに微笑む。
「"与えられた場所"ではなく、"掴み取った場所"でありたいのです」
沈黙。
暖炉の日火が、小さく弾ける。
次の瞬間。
セシル様の腕が、ぐっと強くなる。
逃がさないように。けれど、さきほどとは違う。
そこには、熱がある。
「……はは」
低く、小さな笑い。
珍しく、素直な。
「そう言うと思った」
彼の額が、再び私の額に触れる。
今度は、ほんの少しだけ荒い。
「そういうお前だから……」
強くて、優しい瞳。
「守られるだけで満足する女なら」
低い声。
「最初から目に入らない」
指先が、もう一度私の頬をなぞる。
その手つきは誇らしげで、どこか嬉しそうだ。
「這い上がる気か」
「はい」
迷わず答える。
彼の瞳が、深くなる。
「途中で倒れそうになったら」
唇が、私の耳元に近づいた。
「遠慮なく俺を使え」
甘い。けれど、命令のような強さ。
「お前が掴み取るなら」
腕が、さらに強くなる。
「俺は、その土台ごと奪ってやる」
心臓が、跳ねる。
「……共犯にする気ですね」
小さく笑う。
「最初からだろ」
一拍。
「俺とお前は、同じだろう」
悪を引き受ける覚悟。
守るために戦う覚悟。
そして、欲しいものは奪う覚悟。
私は、ゆっくりとかれの衣を握る。
今度は迷いなく。
「では」
視線を上げた。
「必ず、セシル様の隣に立ちます」
彼の瞳が、満足そうに細められた。
「楽しみにしている」
そしてほんの一瞬、真剣な声で。
「俺の女が、どこまで上がるか」
その言葉は、独占と誇りが混じっていた。
私は、そっと目を閉じる。
守られるだけではない。利用されるだけでもない。
彼の隣に並び立つ。
そのために、戦う。
その覚悟を、抱きしめる腕の中で固めた。
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